冬の営み 参



 引っ越したその日は片付けだけで一日が終わった。荷物は最低限にしたとは思っていたけれど、それでもやはり部屋を整えるのに時間は必要だ。
 晩飯は予告通りのそばになった。肉が大好きな永里は肉そばになっており、牛肉がたっぷり盛られていた。永里はそれをぺろりと平らげては二度おかわりをしていた。
 運動部の高校生は本当によく食べる。
 悠里はその隣で大人しく箸を動かしていた。いつ見ても悠里はそうして、永里のように食欲を見せることもなく、淡々と食事をしている印象がある。
(守り神の伴侶)
 それはどう接するのが正しい存在なのか。
 弟と違って口数も少ない悠里は、岡井が来たからといって特別喜ぶでも、また嫌がるでもない。澄ました顔で座っているというよりも、関わりを持つのに興味が無いようだ。
(それも慣れるんだろうか)
 悠里はこれが普通なのだと、さして気にもせずに馴染むようになるのか。
 夜になると一階の廊下の雨戸を閉める。庭に面した廊下にはガラス障子と、もう一つ外側に木で作られた雨戸がある。それはマンションで暮らしてきた岡井には全く馴染みのないもので、木で出来た壁のようだった。
「冬は雨戸を閉めないと寒さが家に入り込んできて底冷えする」
 真冬の木造家屋は寒いぞ、と夏樹はげんなりした表情をしていた。床暖房など夢のまた夢だとぼやきが続く。密閉度が高くない日本家屋では真冬の冷たい風が入り込んでくるのだろう。
 それに防犯の意味でも雨戸は閉めた方が良い。この家はどこからどう見ても資産家の家で、庭には蔵もあるらしい。金に目当てで侵入してくる強盗から身を守るためにも、雨戸は有効だろう。
 ましてこの雨戸も古く、動かすとガタガタと大きな音を立てる。深夜にこんなものを動かせば住人を起こしてしまうことだろう。
 しかしこの家は広い。庭に面している廊下の雨戸を閉めるだけでも一苦労だ。
「これからは岡井にも雨戸を閉めるのを手伝って欲しい」
 毎晩この作業をするのも大変なんだ、と夏樹から言われて岡井は一人で雨戸を閉めていた。雨戸を閉めるにはコツがいるのだと聞いていたので練習のためだ。
(確かに、こりゃ大変だな)
 雨戸は大きく、重い。その上レールが歪んでいるのか、動かすのに随分と力がいる。力まかせでやると大きく引っかかるので、動きを確かめるように慎重にスライドさせる必要があった。
 これでは時間もかかることだろう。
(古くてデカい家ってのは大変だな)
 慣れない作業に四苦八苦していると、庭に人影があった。
 庭の一部には足下に小さな灯籠を模した照明を設置しており、夜中でも一応歩けるようにはなっている。だが上半身まで詳細に照らすほどの光はない。ましてそこから更に奥にいては人の輪郭がおぼろげに見える程度だ。
 一体誰なのか気になった。丁度靴脱ぎ石がそこにありサンダルが添えられいたので、つい心惹かれて庭に降りる。
 庭は冷えた土と、木々の匂いがした。ほこりっぽいアスファルトの中では決して嗅ぐことが出来ない、冷たくともどこか懐かしい匂いだ。
 植物や小さな生き物たちが目を閉じて静かに眠っている。生き物が乏しいコンクリートに囲まれた暮らしでは、この寝息のような穏やかさを肌で感じるのは難しい。
 土を踏むとざっと小さな足音が立つ。しかし人影はこちらを見ることはなく、黙ってそこに立ったままだ。その時点で永里ではないだろうなとは思った。
 近寄ると悠里が白い息を吐いて、頭上を見上げているのが分かった。春に花見をした木の近くだが、すでに葉は全て落ちており、枯れ木のようになっている。何も纏わぬ枝の先など夜の中では視界に入っていてもさしたる邪魔にはならない。
 星でも観察しているのだろうか。
(似ているようで、違う)
 この家の外で悠里を見ると、夏樹によく似ていると感じる。二人とも顔の作り自体が似通っている上に、静寂を纏わせて俗世と距離を取っているような姿勢がそっくりた。
 だがこの家の中で二人を見比べると、思っていた以上に違うのだと感じた。
 顔の形は似ていても、二人が纏っている空気が違う。悠里は岡井と同じ場所にいるはずなのに、立っている位置が僅かに隔たっている。手を伸ばしても触れられないのではないか、そんな予感がする。
 それが家守のつがいという、特殊な存在だからどうかは分からないけれど。踏み込めない領域を抱えていることは伝わってくる。
「風邪を引くぞ」
 遠いと分かりながらも声をかける。息が真っ白に染まった。
 悠里はゆっくりと岡井へと視線を向けた。目が合うと多少は距離が近付いて、目の前にちゃんと立っていると感じるのも不思議なものだった。
「月がないな」
 悠里が見ていた先を辿ると無数の星が輝いていた。月が出ていないおかけで、そのきらめきがよく見える。
「ここはよく星が見える。見事なもんだな」
 外では街灯や家の明かりが漏れて、随分と地上は明るく騒がしい。
 おかげでどれほど寒さで空気が冷えていても、ほんの小さな星を見るのは困難だ。けれどこの庭では邪魔をする光がほとんどない。足下の照明は少し遠く視界の邪魔にならないため、星空がかすむことがなかった。
 少しの間、呼吸をしているかのようにキラキラと瞬く星々に見とれてしまう。
「天体観測や自然の観察なら向いてます」
「だが庭の手入れは大変だろう」
 自然が好きで、自然を眺めるのを趣味にしている人にとってこの庭は興味深いものだろう。素敵なところだと思うその気持ちは岡井にも分かるのだが、実際住むとなると管理が大変というのも想像に容易い。
「これだけ広いと、どうしても手間や時間がかかります」
「でもよく手が入っている」
 人の目が行き届いている庭かどうかは、素人でも見れば分かる。自然というものは人の手が丁寧に入っていないと、すぐに調和が崩れるものだ。
 一日一日を植物は精一杯生きて育っていく。自分のあるがまま姿を広げていく様は力強いが、そんなものたちばかりでは庭としての均整が崩れる。その均整を正しく、美しく保つためには人間の細かな手入れが必要だろう。
 この庭にはその美しい調和が生きている。
「庭師を呼んでいますから」
「それだけじゃないだろう。悠里も庭の手入れをしていると夏樹から聞いている」
「一番やっているのは叔父です」
(そうだろうな)
 在宅時間が一番長いという理由で、夏樹はこの家の世話に努めている。真面目で勤勉な男だ。手抜きや乱雑なことはしない。
 そして自分の行いを自慢することが苦手で、慎ましく情が厚い、夏樹のそんなところが好ましい。
「この家のことや習慣を色々教えて欲しい。俺はこういう暮らしには無縁だったんだ」
「はい。でも叔父の方が詳しいと思います」
「そうか」
 夏樹は悠里という家守のつがいよりもこの家に深く携わってきたのだろう。悠里たちにしてみれば年の離れた大人だが、岡井にしてみれば同い年でしかない。夏樹がこの広い家と古い歴史と習慣を一人で背負ってきたことは、かなりの重圧だっただろう。
(それでも弱音はなかなか吐かなかった)
 岡井が一緒に暮らすようになれば、少しは頼ってくれるだろうか。
「よくこの家に来ましたね。ここは随分面倒な家だと、岡井さんは知っていたと思いますが」
「夏樹の暮らしが見たいと思ったんだ」
 面倒な家だと言った悠里に苦笑した。確かに話を聞いているだけでも、この家は随分と変わった、束縛のある家だなと思っていた。それでもこの家に入ったのは、夏樹がいたからだ。
「夏樹が、家では星が綺麗に見えると言っていた。外から光が入ってこない、宵闇の中で星が眺められるってな。それはどんなものだろうって考えていた。同じものが見たかったんだ。確かにこれは綺麗だな」
 あの時夏樹が語ってくれた星は、きっと今のような光景なのだろう。
 夜空を見上げながら、いつかの自分が焦がれた景色だと思うと感慨深い。
「俺が初めてこの家に来た時は圧倒されたよ。この家には独特の空気があってよそ者が入り込めるようなものじゃなかった。でも何度か通う内に少しずつ受け入れてくれるように感じられた。それが嬉しかったけど、この家には現実から切り離されたような時間の流れがあった。その時の俺は、それが苦手だったんだ」
 異様な空間だと、どうしても腰が引けた。
「でも今はその中に入ってみたいと思う。外とは違う、ゆっくりと流れるこの家の空気に触れてみたい」
 年を取って、ゆっくりとした空気に自分をねだねてみたくなったのか。それとも豪胆になったのか。
 住んでいるマンションが建て替えをするため、立ち退きを迫られた話をした際、夏樹に冗談でもうちに来るかと言われたことに歓喜が走った。
 その言葉を無意識に待っていたようだった。
「岡井さんの言うとおり、ここには外と違う空気が流れていると思います。時代に取り残されている上におかしな習慣もある。戸惑うことは多いと思いますよ」
「それでも夏樹の隣に立ってみたい」
 悠里にこんなことを言うのは照れくさい。年下の、まだ子どもと言える年頃だ。それでも自分の気持ちを嘘偽り無く伝えたかった。
 その眼差しが真剣で誤魔化しもその場限りの薄っぺらい言葉も受け付けないと言っていたから尚のことだ。
 悠里は反応を示さなかった。岡井の答えに納得したとも、気に入らないとも伝えてこない。
 どう感じたのか少し不安になってしまったのが岡井の顔に出たのか、悠里は瞬きをすると淡く笑んだ。
(……ああ、よく似ている)
 岡井に対してほんのりと微笑むその優しさは、夏樹にそっくりだ。
 自分の感情を露わにするためではない、岡井のためを思い、他愛もない疑問に応じてくれるような微笑み。その微笑みが、いつも岡井の心をすくいとって、震わせる。
 無性に夏樹に逢いたくなった。逢いたいと思ったその瞬間にでも逢いに行ける距離にいるせいで、その気持ちが急激に膨らんでいく。
「このままだと岡井さんが風邪を引きます。その格好は薄着過ぎる。戻りましょう」
 悠里はダウンジャケットを羽織っているけれど、岡井はスウェットのままだ。外に出るつもりではなかったのだから、これでも十分だった。
 薄着だと指摘された途端に寒さが骨まで染み込んできては、思わず身体を縮めた。
 指先はかじかんで少し痛いくらいだった。
「ところでこの雨戸、堅すぎないか?毎日こんなことをするなんて大変だな」
 まだ途中だった雨戸を閉める作業に戻ろうとすると、悠里は雨戸に触れては先ほどとは少し異なる、少し愉快そうな目をした。
「コツがあるんですよ」
 悠里が雨戸をスライドさせると、まるで油でも塗ったかのようにするりと雨戸が動いた。岡井がやった時はあんなにも酷く引っかかったというのに、すんなりと動いているそれに面食らった。
「何が違うんだ」
「慣れと、付き合い方ですかね」


 


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