冬の営み 壱
一人暮らしのまま引っ越しをするなら、業者を呼んだことだろう。だが岡井は夏樹の元に転がり込むことになった。すでに生活に必要なものが十分に揃っている空間に混ざるので、冷蔵庫や洗濯機などの家具は不要になった。 騙し騙し使っていた、不穏な音を立てるそれらを夏樹の元に運び込むことはない。すっぱりと回収業者に引き渡して身軽な状態になると、業者など呼ばずとも自分の車で容易に荷物を移動出来た。 元々あまり物持ちの良い人間ではない。良い機会だと思い、部屋にあったものを目に付いた先から捨てていったおかげもあるだろう。 引っ越しは呆気なく終わった。 今日から寝起きをする家は百年を超える日本家屋だ。それは外観からも察しが付くことであり、室内もそれ相応の古めかしさと、それに付随する色あせや軋みなどがあるはずだと思っていた。 しかし岡井があてがわれた部屋は、すっきりと綺麗に整えられており、張り替えられたと思われる新鮮ない草の匂いに満ちていた。壁の漆喰も褪せているどころか柔いアイボリーは清潔感と真新しさがある。 「おまえが来るから、丁度良い機会だと思って軽く手入れをしておいた」 夏樹はあっさりそう言ったけれど。畳の張り替えも壁の漆喰の塗り替えも、おそらく業者を呼んでやったものだろう。 岡井は自力で、実に簡素な引っ越しをしたのだが。その先が大事になったかも知れない。 「わざわざそんなことをしなくてもいいのに」 「古い家だからな。こまめに手入れがいるんだ。おまえが来るのも一つのきっかけだ」 夏樹は何でもないことのように言っているけれど、かかった金額を想像すると申し訳ない気分になる。 払うと言っても簡単に払える金額か分からない上に、この口ぶりでは夏樹は金など受け取らないだろう。 「家の手入れは、大変だろうな」 「まあな。古いから、ご機嫌伺いをしながらの共存だ」 家のご機嫌伺いとはまた奇妙な台詞だ。けれど夏樹はさも当たり前のように口にしている。生まれながらにこういう少し変わったところで暮らしていると、色々感覚が異なるのかも知れない。 「まさかこの家に住めるなんて思わなかった」 岡井は天井を見上げては太くどっしりとした梁に懐かしさを覚えた。 「初めて夏樹の家に遊びに行った時は拒絶されている感じがして、すぐに逃げ帰ったのに」 夏樹の家に遊びに行きたいと言ったのは自分だ。古く、大きな家だと聞いて好奇心を刺激されたのだ。自分と縁の無かった、時代を感じさせる日本家屋に友達が住んでいるとなれば、一度は目にしたいと思うものだろう。 だが夏樹は渋った。あまり他人を入れるのは歓迎されないと言ってたけれど、若かった岡井はそのことが上手く想像出来なかったのだ。 家族が歓迎しないのではない、家の空気が他人には厳しいものなのだという説明も逆に気になった理由でもある。訳が分からない、ならばいっそ体験してみたいと思ったのだ。 そして岡井は招かれざる客であることを、肌で知った。 木で作られた分厚い門をくぐった時から視線を感じていた。石畳を進んで玄関に入ると四方八方から注目される感覚はもっと強くなった。 夏樹から聞いていた家族の数とは合わないその視線。しかし周りを見渡しても人間の姿はおろか、それらしい気配もない。だが視線だけはずっと付いてくる。 夏樹の部屋に入ると傍らに何かがいるような気配がした。 不気味なその感覚に、岡井は逃げるようにして夏樹の家から出ていた。 (本当ならそれで懲りるようなものだった) けれど夏樹に対する興味は薄れなかった。むしろ余計に気になって、夏樹ばかり目で追いかけるようになった。 そして再びこの家に足を踏み入れた。 二度目は、最初の頃のように恐ろしいほど圧のかかった視線はなかった。時折視線が通るくらいで、一度目と比べると格段に過ごしやすい空気になっていた。 それ以降、訪問する回数が重なると奇妙な視線が気にならなくなった。慣れたのか、視線がなくなったのかは分からない。だが岡井にとってこの家は、恐怖や緊張を覚えるものではなくなっていた。 「おまえも体感したように、この家は特殊だ」 夏樹は改めて家の中を案内しながら、真面目な表情で岡井を見た。よく聞けと注意されずとも分かるような表情だ。 「おまえにも気を付けて貰わなければいけないことが幾つもある」 「ああ、覚悟はしてきた」 特殊な家で暮らすのだ。郷に入っては郷に従う、決して無駄に我を通そうとしてはいけないのだろうと思っていた。 「一番重要なことは、悠里に対してからかいであっても結婚や恋人、恋愛絡みの話は振らないでくれ。家守に関わることならば良いだろうが、人間絡みのものは一切駄目だ」 「それは家守のつがいだから、ということか?」 夏樹の甥である悠里は、家守というこの家の守り神のつがい、伴侶であるらしい。 目に見えない守り神の伴侶だなんて、現代では到底認められないような時代錯誤の風習をこの家では続けているそうだ。 「冗談であっても絶対に言うな」 「家守は冗談が通じないのか」 「通じない。まして悠里のことに関しては敏感だ。昔酒の席で悠里に縁談の話を持ちかけた親戚は、それからすぐに巨額の借金を作り自己破産をした。現在は行方知れずだ。悠里が中学生の時に娘の恋人にと言った男も、すぐさま金に困窮しては妻に逃げられ、うちに金の都合を申し込みに来た」 「貸したのか?」 「哀れみで貸してやった。悠里に二度と関わらないことが条件だ」 「家守は厳しいな」 この家の守り神は親戚にも影響力が強いらしい。特に金回りに関して力を発揮するそうで、貧富は思うままなのだろう。 この大きな家を維持できているのも、その守り神の恩恵があるのかも知れない。 「家守は融通が利かない」 「神様というのは慈悲深いものじゃないのか?」 神頼みをすれば願いが叶えられる、人を救い出してくれるのが神様というイメージが岡井にはある。ましてこの家の守り神というのならば、一族の繁栄を願うと共にあたたかく守ってくれるのではないかと、今まで勝手に思い込んでいた。 「神様というものは意外とシビアだ。何もかも受け入れてくれるなんて思わない方がいい。少なくともうちでは、許されざることをした者に対しては容赦なぞない。情けはかけない」 「おっかないんだな」 「それでも守ってくれる。守って貰えるのは俺たちが家守を奉り、そして悠里というつがいがいるからだ」 「それじゃあ生け贄みたいだな」 ぽろりと零した台詞に夏樹が「おい!」と鋭い声を飛ばしてくる。焦りと怒りが含まれたそれに、軽口を叩くことも許されないのだと分かる。 (悠里に関することは本当に敏感なんだな) そしてこの家の人間にとって家守は本当に神様として機能しているのだ。生活の中に息づいており、いかなる時も非礼のないように扱うものであるらしい。 「すまん。失礼だった」 素直に謝ると、夏樹は深く息をつく。 「まあ、言いたくなる気持ちは分かるが、生け贄もつがいも本人の気持ち次第だろう」 本人がそれを望んでいるのならば、守り神のつがいになっていることを光栄だと思っているのならば、現状は幸せだろう。 実体のない守り神に直接何かをされるわけでもないはずだ。 「悠里はどう思ってるんだ?」 「あいつは受け入れているみたいだ。子どもの頃から家守のつがいと言われて育てられたというのもあるし、浮世離れしているからなぁ、あいつは。だからこそつがいに選ばれたのかも知れないが」 「おまえも大概浮世離れしていると思うが」 「そんなことはない」 平然と否定している夏樹だが、岡井は初めて逢った時に、夏樹のことを違う世界に生きている人間のように感じた。静かで、夏樹の周りだけ異なる時間が流れているように思えたのだ。 それが岡井の興味を惹いた。心奪われた、とも言えるだろう。 「俺は悠里にどう接すればいい?」 守り神のつがいだ。特別に敬意を持って接しなければいけないだろうか。 これまでは悠里に会っても夏樹の弟という目線でしか見たことがなかった。けれどこの家で暮らすならば、態度を変えるべきか。 「……出来れば弟のように扱って欲しい。既婚者の弟みたいな感じで、決して下ネタなどは振らないように気を付けてくれれば有り難い」 「なるほど」 既婚者ならば弟相手であっても結婚だの恋人などという話は振らないだろう。そんな不倫を勧めるような話題は失礼だ。下ネタも禁止されるというところは普通の兄弟の会話とは違うかも知れないが、人によっては下ネタが嫌いだという人もいるだろう。 それくらいならば特別注意して接するようなことでもない。 これまでと違わない態度で良いと分かり、正直胸を撫で下ろす。 「永里にも同じような感覚でいいか?いきなり赤の他人と暮らすことに抵抗はあるだろ」 「あいつはおまえが来るのを楽しみにしてた。俺も悠里もインドア派だからな」 永里は叔父と兄に似ることなく、陽気で行動力があり、賑やかな場が好きな高校生だ。二人と違い家にいることは少なく、平日は学校と部活、休日でも朝から遊びに出掛けているらしい。 性格も兄弟は正反対に近いらしく、あまり仲は良くないそうだ。 「まあ、気が向いた時にでも相手をしてくれれば良い。あいつは一度構ってやるとしつこい面があるから、ほどほどにな」 兄弟の説明を聞きながら、新鮮を覚えていた。 夏樹は二人きりでいる時とは異なる横顔をしている。保護者、父親という単語が頭を過るが、最も似合っているのは。 「母親のような台詞だ」 夏樹は岡井の呟きに顔をしかめた。 次 |