留守番 壱



 「週末友達ん家に泊まるから」
 チャーハンをレンゲで掻き込むように食べていた永里の一言に、叔父の手が止まった。長かった夏が終わり、ようやく秋になったかという頃。出掛けるのに丁度良い季候になったので、永里は休みの度にどこかしらに出掛けていた。
 けれど泊まるとは聞いていない、初耳だった。
「週末?俺が旅行にいく日か」
「そう。連休だし。いいだろ」
「誰の家だ。泊まりならもっと早く言え」
 保護者である叔父は突然の知らせに眉を寄せた。しかし永里はお構いなしに餃子に噛み付いては小さく藻掻いた。中から溢れ出した肉汁が熱かったのだろう。
 冷たいものも熱いものもすぐにかぶりつくせいだ。舌を火傷した過去は数知れず。なのに懲りないらしい。
「先方にも連絡を入れなきゃな。お世話になるんだから」
「別にいいと思うけど」
「良くない。こういうのはちゃんとしておいた方がいい」
 両親の代わりとして、叔父は兄弟の交友関係の把握と、保護者たちへのフォローには神経質だ。何かあれば父に申し訳が無いと思うらしい。それに親がいないから放置されている。育ちが悪いなんて思われるのは我慢ならないようだ。
「永里。食い過ぎだろ」
「はあ?んなことねーし。ちゃんと自分の分だけしか食ってねえよ」
「それで何個食べたんだよ。覚えてないだろ」
 大皿に盛られた餃子の数は三人で均等に割れていたのに、永里がスナック菓子のように次々口に放り込んではあっという間に自分の分だけでなく、悠里と叔父の陣地まで侵入してきた。余所見をしながら食べていたので、無意識に箸を伸ばしてきたのだろうが、それでも四つめにもなると目溢し出来ない。
「食ってねーし」
「俺の分まで食ってんだよ。しかもそれで五つ目だ。余所見しながら食べてたからだろうが。食い意地だけは人一倍だな」
「だから食ってないって言ってんだろ!」
「はいはい。永里には俺の分をやろうな。今度から個別に盛ってやるよ」
 適当に宥めながら叔父は五つの餃子を悠里へ、二つを永里の前に渡している。叔父の分の餃子が残り一つになってしまい、永里がまずいという顔をしては反発を収める。
「叔父さん、餃子もうないじゃん」
「俺はもう堪能した。そんなに餃子が食いたいわけでもなかったしな。でも今度からはもっと多く作るさ。育ち盛りの食欲を舐めてたな。チャーハンと中華スープはまだまだあるからそっちで勘弁してくれ」
 涼しい顔をする叔父に、そっと餃子を返す。それに永里も無言で与えられた餃子二つを戻していた。
「別にいいのに。食えよ少年たち」
「チャーハンが美味いからいい」
 そう言いながら永里はこちらを睨んでくる。叔父に気を遣わせてしまったのはおまえのせいだという目だった。だが最初から永里が餃子の数を間違えなければ済んだはずのやりとりだ。
 悠里にとってみれば理不尽なのだが、永里はむすっとしたまま黙りこんだ。
 週末に友達のところに泊まりに行くのも、おそらく叔父が旅行にいくからだ。悠里とこの家に二人きりで残されるのが嫌なのだろう。何もかもが気に食わないとばかりに、顔を合わせれば突っかかってくる。もしくは無視をする弟だ。
 昔から仲は良くなかったけれど、最近は特に悪化している。反抗期なのかも知れない。だが叔父に反抗するには恩を感じているのか、兄に代わりに冷たく当たっているのかも知れないが。悠里にとってはいい迷惑だった。
「永里も出掛けるということは、悠里が一人で留守番か」
「今更心配することでもないだろ」
 この夏にも家守のご機嫌取りに一晩、一人で留守番をしていた。そもそも高校生にもなったのだから、一人で家に残されたところで何の不安もないはずだ。
「まあ、家から出ない方がおまえの場合は安全か」
「言われなくてもどうせ引き籠もってるよ」
「陰キャの引きこもりなんてお先真っ暗だな」
「俺は意味があるから別にいい」
 行動的で家にいるより外で遊んでいる時間の方が圧倒的に長い永里にとって、ずっと家にいる悠里は相容れないものらしい。引きこもりだと時折見下してくるのだが、家守のつがいである悠里は家にいるのも役割の一つみたいなものだ。つがいが傍らにいる方が家守も落ち着き、家も平穏であるらしい。
 もっとも役割も何も関係なく、引き籠もっている方が楽だった。
 正当な理由なのだが、永里は屁理屈を聞かされたかのように顔を顰めては忌々しそうに中華スープをすすっていた。



 叔父が朝九時に出掛けるのに合わせて、永里も同じ時間に出ていくようだった。どこまでも悠里と二人の時間をずらしたいのだろう。友達とは部活仲間であるらしく、アスレチックパークに行くらしい。トレーニングだと意気込んでいた。
 休日の朝の九時はまだ寝ている可能性が高い時刻だったが。二人が出ていくということで、悠里は眠たい目を擦って起きてきた。家族が出ていく、特に今日中に帰宅予定がない泊まりの場合は、必ず悠里は玄関で出掛ける人を見送っていた。
「怪我がないように。相手のご家族にも迷惑をかけないように」
「分かってるよ」
 叔父が親の顔で注意をしている。玄関で最後の念押しをしているのだろう。落ち着きのない永里はうんざりしているようだが、ちゃんと聞いてはいるようだ。
「悠里もちゃんと飯を食えよ。朝飯は作っておいてある。温めたらすぐ食べられるレトルト食品もあるから、面倒くさがらずにな。あと」
「分かってるから。叔父さんも時間大丈夫か?」
「うん、まあ、そろそろ出るか」
 いつまでも小さな子ども扱いしてくる叔父を促す。そして改めて二人を見詰めた。
「大丈夫だ」
 無意識に口から出た台詞に二人ともがほっとしたようだった。根拠どころか喋った瞬間の意識すらないその言葉に叔父は頷き、足下に置いてあったボストンバッグを手に取った。
「じゃあ行ってくる」
「……いってきます」
「いってらっしゃい」
 出掛ける際は永里もぶすっとしながらもお決まりのやりとりをする。それが重要なのだと教えられている。いや、身をもって知っているようなものだからだろう。
 玄関の鍵がかけられたのを聞いて、大きくあくびをした。役目が無事に終わった。
 もし出掛ける家族が何かしらの怪我を負う、事故に巻き込まれそうな場合、悠里は家族を止める。
 正しくは悠里の口を借りて家守が家族の不幸を読むのだろう。見送りの言葉を告げる際、悠里の頭には何も浮かんでこないのに、唇が常に勝手に動いているからだ。
 かつて母が事故に遭った際も、悠里は言葉だけでなくその身を使って母を止めた。けれど幼かった悠里は母を止めることが出来なかった。今ならば押さえ付けてでも引き留めたのに、叶わなかった無力さが今も残っている。
 母は悠里の手をすり抜けて、そのまま帰らぬ人になった。その恐怖は悠里だけでなく永里の中にも刻まれている。だから見送りの時だけは大人しい。
「さてと」
 二人を送り出すと家に一人きりになる、わけではない。家守がいる。
 家守は叔父や永里を嫌っているわけではないだろうが。悠里以外の人間の前に姿を現すのを良しとはしないようだった。その分、家で二人きりになると機嫌が良い。
 悠里を自分のつがいだ、雌だと言って性別も気にせずに求めてくる。守り神などという存在はつがいだと思った人間対して、自身の外見とは逆の性別を押し付ける習慣でもあるのか。
 悠里は生まれた時から男として育ち、見た目も女性的な部分はない。どこからどう見ても男そのものであり、成長と共に男らしさも目立ってきたはずだ。なのにそれらを完全に無視して雌呼ばわりされるのはやはり気に食わない。
 雌と言われる度に訂正するのだが、守り神は頑固だ。一切曲げない、折れない。かといって悠里が雌じゃないと文句を言って怒ってみせても、不機嫌になるわけでもなく、穏やかに耳を傾けていた。
 悠里が自分に対して喋っているのを聞いているのが楽しい。そんな態度に、雌じゃないと我を通して怒った顔をしているのも疲れてくる。
 結局は曖昧になっては家守の腕の中に収まってしまう。良いように扱われている。
「寝直すのも、遅いな」
 午前九時とは何とも中途半端な時間だ。さてどうするかと、手を上げて軽く伸びをすると背後から緩く腹部に絡んでくるものがあった。
 ひんやりとしたその気配は振り返るまでもない。始まったばかりの秋のように心地良い体温は、悠里をしっかりと抱き締めては覆い被さるようにして肩口に顎を乗せてきた。
 黒と灰色が混ざった髪が視界に入ってくる。
「おまえと二人か」
 耳元で囁く声は柔らかい。そこに喜色が滲んでいるのは勘違いではないだろう。
「嬉しいか?」
「ああ、嬉しい」
 素直な返事に悠里は腕の中で身体を捻った。琥珀色の瞳は人成らざる細長い瞳孔をしている。だが眼差しを重ねと目尻が和らぐのは人と同じだ。
 濃密な愛おしさが家守から降り注いでくるようだった。
 そんなに二人きりが良いのか。そんなにつがいが好きなのか。
 二人きりの家など、悠里にとっては大したことでもないと思っていたのだが。そうして喜ばれるとその背中に手を回すのに抵抗感はなかった。



 叔父が作ってくれた朝ご飯を食べ終わった後は各部屋の掃除に入る。人の姿になっている家守と家をうろつくと、老朽化している家の補修しなければいけない場所を教えてくれるのだ。軋んで抜けそうになっている床。緩んできている窓枠。雨漏りをしそうな部位。壊れかけている屋根の瓦。一つずつ教えられながら、掃除機をかける。
 緊急性があるものは家族がいても家守が出てきて伝えてくれるのだが。今日のように悠里しかいない場合は他愛もない会話として、聞かせてくれた。
 それは家そのものに語りかけられているようだった。家守は家の守り神でもあるので、あながち間違いではないだろう。心なしか家の空気も明るく感じられる。
 入り込んでくる秋風も肌を撫でるように爽やかだ。掃除機をかけている間にうっすらと滲んだ汗を冷やしてくれる。
 部屋が幾つもあり、二階まで含めて綺麗に掃除機をかけると時間がかかる。まして家守と喋りながらだ。一段落付いて風呂掃除まで済ませるとお昼の時間になっていた。
「悠里、十二時だ」
 居間の壁に掛けられている大きな丸い時計をわざとらしく見上げて、家守はそう宣言した。
 休日の正午は叔父が昼ご飯を作る時間でもある。家守もそれを知っているだけに、悠里を促しているのだろう。
「昼ご飯かぁ」
 さして腹が減っているわけではないのだが。いつも通りのリズムで生活をしなければ家守が気にするだろう。叔父からもちゃんと食事をしろと釘を刺された手前、何か口に入れた方が良さそうだ。
「レトルトもあるけど……ラーメンが食いたいな」
 台所で常備食をあさっているとレトルトカレーやパスタ、うどんやそばなど色々出てくるけれど。無性にラーメンが食べたい気分だったのでインスタント麺を取り出した。
 我が家の台所もしっかり年代物だ。しかし調理器具やガスコンロ、冷蔵庫などは新しい物が入っている。叔父が調理にかける手間と面倒を減らそうとした結果だ。
 冷蔵庫の野菜室を見ては、もやしと葱とキャベツを取り出す。葱は小口切り、キャベツはざく切りだ。叔父の手伝いで包丁を握ることはあるけれど、調理にさして興味はない。
 家守は悠里の傍らに来ては何をするわけでもなく、ただ眺めているようだった。ちらりと横目で窺うと機嫌は良さそうだ。
「悪いんだけど、鍋を出してくれる? 流しの下を引っ張り出して、小さいやつ」
 叔父が聞けば卒倒しそうなお願いだ。
 家守を小間使いのように扱うな!と叱られるだろうが、家守本人はむっとするどころか笑みを浮かべて鍋を探してくれる。
 家守のつがいは家の繁栄のため、守り神に捧げられた生贄のようなものだ。
 そう親戚の中にはそんな風に語られているらしい。しかし生贄と言われる割に悠里は家守に尽くしていない。むしろたまに二人きりになると、こうして家守を軽く使ったりもする。けれど家守はそれを面白がっている節があった。
 おそらく周囲が思うよりも、家守は気安く、それこそ家族のように接して欲しいという気持ちがあるのだろう。そうでなければ悠里に小鍋を見せながら「これか?こっちか?」と楽しげに問いかけはしないだろう。
「右手のやつ。お湯を沸かして。味は何にしよう」
 インスタントラーメンは塩と味噌があった。
「家守は、人の食い物は食べられないんだろう?」
 何度か自分の食べているものを家守と分け合おうとした。けれど家守はやんわりと断ってばかりだった。守り神は毎朝悠里が捧げる水と米だけしか食べられないのだろう。
「食えぬことはないが」
「が?」
「一時的にただのヤモリに墜ちるかも知れぬ」
「そこまでしてラーメンを食べる意味はないな」
 渋い顔をした家守に、ラーメンを分け合うのは諦めた。小鍋には一人分の水を入れてコンロにかける。家守はぴったりと横に立って、火に掛けられた鍋の表面を見詰めている。
 何もかも達観しているような眼差しで、沸騰するその時を待っているのだと思うと奇妙な心地だった。悠里にとっては日常の、何でもない作業なのだが。家守にとっては新鮮なのかも知れない。もしくは人間の食事という営みにたまには興味を持っているのか。
「……色合いが足りないって叔父さんから小言が飛んで来そうだな」
 切った野菜ともやし、そして乾麺を一気にぶち込む。雑な調理方法だが食べられれば構わない。しかし緑と白しかない鍋の中身に、脳内で叔父が注意を飛ばしてくる。
「赤や橙、黄色でも入れれば良いのではないか」
「やっぱりそうだよなぁ。なんかあったかな」
 一人きりならば「まあいいか」と流してしまったが。家守からも言われて観音開きの冷蔵庫の扉を開ける。
「カニカマでいいか。赤いし」
 目に付いたカニカマのビニールを外して、そのまま鍋に放り込む。切ったりほぐしたりという手間を掛けない。
 当然食べる際は鍋から直接だ。鍋敷きを置いたテーブルにどんっと小鍋を置けば今日の昼ご飯は完成した。目を覆うような男の料理だ。
「頂きます」
 台所の作業台代わりのテーブルに置いて、これまた簡素な椅子に腰掛けて食べる。ずるずると音を立ててラーメンをすする悠里を、家守は向かい側で黙って観察してくる。
 これが他の誰かならば落ち着かない気分になっただろう。そんなにじろじろ見詰めるなと不快感を抱いたはずだ。けれど家守だと思うと何ら気にならない。
 いつもそうしてどこからか見守られているという感覚があるせいかも知れない。おそらく視線に馴染みきっている。
「美味いか?」
「普通」
 インスタントラーメンの味は、よく知っている平淡的な味だ。そこに野菜とカニカマが加わった程度でさしたる変化はない。
「テレビはつけないのか?」
「んー……いらないかな」
 男三人が顔を突き合わせて食事をしていると、話題性も乏しい。まして兄弟仲が良くないので、下手に会話をするとギスギスする可能性が高い。なので食事は大抵台所と繋がっている居間のテーブルで、大型テレビをつけた状態が多かった。
 テレビの内容で会話が適当に流れていくからだ。場繋ぎのようなものだ。
 けれどここには家守しかいない。他の話題も他人の声も聞きたくなかった。二人きりの空間は閉鎖されているようでの悠里にとってはそれが好ましかった。
 元々我が家は外の世界と隔たりがあるように感じられる心地良さがあるけれど。今は更にその密度が高い。
 身体も意識も柔らかなものに満たして、安心の中に沈んでいるようなこの空間を崩したくなかった。
「おまえと二人きりだと、時間の流れまで違うな。そろそろ止まりそうなくらいに、ゆっくりしている」
 外の世界が忙しないせいか。それともこの家守の周囲だけ特別な雰囲気が漂っているせいでそう錯覚してしまうのか。カニカマを食べている、今その瞬間すらも外で感じている一瞬とは異なる。
「時が止まるのは嫌か?」
「いや、別に」
 何も考えずに返した答えだ。
 守り神である家守の問いかけだ。まして時が止まるなんて深く考えれば恐ろしい結末に辿り着きそうなものだと、うっすらと思いはする。けれど実際の恐ろしさが微塵も湧いてこない。
 むしろ家守の時間の中は、人間同士の摩擦の煩わしさや煩雑な世界の仕組み、ありとあらゆる不安から隔絶された世界なのではないだろうか。
「でもまだ早いな」
 きっとそこには家守しかいない。ならば様々なものと別れなければいけない。
 それにはまだ、名残惜しさがある。
 浅いところでくるくると思考を変えていく悠里に、家守は笑んでいた。
「そうだな」
 それでいい。
 そんな声が聞こえてきそうだった。
 だがいつか、まだ早いと言わなくなった時にはその手でどこかに連れて行かれるのではないだろうか。その時、どんな気持ちで家守の手を握り返すのか。
 穏やかに見詰めてくる男の瞳は、悠久の時を経たような琥珀色をしている。自分もまたその中に取り込まれて眠るのだろうか。
 たった十六年しか生きていない悠里にとって、その想像は欠片も現実味のない、絵空事よりも遠いものだった。


 


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