なわばり 参



 この町に引っ越してきてから半月。
 どこか良い家はないかと物色し始めてすぐ、その家が目に入った。
 ずっしりとした重厚感のある門扉。どれほどの広さなのかと家の周囲を歩き、その時間に感心した。よほどの面積だろう。
 この辺りは静かであり、大きな家も割と多い地域のようだが。その中でも群を抜いている。
 遠目に見て、随分古い家であるようだった。そして古い分無防備にも見えた。
 そびえ立つのはアスファルトの塀ではなく垣根。掴み所がないので、返って入りづらいとでも思っているのだろうか。大きな勘違いだ。
 注意深く見ていても門扉に監視カメラすら付いていない。
 これほど大きな家ならば、泥棒に入られるかも知れないという警戒を怠らないものだが。この周辺はよほど犯罪に縁のないところなのだろうか。
 ならば好都合だ。
 自分にとっては宝の在処のようにしか見えない。
(良いところだな)
 仕事が、しやすそうで何よりだ。
 以前住んでいたところではアルバイトの傍ら空き巣を繰り返していた。
 深夜住人が寝静まった頃にふっと家に入って金品を盗むこともよくやった。
 人間は自分が家にいるからと、心に隙を作るのだ。まさか寝ている隣の部屋に他人が入り込んで金を盗ってるなんて思わない。
 しかし空き巣や泥棒があちこちで見付かれば警察も大きく動き出す。なので足が付かないように短期間で住居を変えていた。
 もしかすると今回の引っ越しは当たりかも知れない。
(おしゃべりなババアもいるしな)
 引っ越してきてすぐ、大家の老女が色々教えてくれた。この辺りに住んでいる人々の個人情報をべらべらと、事細かく喋ってくれたのだ。
 きっと暇を持てあまし、誰かに相手して欲しくてそんな話を延々語ってくれたのだろうが。こちらにしてみれば仕事に繋がる貴重な情報だ。
 自分がそうして噂を流された場合はたまったものではないが、他人の情報なら有り難い。
 その老女によると、この家に住んでいるのは若い男が三人だと言う。前はもっと親戚たちなどが住んでいたらしいのだが、現在は出て行ってしまい。親も海外出張でおらず、いるのは学生たちと社会人が一人。
 これほど大きな家に三人しかいなければ、自分が寝ている以外の部屋で何が起こっていても滅多なことでは気付かないだろう。
 そしてこの家の庭には蔵があると聞いた。
 このご時世に蔵なんて、と老女は言っていたが意外と持っている家は持っているものだ。
 旧家と言われる家柄が多いけれど、この家もその類かも知れない。
 家人は蔵の中身はがらくたばかりで価値がないと笑っているらしいが、持ち主が知らないだけで高価な品物が眠っているかも知れない。
 たとえ価値のない物であったとしても、古いというだけでさもそれなりに価値が付加されていそうなものに取り繕うことは出来る。
 本物の骨董の価値が分かる者などごく限られた者だけなのだから。
 価値も金額も後から付けられるものだ。
 この家に住んでいる大人、少年達の親ではなく叔父らしい男はろくに働いてもいないらしい。株と不動産で儲けているという噂だ。そんな家の人間ががらくただけを保持しているというのも奇妙な話だろう。
(働かなくても食っていけるってのは、羨ましい限りだ)
 深夜、辺りが寝静まった頃にそんなぼやきを心の中で吐きながら噂の家を訪れた。
 昼間も大きく静かな家だと思ったが、夜になると一層それが顕著だ。そして古びているせいか、拒絶感が強い。
 他人など入れるものか、という門の声が届いてきそうだ。
 無断で人の家に入った過去は数え切れないほどあるというのに、それでも抵抗感を覚えるほどだった。
 しかしその抵抗感が、他人を拒むだけの大切なものが家にあるのだろうという期待感に取って代わった。そもそも門から何かしらの気配が漂ってくるはずがないのだ。
 神仏を信仰する趣味はない。怯んだ自分を無視するように門に手を掛けた。
 呆れたことにこの家は門にも監視カメラどころか警備システムがない。どうぞ入って下さいとばかりの有様だった。
 しかし無防備であるというのに、先ほどの抵抗感は何だろうか。
 淡い疑問が浮かぶけれど、一度盗みに入ると決めた以上躊躇っている時間が勿体ない。
 何の細工もされていない門を出来るだけゆっくりと開けて、音を立てずに家の中に入り込む。
 玄関へ真っ直ぐ伸びている石畳。その先にあるのはずっしりとした格子の玄関。
 灯りの付いていない家は真っ暗で、得体の知れない暗闇を纏っている。
 現代建築のコンクリートなどで作られた家にはない、生々しい家の呼吸が聞こえてくるようだ。
 今にもその玄関がゆるりとひかれ、中から長い髪の女でも現れそうだ。
 ホラー映画に似合うだろう家の外観から目を逸らし、庭へと足を向けた。
 右側の小道から奥に進むと池が鎮座している。人が足を滑らせて落ちたならば死んでしまうだろう、それほどの大きさと深さに思えた。
 ちらりと見渡しただけでも、まるで寺社の庭園であるかのように広い。
 手入れのされた木々と小道、そして石灯籠がそんな印象を抱かせるのだろう。
 入ってはならない、誰かの懐の中を探っているのだ。そんな気持ちにさせられる。
 無断で庭に侵入しているのだ。禁忌である感覚は正しいのだが、これまで盗みに入った際には高揚感と緊張感は持っていたけれど後ろめたさなど感じたことはなかった。
 なのに何故、足取りがこれほど重いのだろうか。
 見えない壁が目の前に並んでいるかのようだ。
 暗く、重い。
 せめてあの石灯籠に灯りがついていたのならば、と思ってしまう。けれどそれならばもし家人が起きて来た場合に、暗がりに紛れることが困難になってしまう。
 月の光も人工の光も、少ない方がいい。それが持論だ。
 なのにどうしてこんなにも光が欲しくなるのか。
(おかしい。落ち着け。久しぶりの仕事だから緊張してんのか?だがやることはいつも同じだろ)
 むしろ警備システムがない。周囲に人家が密集しているわけでもない家だ。楽なものだろう。
 何が警戒を抱かせるというのか。
 逐一行動を監視されているような恐ろしさが足下から這い上がってくる。そんなことは有り得ないのだ。
 首を振り足早に庭を歩くと蔵が見えた。思ったより小ぶりで、木々の間に紛れるように建っていた。
 そう開けることもないのだろう。蔵のかんぬきが錆付いている。
 もしかすると容易には開かないかも知れない。小さく舌打ちをしながら、それでもやってみなければ分からないと近寄った。
 宝を見付けたような気分で、それまであった恐怖はあっさりと霧散していった。
 しかし蔵の前に辿り着く前に、足がつんのめった。下を見ても歩みを止めるようなものはない。しかし確かにつま先で何かを蹴ったような気がした。
(なんだ?)
 分からない。
 そして視界を何かが過ぎり、勢い良く振り返る。
 もしかして家人が起きて来たかと思った。だが足下を走ったそれはどう考えても人間などではない。
 猫が驚いて逃げたのだろう。
(…これだけ広いんだ。猫の一匹や二匹いてもおかしくない)
 飼い猫か野良猫かは知らないけれど。やたらと広い庭なのだから住み着いていてもおかしくないだろう。
 気を取り直してかぶりつくように蔵のかんぬきを掴もうとした。
 すると蔵の扉に突然色が滲んだ。
「は……!?」
 見るとそこには人の顔よりも大きな一つの目があった。
 真っ赤な瞳だ。瞳孔は縦に長く、まるで剣のように尖っている。
 扉に目があるはずがない。ましてそれはこちらを見て瞳孔を収縮させた。生きているのだ。
「ひっ…!」
 どれだけ驚いても、恐ろしいことがあっても絶叫などはしない。これがこんな仕事を生業にしてしまった者が身につけた術だった。それでも身体が悲鳴を上げたがっていた。
 かんぬきを掴もうとした手は凍り付き、まるで縛られたように動けない。
 これは何であるのか。
 そんな疑問が遅れながら湧いて出た時、蔵から蔦のようなものが生えてくるのが見えた。それは、手だった。
 五指を持つ真っ黒な、人間の手だ。
 それが自分の口を塞ぎ、首に絡み付こうとしていた。
 どうされてしまうのか、考えるまでもない。
(殺される!)
 これは人間ではない何かだ。それが自分を殺そうとして襲いかかってきた。
 理解した瞬間、来た道を一目散に駆け出した。だが蔵から幾つも生え始めた手はどこまでも伸び、逃げる足を取ろうとしてくる。足首やふくらはぎに指の感触がかすめては、取り殺される恐怖が身体を震わせた。
「は、はっ……は」
 膝が笑い、何度もつんのめりながら庭を走る。静かに行動しなければならないという理性はとうに棄てていた。いっそ家人に見付かっても良い。この化け物に殺されるくらいならば警察に通報されて捕まった方がまだましだろう。
 命は残されるのだから。
 広いと言っても急いで走れば十数秒で出られるはずの庭。だが出口が妙に遠い。
「っくそ!」
 自分の足はこれほどに遅かっただろうか。口元を覆うとしていた手は一度剥がしたものの、再び胸元から這い上がってくる。手で払いのけても後から後から追いかけられてはしがみついてくる。そして緩やかに締まり始める。
(死ぬ!このまま、縛り付けられて殺される!)
 首や腹に巻き付いた手が骨を軋ませるのが分かった。呼吸が止められ、頭の内側で鼓動が聞こえた。血の流れが留まり始め、顔が充血していく。
 このままでは意識が飛んでしまうだろう。
 本格的な死が見え、涙が溢れ口からは声にならない声が零れ始める。
 絶望に心が塗り潰される直前、自分で開けた門がようやく目前に見えた。
(出口!もうすぐ出られる!)
 希望が指し示され、そこに飛び込もうとした。だが門は、何故か無情にも無音で閉ざされた。
 重厚で圧迫感のある、出入りを禁じるような門。
 一度入ったのならば決してここから生きては帰さない。
 まるでそう告げるように頑なに閉ざされ、そして希望は潰えたまま背後から真っ暗な手が目と口を塞いだ。
 死とはこれほどに冷たく、暗いのか。
 そう痛感した。



 昨夜、家守は部屋から出て行ったかと思うと十五分もしない内に帰ってきた。
 当然寝ていなかった悠里は、どうやら不機嫌らしい家守にどうしたことかと尋ねたのだが嫌そうな顔をしたくらいで詳しいことは話して貰えなかった。明日になれば分かる。始末を叔父に頼め、と言われただけだ。
 喋ることがないのならば、と悠里が情事に誘うと機嫌はすぐに立ち直り散々睦み合った。
 おかげで目覚めたらすでに昼だった。
 気怠い身体で朝飯ならぬ昼飯を食べに行くか、と布団から抜け出し廊下を歩くと庭に叔父がいるのが見えた。
 小さなスコップとビニール袋を持っている。それには何か入っているようだが、何であるのかは遠目では分からなかった。
 からりと硝子戸を開けると叔父がこちらを見た。
「おそよう」
 とてもではないが早いとは言えない時刻だ。呆れたようにそう言われ、悠里は挨拶もせずに「何それ」と尋ねた。
 家守が叔父に始末を頼めと言っていたのを思い出したのだ。
 もしかするとそれに関わりあるのだろうかと思っていると、叔父が盛大に顔を顰めた。
「猫の糞だ。本体はいないみたいだが、こんなもん残して行きやがった」
 飼ってもいない猫の糞の始末をさせられ、叔父は大変ご立腹らしい。無理もない。
 そして家守が言っていたのはこのことだったのかと合点がいった。
 昨夜猫が糞をしたので怒って追い払ったのだろう。
「ああそうだ。この辺で不審者が出たらしい。早朝うちの近くで錯乱状態で見付かってな」
「へぇ……」
「もしかするとうちに入った馬鹿者かも知れない。警察が来るかも知れないから」
 不審者がこの辺りで出たからと言って自分の家と関連づける人間がこの世にどれだけいるのかは知らないが。この家に限っては有り得るなという認識が浸透していた。
(こんな家に忍び込むからだ)
 警報装置や監視カメラ、そんなものよりずっと役に立ち、また絶対的なものがここにはあるのだ。どんな警備システムよりも優秀で、そして容赦ない。
「いっそ嘘でも警備会社と契約してますってステッカー貼っといた方が楽じゃない?」
「家守印のステッカーか?」
 悠里の提案に叔父は軽く笑い、悪くないかもなと呟いた。




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