春の巡り 壱



 冷たいものが布団の中に入り込んでくる。ぞわりと寒気がして目を覚ましてしまった。
 眠りが途切れた不快感と、背後からぴったりとくっついてくる冷たいものに否応なく小さな苛立ちが生まれてくる。
 だが耳のすぐ後ろに、ほうと安心したような吐息がかけられると、その苛立ちはするりと悠里の元から去っていった。
 寒さにぶるりと震えた身体が背後からすっぽりと包まれる。悠里の指に、長く冷たい指が絡まる。その指は意外なほどに早く悠里の体温と馴染んではすぐに冷たさを和らげた。
(春か……)
 冬の間は感じるすらなかった体感だ。家守は寒さに弱く、冬になると滅多に姿を現さなくなる。だが寒さが少しずつ和らぎ始めると、家守は夜中に悠里の布団に潜り込んでくる。
 まるで夜の寒さに耐えかねて、悠里で暖を取ろうとしているかのようだ。
 実際に冬眠から目覚めたばかりで、世の中の寒さから避難するために悠里の元に来ているのかも知れない。
 眠りが妨げられる悠里にとってはたまったものではないのだが。何年も繰り返されていれば慣れもする。ましてそれが自分のつがいであると刷り込みのように教えられた存在だ。甘えるように擦り寄ってくる家守を邪険にする気持ちもそう沸いては来ない。
 春が来たことを実感するだけだ。
 家守が背後からそっと手を握ってくる。もう悠里と同じ温度になった掌だ。
 すると遠のいていた眠気がゆるゆると戻ってくる。
 人ならざるものに包まれていることに関して恐怖はない。不思議といつもあるのは、それが自分のものであり、自分がそれのものであるのだろうという漠然とした安定感だった。
 赤ん坊が母親の胸に抱かれた時には、きっとその胎内にいたことを思い出して眠っているのだろうと想像するように。家守の腕の中は自分が生まれてくるよりも前の本能に染み込んでくるような心地良さがあった。
(何故だろう)
 淡くそんな疑問が頭を過ぎるけれど、考えるよりも先に意識は眠りに落ちる。
 眠気と心地良さが混ざった状態で起きていられるわけがない。
 一度たりとも抗えたことがない感覚に、悠里は今日も自ら落ちていった。



「花見でもするか」
 庭の桜がそろそろ満開だ、という話をした後の返事がそれだった。
 叔父は昼飯の支度をしており、悠里も台所に立って餃子を焼いていた。家事は主に叔父がしてくれるのだが、幼児でもあるまいし、叔父一人に家事を丸投げするというのも心苦しい。
 親でもないのに自分と弟を養い、育ててくれている人だ。面倒ばかりかけるのも申し訳がない。叔父は気にするなというけれど、家事を覚えることは自身のためにもなる。
 なのでよく叔父の手伝いはしていた。
 悠里とは違い永里は家事は苦手でよく逃げるけれど、それでも家の中の力仕事は率先してやるように心掛けている節があるので。永里なりに叔父に感謝しているのだろう。
「永里も明日は確か何の予定もないって言ってた気がする」
「なら良い時期かも知れない」
 じゅうと音を立てて焼けていく香ばしい餃子を見下ろしながら、悠里は頷いた。
 母と祖母が健在だった頃は、桜が満開になると親戚たちを集めて盛大に花見をしていた。庭に植わっている桜は樹齢百年は超える立派なものであり、春になるとそれは豪奢に咲き誇る。
 見事な桜を仰ぎながら親戚たちは酒を飲んではどんちゃん騒ぎをして、それは賑やかで大変だったものだ。
 けれど母と祖母を立て続けに喪ってから、花見などの行事は全て止めた。
 この家には叔父と悠里と永里しかいないからだ。たとえ父親が海外出張になっておらず、家にいたとしても結果は変わらなかっただろう。
 女手が足りないから無理だ、と行事や祭りを悉く断る叔父に親戚たちは非難の目を向けた。親戚の女達が手伝いをする、支度は任せて欲しいと言っても首を縦に振らないので、叔父はこの家を自分のものとして好き勝手に扱うつもりだと、罵った者もいた。
 けれど叔父は断固として親戚が家に入ること、そして行事を通してこの家の内側に干渉してくることを防ぎ続けた。
 家守がそれを願ったからだ。
 幼い兄弟を守るために必要なことであったと、今の悠里にはしみじみ分かる。
 その分叔父が辛い目に遭ったということも。
「岡井さんも呼べばいい」
「……そうか」
 悠里がその名前を出すと叔父の手が止まった。だが少し迷ってから、短く答える。横顔が緊張したものに変わったのが見て取れるけれど悠里はあえてそれ以上言葉を重ねなかった。
 家守は家を守り続けた叔父に恩を感じている。
 この家の中に親戚ですらない男、叔父が付き合って居るだろう岡井という人を入れるのも悪くないかも知れないと思うほどだ。
 家の人間だけを守り続ける。そのためには害になりそうなものは一切排除をする。危険なものは欠片たりとも入れたくない。
 神経質な家守が、ふらりとただ訪問してくるのではなく、わざわざ家族の行事の中に赤の他人を招くということは、驚くべきことだと叔父は認識出来るはずだ。
 それが意図とするところも、おそらく察している。
 転機が来る予感に、悠里もまた黙って焼けていく餃子を見詰めながら微かに高揚を感じていた。



 花見をすると言うと永里は軽く「いいよ」と言った。予定がないというのは本当で、何をしようか考えているところだったらしい。行動力が有り余っている弟は何の予定もない一日というのは認めがたいそうで、何かしらの用事を入れようとする。
 家族と行動を共にすることに抵抗を覚えるような年頃だろうが、生憎うちには親はいない。親代わりの叔父はいるけれど、年のそう離れていない叔父とは兄弟のような面もあるので、家族の行事についてもさほど嫌がりはしなかった。
 兄である悠里とは衝突が多いけれど、叔父が間に入ると空気が滑らかに動いてくれる。それも叔父のおかげだろう。
 幼い頃には見えなかった色んなことが、大人になると見えてくる。それを悠里は年々思い知る。
「久しぶりだな」
 岡井のことは叔父と会話をしているとよく名前が出てくる。それに叔父に会うために我が家の門扉まで来ることはたまにあるので、久しぶりと言っても悠里にとっては数ヶ月ぶりくらいだ。
 けれど玄関に立った岡井は緊張を隠すことも出来ないようだった。花見という、家族の行事に入れられることの意味を分かっている。もしくは花見の話を叔父から聞いた時にその辺りも説明されたのかも知れない。
「岡井さん!久しぶりじゃん!」
 永里が嬉々として岡井を迎える。中学校の通学だ、部活だ、友達と遊びに行くだのと言って家にいる時間が少ない永里は、なかなか岡井に遭遇するタイミングがなかった。なので数年ぶりになるだろう再会に喜んでいるようだった。
 永里は岡井によく懐いていた。どちらかというと大人しい印象の叔父と違って岡井は永里と同じく行動的で、振る舞いは粗暴ではないのだが、表情などがどこか野性味のある男だ。どうやら憧れの対象として見ている節もあった。
「昔はよく来てたのに!」
「あの頃はまだ暇があったんだよ。最近忙しくてさ」
 岡井はそう言っているけれど、我が家によく来ていたのは母と祖母を喪い、父が海外転勤になって家の中ががらんとしている頃の話だ。叔父が二人の子どもの面倒を見ていることが気になって、岡井は頻繁にやって来ていたのだろう。
「バイクの模型とかくれて、夢中になって作ってたの覚えてるなぁ〜」
「永里が部品を振り回して、どっかに無くして騒いだもんだ」
「しかも見付からなかったな」
「そこは忘れてよ」
 岡井と叔父の両方から、子どもの頃の失敗を話されて永里は膨れっ面を見せる。ここのところ高校生になるということで大人ぶった言動が増えてきただけに、そういう態度は幼さを滲ませる。
 桜の下でレジャーシートを広げては男四人が腰を下ろした。近所の料亭で花見弁当を作って貰っている。たまの贅沢だと叔父は言っていたのだが、弁当を作るのが純粋に手間だったということもあるだろう。
 色とりどりのおかずに、小さな手鞠寿司がみっちり詰まった弁当はどう見ても四人前ではないのだが、育ち盛りの永里がいるせいだ。
 叔父が自身の過去を思い出しては「俺はそんなに食ったかな」と首を捻っているのを何度も見ている。ちなみに悠里は成長期でも落ち着いたものだった。そんなところまで年寄りみたいだと笑われたものだ。
「花見弁当とスナック菓子が並んでるのは、なんとも言えない光景だな」
「永里が食べたがるんだよ。花見ならポテチとコーラは必要だって」
「だっているでしょー!」
「もっと茶を飲めよ。ここの家の茶は相変わらず美味い」
 ポットを庭に持ち込みお茶を入れているので、桜の花びらを受けながらお茶を飲むことが出来る。岡井はしみじみとお茶を堪能しているらしいが、常日頃からその茶に慣れている永里にとってはぴんとこないことだろう。
「茶葉は良いものを使ってるからな。食い物にはある程度気を遣わなきゃいけない。ジャンクフードもスナック菓子もほどほどにさせている」
 永里を横目でちらりと睨みながら叔父が岡井にそう説明をしている。我が家の食卓には叔父がきちんと味と質を考えて作った食事が並ぶのだが。永里は隠れてジャンフードを食べている。それを叔父もまた察しているのだ。
 人の努力を無視しているやつめ、と視線で責めているに違いがない。
 永里は知らぬ顔で「いただきまーす」と声を上げて花見弁当に手を付けた。美味い美味いと大袈裟なほどに喜んでいるのは、食事に関して問い詰められたくないからだろう。
「ふぅん、兄弟は味にうるさいのか?」
「まさか。俺も永里も文句なんて言いませんよ」
「こいつらじゃない。身体を作るものだから、きちんとしたものを美味しく作るように言われている」
 果たしてそれは誰に言われていることなのか。
 叔父は肝心なことを口にしない。
 永里はそのぼかされている部分を、亡くなった母や祖母からだと思っているようだったが。実際は異なるだろう。
 おそらく家守が悠里の口を介して叔父にそう伝えているのだ。
「特におまえは丁寧に育てるように言われている」と叔父から聞かされたこともある。
 家守のつがいだから、なのだろう。
「こんなところで美味い茶と飯が食えるなんて最高だな」
 岡井は顔を上げては感嘆の声を漏らした。
 ついこの前までは雪が降り積もっていたというのに、あっと言う間に柔らかな色の花が踊る季節になった。今年も桜は空を覆いほど伸びた枝に、花をたっぷりとつけてくれた。風もないのにはらりはらりと音もなく舞い落ちる花びらは幻想的だ。
 春が来た喜びを囁くような花びらを眺めていると、桜の幹に家守がいるのが見えた。どっしりとした幹にちょこんと張り付いている様は可愛らしいと言えるだろう。
 けれど晴れ渡った眩しいほどの真昼のこの時間、賑やかな桜の幹にいるということは意図があってのことだ。叔父だけは家守に気が付いては、神妙な面持ちで眺めている。
 あの瞳にこの景色はどう映っているのだろうか。


 


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