なわばり 弐



 猫は結局あの後も見付けることは出来なかった。
 寒さであまり庭にいられなかったというのもある。
 まさか探し続けて風邪を引いたなんて間抜けなことになるわけにはいかない。
 日付が変わろうかという時刻、悠里はファンヒーターを止めて天井から吊している蛍光灯の電気を消した。
 部屋は薄暗くなるが、枕元に置いてある電気行灯のおかげで視界が塞がれることはない。
 ヒーターの熱が冷める前にさっさと布団の中に戻り、ぼんやりと部屋を見渡す。
 蛍光灯の光で見る部屋は、ただの古びた家の一部だ。
 どこか白けた感すらある。
 時代を知っているはずなのに、見えない振りをしているような、取り残された滑稽さすらあるのだ。
 だが蛍光灯ではなく、畳の上から暖色の、火に似た色で照らすと部屋は全く別の顔を見せる。
 古びた天井は陰影を色濃く映し、艶やかさを滲ませる。
 洋室にはない甘やかな色香がほのかに漂ってくるようだ。
 この家には影が多い。
 三人で暮らすには広い家だからという理由もあるけれど、元からそのような空間だったのだろう。全てを照らす必要はない、という意識も感じられる。
 暗がりは人を怯えさせるらしい。
 悠里とて真昼の町中と夜中の町中。どちらが安全かと訊かれれば考えるまでもなく真昼と答えるだろう。視界が明瞭な方が人は安心する。
 けれどこの家に限っては違う。
 薄暗い部屋であっても、悠里は恐ろしさも寂しさも感じない。子どもの頃からそうだった。
 淡い光でひっそりと映し出される部屋は、まるで布団の中だと思っていた。
 無防備に自分を預けていられる。悩み事も不安もここまでは入り込めない。
 そして騒がしさも、何もかもさらけ出そうとする無遠慮な明るさもない安寧ばかりの空間。
 まして家守と繋がってからは、この部屋は家守の腕の中だと思うようになった。
 他の誰も入り込めない。この気持ちを分け合うことは出来ない。自分と家守だけが抱いている、二人だけの感覚だ。
 かつての家守のつがいたちもそんな風な気持ちで、この天井を見上げていたのだろうか。
「古い家だ……」
 天井の染みが何かの模様に見え始めた頃、ぼつりとそんなことを呟いた。
「おまえが生まれるずっと前からあるからな」
 呟きに答えたのは凛とした男の声だった。
 いつの間にか枕元には和装の男が座っていた。
 それだけならばただのホラーなのだが。悠里にとってみれば日常になっていた。
 まばらな色をした髪。縦に長い瞳孔を持った目。異質な容姿であるのだが、悠里にとってそれは馴染んだものだった。
「家守……」
 呼ぶと家守は長い指で悠里の額に触れた。
 割れ物にでも触れるような手つきだ。大切にされることがそこからも伝わってきて、悠里は満足感を覚える。
「猫が入った」
 簡潔に告げる。家守が眉を寄せるだろうかと思ったが、意外にも表情は変わらなかった。
「知っている」
 穏やかさはそのままに、家守は悠里の髪を撫で始める。まるで寝かしつけているようだ。
「追い出そうとはしたんだが。見付からなくて。そのうち出て行くとは思うけど」
「ああ」
「……猫はやっぱり、嫌か?」
 尋ねると家守は柔らかな微笑みを消して、悠里から目を逸らした。
「好かん」
 家守は吐き捨てるようにそう告げる。
「猫は家に憑く。家守に似ているのだ。眷属を喰らう上に我が物顔で家に執着をする。ろくでもない輩だ」
 犬は主人に、猫は家に付くという。
 家守もこの家に宿り、この家を主体としている。猫とはかぶるところがあるのだろう。そして猫が家守を取って喰うというのも生態系として、成り立ってしまっている。
 家守にとって猫は害でしかないのだ。
「だから普段。うちに猫は入って来ないのか」
 家守が猫を寄せ付けないようにしているのだろう。
 ならばこの家に猫が入ってしまったのは、間違いなく悠里の失敗である。
「俺が、やっちまったな」
 この家の人間であるというのに、家守の不快を生み出すなど愚の骨頂だ。
「油断した。まさかうちに入ってくるとは思わなかったんだ。第一ちょっと変な猫だった」
 そう、あれは奇妙な猫だった。
 悠里になど懐いても何も貰えないことくらい途中で気が付いたはずだ。だから門を開ける前に一度背を向けたではないか。
 なのに門が開けられた途端に駆け寄った。まるでこの家に入るのが目的だったみたいだ。
「うちに餌があるとでも思ったんだろうか……」
 だがそんなことをどこで知ってくるというのか。
 怪訝そうな悠里に、家守が溜息をついた。
「あれはただの猫ではないからな」
「うん?」
 ただの猫ではない。それが意図とするところが悠里には分からなかった。
 だが家守は渋い顔をしてまた溜息をついた。
「しかも叩き出そうとすれば不浄を残しよった」
 たちの悪い、と口にした時。家守はぴたりと止まった。
 言葉だけではない。悠里を撫でていた手も止まり、まるで時間が停止したかのようだった。
「家守?」
 どうしたのだろうと悠里は身体を起こす。
 おかしなことでもあるのか。身体の調子でも悪いのか。
 まさかあの猫に入ったことによって、不都合が生じてしまったのか。
 悠里が心配すると、家守は目を閉じた。
 耳を澄ましているかのようだ。
「やはり、ろくでもない」
 目を開けると、家守はそう呟いた。
 縦に長い瞳孔がさらに縮まり、針のようになっている。
 先ほどの穏和な雰囲気は消え去り、全身から棘のような気配が溢れ出してくる。
 あらぬ方向を睨み付けては斬りかかっていくかのように、肩を怒らせた。
 それはどう見ても憤りだった。
 これほど明白な怒りなど、そう見られるものではない。激怒と言っても過言ではないだろう。
 悠里は頭の芯が冷えていくのを感じた。
 家守がこんな態度を取るほどに、猫が我が家に入ってくることは許されないことなのか。
 とんでもないことをしてしまったのだ。
 家守に嫌われるなど、これまで実はまともに考えたことがない。
 そんな日が来るなど悠里には有り得ないことなのだ。
 だがもしかすると、家守は自分に対して嫌悪を抱いてしまったのだろうか。
「……やっぱり。駄目だったか」
 許されないことをしてしまったのだろうか。
 そう窺う悠里に家守は首を振った。
「おまえではない。私はおまえに怒っているわけではない」
 要らぬ心配だ、と家守は悠里の額に唇を落とした。
 それは常のものと変わりない、優しさばかりの仕草だ。
 誤魔化しではないだろう。ここで悠里に誤魔化しを見せる必要はない。
 それに目を合わせても、もう家守から怒りは伝わってこない。
 ここにはないものにそれを向けているからだろう。
 やはり猫に向けているものなのだろう。だが何故急に表情を激変させたのか。
 家守だけが感じる何かが起こったのか。
「少し出てくるが気にするな。寝ていても良い」
 問いかけたいが、それは問いかけても答えがあるものか迷っている悠里に家守はそう言って立ち上がった。
 何処に、と言いかけたが有無を言わせぬ迫力が家守にはあった。
 決して放置出来ない何かがあるのだ。
「あまり起きていると身体が冷えるぞ」
 そんな甲斐甲斐しいことを言って、家守は部屋を出て行った。
 後ろ手に閉められた障子を見て、悠里は所在なく目を伏せた。
「……気になって、眠れるわけないだろ」
 我ながら神経は図太いと思っているが、それでも愛おしまれ、身体を重ね共に暮らしている者があんな様子を見せたのだ。気にするのは当然だろう。
 けれど追いかけるのも叱られそうで、悠里は再び布団の中に潜り込んだ。
 眠気など訪れるはずもなく、せいぜい猫の鳴き声でもしないだろうかと聞き耳を立てることくらいしか出来なかった。


 


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