なわばり 壱
今年最後の登校日を無事に終えて、悠里はまだ午後にもなっていない時間に帰路に就いていた。 陽光はすでに傾いているようで、まるで昼下がりのようだ。 冬の真昼は侘びしさがある。 街路樹もすっかり枯れ木のようになっており、首に巻いたマフラーがなければ冷気が肌に滑り込んできているだろう。 視界がモノクロになっていく。 雪を呼んでいるかのようだ。 帰路の途中までは友人と一緒だが、分かれ道を過ぎた辺りで足下に何かが寄って来るのが見えた。 見ると黒猫が駆け寄っている。 悠里は歩調を変えることなく歩いているのだが、猫はそれに合わせるようにして歩いているようだ。 人懐っこい猫なのだろうか。 毛並みは艶々としていて、飼い猫なのかも知れない。 だが悠里は飼い主ではない。 我が家は犬も猫も飼うことが出来ない。 家を守る、神様のような存在が愛玩動物を許していないのだ。 だから子どもの頃からペットというものを飼ったことがない。 家が大きく、庭も広いせいか友達は捨て猫を見付けると悠里に飼ってくれと願い出るのだが。それに応えたことはない。 幼い頃から禁止されていたというのもあるが、犬猫を持つことは家から出て行かなければならないことだと、何故か思い込んでいた。 家守が子どもの悠里にそう叩き込んだのかも知れない。 間近で見る機会のない猫が足下、しかも寄り添っていることに戸惑った。 「おまえの食える物なんて持ってないぞ」 動物に殊更嫌われる、ということはないけれど。かと言って懐かれる経験も乏しいのでこんなときどうするべきなのか分からなかった。 歩いていればすぐに飽きて離れていくだろうと思ったのに、猫はなんと家の門までついてきた。 「何が目的だ?」 猫に訊くのも無駄だとは思いながらも、悠里は立ち止まって猫に問いかけた。 すると猫は初めて顔を上げた。 金色の瞳だ。 アーモンド型の瞳はテレビなどで見る溺愛された飼い猫たちにはない狡猾さが宿っているように見えた。 賢しさと冷たさが共存している。 人間だったのならば人相はあまりよろしくなかっただろう。けれどプライドの高そうな姿は決して不快ではない。 餌をねだっているわけでもない猫の様子に、疑問は深まるばかりだった。 「なぁ、ここにいても俺はおまえに何もしてやれないぞ。うちにだって入れてやれない。うちはペット禁止なんだ」 家守が嫌だと言うことは出来ない。 守られる側にいる悠里たちは従うしか道がない。それに従うことに抵抗がある中身でもないのだ。 「だから諦めて、よそに行ってくれ」 しっしと手で猫を払うとしばらく猫は出方を窺うように悠里を見ていた。 だが悠里が全く動かないことに興を削がれたように、背を向けては尻尾を緩く振った。 挨拶のように揺れるその尻尾を見て、何故あんな風に猫の尻尾は自由に動くんだろうと思いながら門に手を掛けた。 きぃと音を立てて門が開き、中に入りながら後ろ手で門を閉めようとした。 しかしそれを待っていたかのように、するりと影が走る。 「なっ!?」 おそらく全力で走ったのだろう。小さな影、黒猫はあっという間に庭へと侵入してしまった。 「待てこら!」 慌てて門を閉めて猫を追う。だが小さな身体は一目散に逃げ去り、庭の茂みに潜り込んでは姿を消す。 まるで庭に入るのが目的だったかのようだ。 「なんだありゃ」 おかしな猫だ。 溜息をついて、どうしたものかと思案する。 猫一匹、放置していても良いようものだが。愛玩動物を飼うことが許されない家に、偶然とは言え猫を入れてしまったのはまずいだろうか。 人間は気にしないだろう。叔父も弟も動物嫌いではない。むしろ好んでいる節があった。 だが家守は厭うだろう。家守が嫌うものを置いておくのは、よろしくない。 きっと叔父はそう悠里を諭すだろう。 そう思いうんざりした。 昼飯を食ってから探すのでは遅いだろうか。肩を落としながら玄関に向かう。 自室に鞄を置いて、制服を手早く脱ぐと気楽な私服に着替えてから縁側に出た。 そこにおいてあるサンダルを履いて再び庭に戻る。 少し前までは枯れ葉が庭一面に散らばっていて、毎日叔父が掃き掃除をしていた。掃いても掃いても落ちてくる枯れ葉に、禅修行のようだと零していた。 落ち葉焼き、という現代社会ではあまりしっくり来ないような単語も我が家では珍しくないことだった。芋を入れることもあるのだが、石油ストーブで焼いた方が上手く焼けるまであまりしない。 しかし今では街路樹たちと同じ、まるで枯れ枝のような木々が多い。 季節によっては色鮮やかな庭だが、やはり冬はどこも平等な景色にするらしい。 それでも寒椿のはっとするような紅が一角には宿っている。 雪が降れば大変麗しい、まるで風景画のような光景になるのだがそれはまだ少しばかり先だろう。 まだ水の入っていない池の近くにはどっしりとした松が二本植わっている。いつから植わっているのかは知らないが、庭師お気に入りの松だ。 枝振りが素晴らしいといってはこまめに手入れしているようだった。 しかし悠里にはこの良さが分からず、叔父も「まぁ、なんか見事な気がする」という程度の認識だ。永里に関しては興味もないらしい。 松からまた少し奥に入ると南天の木がある。 見上げるほど大きなそれにはみっしりと実がなっている。悠里が近寄ると小鳥が一斉に飛び立った。 冬になるとこの南天の実を目当てに鳥が集まってくるのだ。 猫が入り込むことはないけれど、よく鳥はやってくる。豊かな木々を好んでいるのだろう。 南天の傍らには福寿草が植わっているらしい。 災い転じて福と成す、という思いが込められよく南天の木の側には福寿草を植えるものらしい。けれどまだ花咲く季節ではないのでそれらしい黄色の花は見当たらない。 そして猫も見付からない。 小鳥たちのように自ら鳴いてくれるわけもなく、また枯れ葉を踏む音も聞こえてこない。 これがもう少し前の季節であったのならばがさがさと響いたことだろう。 石灯籠が点在する小道を歩きながら、悠里は肩を縮めた。マフラーを巻いてくれば良かった。 どれだけ家の中と言っても、これほどの面積のある庭では外と大差ない感覚になる。そもそも外気は家の敷地の内外関係ないものだ。 「おーい!」 家の方から叔父の声がする。 「はぁい?」 大きな声で返事をすると悠里の居場所が把握出来たのだろう、叔父が歩いてきた。 「おまえ何やってんだ?家に帰ってきたと思ったらいないし」 「ああ、猫が入って来ちゃって」 「猫?」 叔父の周囲を見渡すが猫らしいものはいない。 そしてどうしたものかと困ったような顔をした。それはきっと悠里も同じ表情だろう。 「猫かぁ……追い出した方がいいとは思うけど。どこにいるのか分からんな」 「だろう?俺もそう思って一応探してるけど見付かるかどうか」 一般家庭の庭であったのならば見渡せばある程度猫がいるかどうかは分かりそうなものだが、我が家の庭は隠れるところが多すぎる。 まして木に登られるとお手上げだ。 「猫くらいほっといたらいつか出て行くとは思うんだけどさ」 垣根の塀は高めであるが人間ならともかく猫であるのならばよじ登って出て行けるだろう。 目くじらを立てることでもないかと思うのだが、それはあくまでも人間の視点でという一言が付いてしまう。 きっと複雑そうな叔父の脳裏にも酷似した思いがあることだろう。 「うちは泥棒は追い出せるが、猫も追い出せるものかな」 「さあ?」 他と比べると我が家は大きな家になる。昔は親戚たちもこの敷地に住んでいたくらいだ。 それは他人から見ると裕福な家という印象を受けるらしい。別段否定するところではないが、盗みに入って盗る物があるかどうかは謎だった。 金品の類がそれほどあるわけではない。蔵はあるけれど中身はさほど価値があるものではないと聞いている。聞いているだけで確かめたことはないけれど、骨董収集家や金目の物を好んで集める趣味の人間は我が筋にはいなかったと聞いている。 現金も家には置いていないので、盗みに入っても盗れるのは野郎どもの生活用品だけだ。 正直骨折りだと思うのだが、それすら許さないのが家守だった。 盗人はことごとく酷い目に遭って家から出される。 まず盗みに入ろうと垣根や玄関をいじり始めた辺りから恐怖を味わう羽目になるらしい。悠里は詳しいことは知らないが、叔父は盗人に哀れみを覚えるほどだったらしい。 しかしそれは猫にも有効であろうか。 「……まあ様子を見るか。昼飯出来てるから冷めるぞ」 叔父はしばし考えた後にそう言った。 この寒い気温、あったかい飯が冷めるのもあっという間だろう。 「飯食おうぜ飯。猫はまた探すし。駄目だったら家守がなんか言うだろ」 そう叔父を促して家に帰る。 冬になって家守はめっきり静かになった。 夏場は毎日頻繁に姿を現したというのに、寒くなると動きづらくなるものらしい。さすがは爬虫類。気温によく左右される。 しかしそれでもじっとしているのに焦れるのか、たまに目覚めると家守の腕の中だったという経験も日常だった。悠里を恋しがってそうしているのか、それともあたたまっているのか。 きっと両方なのだろうが、これをされるとなかなか起きられなくて困る。 まだ終業式を迎えていなかった今日までは、その朝が一種の苦行だった。 布団とぬくもりと家守の腕の二重の罠だ。 しかしそれも今日から少しの間は負けても良いのだなと思うと安堵してしまう。 誰にも、家守にすらも言ったことがないのだが。悠里はそんな冬の朝が嫌いではなくまったりと眠気を漂うのが心地良かった。 次 |