春の巡り 弐



 桜の幹にヤモリがいることについて、叔父と一瞬目が合ったけれど、互いに何も言わずに視線は逸らされた。
 二人のやりとりを永里も岡井も気が付いていない。花見弁当に付いて来た桜餅を先に食べた永里について、岡井が呆れながら注意している。和やかなものだ。悠里よりもよほど岡井の方が永里の兄らしく見える。
「岡井さんって今どんなバイク乗ってんの?」
「おまえは乗せないからな」
「えー!」
 岡井は大学生の頃から派手なバイクに乗っている。バイト代をこつこつ貯めて買ったというバイクは見るからに排気量が多そうで音が大きなものだった。それに見合った大きな車体はかなりスピードが出るらしく、岡井は嬉しそうに自慢していたものだ。
 当時幼かった永里はそんな岡井のバイクにキラキラとした瞳を向けていた。働く乗り物シリーズが好きな永里は、どうやらバイクもお気に召したらしい。岡井が来る度にバイクに触りたがって、家族で止めたものだ。
 年齢が上がるとバイクに乗ることに俄然興味を持ち始めた。最近ではバイクの免許を取りたいと叔父に相談していたくらいだ。
「乗せてよ!」
「駄目だ。うるさいのがいるからな」
「叔父さん!」
「岡井がバイクで事故ったのは知ってるだろ」
 叔父は永里がバイクに乗ることに難色を示していた。今も渋い顔で永里を止めている。
 事故を起こしたような男のバイクに永里を乗せられるものか、と明らかに岡井の運転を信用していない。
「昔の話じゃん!」
「おまえは知らないだけで、こいつは大学の時だけじゃなくてあれからも事故ったんだよ!しかも骨折までして!一人暮らしが骨折なんてしたら困るって分かってんだろうが!」
 叔父は永里ではなく隣にいる岡井への説教を始めた。
 兄弟を叱る時よりも感情的になっているように見えるのは、同い年だという気兼ねの無さか、それとも保護者の体面を気にしていない素顔になっているからだろうか。
 岡井は叔父の説教など気にせず、涼しげな顔で出汁巻きを食べては「美味いな」と呟いていた。
「大学時代は俺が自転車でわざわざ迎えに行ってやったけど、会社の通勤まで面倒を見させられるとは思わなかった!」
「夏樹の車があって良かったよ」
 岡井は軽く笑っており、それに叔父が岡井の膝を叩いた。とても良い音がしたのでなかなかの力強さで叩いたことだろう。
「そんなことあったっけ?」
「おまえは朝練で早くに家を出ていたから分からなかったんだよ」
 叔父が言っているのは二年前のことだ。叔父が車で岡井の通勤を手伝うより先に、永里は部活の朝練に出て行っていた。なのでわざわざ叔父も岡井のことは口にしなかったのだろう。
 元から岡井とのことはあまり喋りたがらない節があったので尚更だ。
「こんなやつに感化されてバイク乗りになるなんてとんでもない。危ないから止めておけ」
「叔父さんって、マジでかーちゃんみたい」
「おまえらのかーちゃんの代わりだ。ちゃんと聞いておけ」
 永里は手鞠寿司を頬張りながらぼやいているけれど、亡くなった実の母は叔父よりもずっとおおらかな人だった。きっと永里がバイクに乗りたいと言っても「いいんじゃない?」なんてあっさりと言ってしまうようなタイプだ。
 けれど幼かった永里はそんな母の性格まで細かく覚えていないらしい。きっと脳内で母は口うるさい存在に変わっていることだろう。
「原付から始めたらいいだろう」
「だっせーじゃん!」
 大型バイクばかり狙うから叔父が止めるのだ。まずはさしてスピードも出ない、手にも入れやすい原付バイクから始めれば良いだろうに。悠里が無難だろうと思うことを言うと、永里はばっきりと切り捨てた。
「というかバイクはバイクでもロードバイクが欲しいって言ってたんじゃないのか」
「それはそれだよ!」
 ロードバイクの漫画を読んで、単純に永里はロードバイクが欲しいと叔父にねだったのはついこの前のことだ。誕生日プレゼントにするかどうかはまだ決まっていなかったけれど、叔父からは仕方ないという雰囲気が漂っていた。
「ロードもいいよなぁ。俺も昔乗ってたわ」
「マジで!?」
「おまえらはどれだけ趣味がかぶってるんだ」
 叔父が溜息をつくのも構わず、岡井と永里が次はロードバイクの話で盛り上がる。
 花見弁当の中身が空になり、スナック菓子に手を伸びても二人は自分たちの趣味の話をどんどん膨らませていった。叔父がその度に苦虫を噛み潰したような表情を見せていたのだが、一向に収まらない。
 酒も入っていないのに三時過ぎまでだらだらと喋り続けていると、永里が大きな欠伸をするようになった。
 春の日差しはあまりにも心地良い暖かさで、ゆるりと気が抜けてはその隙間に眠気が入り込むのだ。
「昨日夜中までソシャゲしててさ、あんま寝てないから眠くて」
「夜更かしばっかりしてるんだこいつは」
 あくびを繰り返す永里に、叔父が眉をひそめた。成長期の子どもが夜更かしなんてするな、さっさと寝ろと口が酸っぱくなるほど言っているのに永里は聞かない。
 据え置きゲームの頃から、やり始めると夢中になって時間の経過が分からなくなっていた弟だが。スマートフォンを買い与えてからは叔父の監視が届かなくなって益々ゲームに時間を取られているらしい。スマートフォンを取り上げるぞという脅しも最近耳にするようになった。
「昨日だけ、昨日は特別だったんだって」
「おまえは毎日が特別だろうが」
「いいフレーズだな。毎日が特別。俺もそういう新鮮な気持ちで生きていきたいわ」
「でしょでしょ!」
「岡井!余計なことに口出すな!」
「眠いなら部屋に帰って寝ろよ。ここで寝転がられても誰もおまえを運んだりしないからな。いい加減デカイ図体になったんだ」
 悠里がお茶を飲みながら淡々と告げたことに永里はむっとした顔を見せる。ぐっと伸びた身長は悠里や叔父とほぼ同じくらいで、運んでやるにはとうに重くなった身体だ。岡井は永里より頭一つほど大きいのだが、甘やかすなと叔父に叱られたばかりで黙っている。
「……岡井さん、晩飯も食ってけば?」
 眠いのは事実だが、このまま岡井が帰るのは惜しいと思ったらしい。永里がちらりと上目遣いで訊いて来たことに、岡井はそのまま顔を叔父に向けた。決定権を丸投げされた叔父は肩をすくめる。
「別にいいけど」
「焼き肉でも食いに行くか」
「やったー!!」
「おまえな、昼飯だって豪華だったのに、晩飯が焼き肉ってどれだけ甘やかすつもりだ。それにこいつはすっごく食うんだからな。おまえが半分出せよ?」
 文句を言う叔父に、永里は決定を覆されまいとさっさと部屋に帰っていった。随分喜んで興奮していたのだが、そんな状態からすぐに昼寝が出来るものなのだろうか。
 三人になると途端に静かになった。
 メジロがつがいを呼ぶ軽やかな歌声が響く。その声にはらりはらりと桜の花びらが舞っていた。悠里が持っている湯飲みの中にも一枚花びらが下りてきてはそっと水面に浮かんだ。
 すっかり冷めてしまったお茶に風情を加えてくれる花びらに自然に口元も緩む。
「バイクは良くない」
 叔父は穏やかな空気を破るようにそう口を開いた。
「安全面に問題がありすぎる。もし転けた時には生身の身体がアスファルトに投げ出されるんだぞ。せめて車にしてくれ」
「永里が車に少しでも関心があるなら俺だってそうするさ」
 岡井が永里に対してこれが良いあれが良いと魅力を語っているわけではない。永里が一方的に岡井が持っているものに好奇心を抱くのだ。岡井を責めたところでお門違いだということは叔父も分かっているはずだが、つい愚痴ってしまいたくなるのだろう。
 それは岡井に対する甘えにも見えた。
「岡井さんが永里を車で連れ回したら、あいつも車に興味を持つんじゃないですか?ただ二人の邪魔になりますけど」
「……いや、邪魔だとか、そういうことはないが」
 岡井と叔父が一緒にいることを大前提としている悠里に、岡井が口籠もった。戸惑いが色濃く宿った目でちらりと叔父を窺っている。自分たちのことを悠里がどこまで知っているのか。叔父に助けを求めているのかも知れない。
 叔父は叔父で完全に固まっている。
 二人のことに関してこれまで悠里は何も言ってこなかった。自分にとってはさして関係のないことだと思っていたからだ。
 けれど去年の夏に家守が叔父と岡井の関係を認めたことを何となく聞いてからは、二人はそういうものなのだという認識ではいた。
「永里が二人の関係に気付くことはないと思います。あれは底抜けの鈍さです」
 男同士で付き合うなんてことがあるわけがないと思っている。兄である悠里が男の家守に抱かれているところをちらりとでも見たことがあるくせに、恋愛も性行為も異性とのみするものだという固定概念を崩さないのだ。
 どうせ家守は例外、人間じゃないから。というこじつけの上に座り込んでいるのだ。
「悠里君は、いつから俺たちのことに気が付いた?」
「……いつからでしょう。もう覚えていません。叔父が岡井さんに対しては心を許しているし、友達というには少し違う気がして。付き合っているんじゃないかって思ったら、すごくしっくり来たんです」
 ずっと前からそんな予感はしていた。
 お互いを見る目が、他の誰を見る目とも異なっていた。
 目は口ほどにものを言うのだと、二人を見ているとよく分かる。
 家守から二人の関係を囁かれた時に「やっぱり」と思わず零していたくらいには、とうに気が付いていた。むしろそうじゃなければ何なのかとすら思っていた気がする。
「嫌じゃないのか?俺と夏樹は男同士だ」
「それを俺に訊くんですか?」
 悠里がこの家ではどんな存在であり、守り神にどう扱われているのか岡井は叔父から聞いているはずだ。案の定答えではなく問いかけを返した悠里に対して、やや気まずそうな表情を浮かべている。
「家守は神様なんだろう?人間とは違うんじゃないのか?」
「男ですよ」
 雄と言った方がしっくり来るけれど、岡井にとってはそんな単語より男と言った方が家守の姿が伝わりやすいだろう。
 この家の人間である叔父は押し黙っている。家守にとっての雌が男の悠里であることに、まだ後ろめたさのようなものを抱いているからだろうか。悠里に対して、生まれた時からそう刷り込まれた憐れな子という思い込みが叔父の中にはあるようだった。
 いずれそれも無駄なことだと分かって貰いたいものだが。まだ道のりは遠いのかも知れない。
「別にそんなことは構わないと思います。欲しいものとつがえばいいんです。それが自然じゃないですか」
 欲しいと思うものを手に入れようとするのは、生きている者の当然の欲求だ。それに従い生きることの何が過ちなのか。まして二人ともがそう感じているのならば、それは一対である証拠だ。
 むしろ一緒に生きていくのを諦める、という選択の方がおかしいだろう。
「君はやっぱり独特だね」
 岡井は悠里から目を伏せてはそう落ち着いた声音で答えた。
 普段は叔父と同じ年なのに叔父よりずっと若々しく時には無邪気さを感じさせる人なのだが、やはりそうして思案している声音に深みがあるところは、年相応の重みを感じさせられた。
「叔父にも幸せになる権利があります。家守もそれを保証している。俺たちの面倒を見て俺たちの犠牲になるだけでは、叔父の人生は一体何なのだという話にもなります」
 二十代の内から小さな子ども二人の世話をいきなり一身に背負わされたのだ。その上この家の厄介事の全てが叔父に丸投げされた。
 当時勤めていた会社も辞めてこの家に引き籠もり。ただひたすら悠里と永里を育てること、この家を守ることに尽力した叔父に、恋人と共に生きる道までも捨てろと誰が言えるのか。
 叔父が望んでいただろう生き方を捨てさせたその代償にはほど遠いけれど、せめて好きな人と共に歩いていく道くらいは握り締めて生きて欲しいと思う。
「俺は犠牲になったなんて思っていない」
 悠里が叔父を気遣うと、叔父はいつも微笑みながら慰めをくれる。だがそれすらも悠里への思いやりだとしか思えないのだ。
 思いやりはいいから素直に思ったことをぶつけても良い。叔父が自分に不満や憤りがあるのは当然なのだと言っても、叔父は「そんなものはない」と温情を見せてくれるだけだった。それが歯痒い。
「悠里、犠牲という言い方は良くない。夏樹からはいっぱいおまえたちの自慢を聞いている。おまえたちを育てられるのが嬉しいんだよ。大体夏樹はおまえたちが生まれた時から本当に叔父馬鹿でな、可愛いってどれだけ聞かされたか」
「岡井!」
「口うるさいのも心配性なのもおまえらが可愛いからだよ。永里にもそう言ってやれ」
「永里だって言わなきゃ分からないほど、馬鹿じゃありませんよ」
 叔父がどれほど自分を守ろうとしてくれているのか。それくらい永里だって分かるはずだ。だからこそ親戚がここに来ることを叔父同様に拒み、些細な家事や叔父の手伝いをしようと様子を窺う姿がたまに見受けられるのだ。
 ただ幼稚で不器用で、上手くいかずに癇癪を起こしたり、落ち込んだりしているだけだ。叔父にとってみればそんな有様は情緒不安定に見えたり、自分に対しての苛立ちに感じる場面もあるかも知れない。だがちゃんと気持ちは叔父に向き合おうとしている。
「……ずっと弟が欲しかったんだよ。だからおまえ達が生まれた時は嬉しかったさ」
 叔父は照れくさいのだろう。目を逸らしては不機嫌そうな表情を作ってぼそりと告げる。じわりと耳が赤くなっていくのを岡井が愛おしげに見詰めていた。
 叔父も岡井が傍らにいると、こうして恥ずかしそうに自分の気持ちを吐露するのだなと新鮮さを感じる。
 悠里と永里だけしかいない場では泰然とした大人の顔を崩そうとしないのだ。強く大きなものでいようと気を張っているのがたまに痛々しく思える時もあった。
 だが岡井がいれば肩から力が抜けるのだろう。もしかすると岡井に寄り掛かることもあるのかも知れない。
(ここにいて欲しい)
 微笑む岡井に対して、叔父の傍らにどうかいて欲しいと願った。それはこの家で日常を共有することも悪くないのだろうと、肌で感じた瞬間だった。


 


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