夏語り 弐



 涙が止まるまでの数分間、家守は黙って夏樹の頭を撫でていた。
 遠くにいる、絶対的な力を持った神様が妙に人間らしく感じた。これまで触れることはおろか、言葉を聞くことすら不可能だと思っていたのに。
 自分とそう大差ない、大切な人を守ることも出来ずに死なせてしまった後悔の念が、掌から伝ってくるようだ。
「……これから、どうしよう」
 涙を拭って、なんとか止まった嗚咽でそう呟く。
 どれほど泣いても死んだ人間は帰ってこない。それは自分でも分かっている上に、体現するように泣き続けた義兄を見ている。妻の棺にすがりついて声を上げる、あの悲壮な光景が目に焼き付いて離れない。
 姉は愛されていたのだ。
 だが愛されていた分だけ、別離は悲劇だ。
「親子三人……ここで」
 義兄と甥が二人。広すぎる家で父子家庭として暮らしていくことは決して容易ではない。
 親戚が世話をしに来るとは言っているけれど、下心が丸見えの女たちにはこの家に入って欲しくないと思ってしまう。
 何せ姉が亡くなった途端、義兄に再婚を勧めてくるような人間だ。見合いの話まで持って来た時は怒鳴り散らしてやったけれど、懲りてはいないだろう。
 母親を亡くして痛ましく泣き暮らす甥に取り入ろうとする女たちには、吐き気すらした。自分が母親代わりになれると思っている言動は到底見ていられない。
 無駄に財産と土地を持っている家の不幸は、周りにとっては蜜が滴るように見えるのかも知れない。
「夏樹、帰って来い」
「え……」
 家守の言葉に、顔を上げた。
 目が合っているはずだ。視線を強く感じる。
 なのにやはり家守の顔が見えない。見てはいけないもの、なのだろうか。
「この家に、戻っておいで」
 柔らかくなった言い方に声が詰まった。
(ここは……俺の居場所じゃない)
 実家が嫌いなわけではない。むしろ逆だ。物心ついた時から自分を育んでくれたどっしりとした古い木造の家。すきま風が酷く、湿気で引き戸が開かなくなることは当たり前。夜になると家鳴りがしては、地震が来ると即座に倒壊するのではないかと思う。昼間でも薄暗さが部屋の端に留まっては掃除をするのも一苦労だ。
 けれどその家は、どこよりも夏樹を包み込んでくれた。
 四季折々の草花が嬉々とした様で生きている庭も、時間の移り変わりを一日ずつしっかと伝えてきてくれる。生きているのは人間だけではない、動物だけではない、植物も生命を持つ大切な存在だ。日々その姿を変えて生きているのだと見せてくれた。
 土の温情とぬくもりはいつだって寄り添ってくれていた。  それが夏樹の心をどれほど豊かに成長させてくれたことか。
 この家に生まれてくることが出来て良かった、幸せなのだと思うことならばたくさんあった。
(でも俺は生まれてくるべきではなかった)
 この家で与えられたことに対して、自分は何一つ返せない。むしろ背くことしか出来ない。
 だから出ていったのだ。
 この家にいる資格がない。
「俺は駄目だ。知ってるだろう……?見ていたはずだ」
 高校生だった頃、夏休みに友達を家に泊めた時のことだ。広いばかりのこの家には客間が幾つかあるけれど、友達には自分の部屋に泊まって貰った。
 お客さんとして扱うには自分たちは子どもだった。友達同士同じ部屋で、まるで兄弟のように扱われるのが楽しかった。
 だが子どもとしてじゃれながら、兄弟のように接しながら、あの夏の夜。夏樹は友達に口付けた。
 自室に入る直前、友達に冗談のように肩をぶつけられて、笑い声が耳にするりと入り込んではごく自然と唇を塞いでいた。
(どこかで自覚はしていた)
 物心ついた時から、女の子を好きになることはなかった。
 気になる人も、付き合いたいと思う人も、対象は全て同性だった。
 だがそれが自分の本質なのか、同性にしか興味が持てない人間なのか、深く追求することを恐れた。自分が異端であることを認めたくなかった。
 幸いにも同性に対して性の衝動に突き動かされることはなく、ただ淡い恋情を抱いてはぼんやりと自分を誤魔化して生きていくことが出来た。
 あの時までは。
 口付けた瞬間、自分でも唖然とするほど「これが正しい」と感じた。これまでずっとこうしたかったのだと。我慢し続けて来たがもう限界だ、自分がそういう性質であることから目を背けられないのだと、そう知った。
 すとんと全てが自分の中に収まっていく感覚の中、視界の端には小さな爬虫類がいた。
 壁に張り付いて、ヤモリがこちらを見ていた。
 異性を求めることが出来ない、歪んだ本質を持つ夏樹を軽蔑するように、丸い瞳が夏樹を映していた。
「俺は、この家の繁栄には繋がらない。子孫を残すことは出来ない」
 家守は繁栄をもたらす守り神だ。その中にはこの家の者に子孫を残させ、家を脈々と受け継がせていくことも含まれている。なのに夏樹はその繁栄の歯車に入り込むことは出来ない。
(裏切り者だ)
 家守の恩恵を受けて生きているというのに、従うことが出来ない。
 罰が当たるだろう。この家には相応しくないと断罪される時が必ず来るはずだ。
 それがいつなのか。
 あの瞬間から夏樹は恐怖を抱いてこの家にいなければいけなかった。
 断罪を待ち怯える暮らしは、これまで感じていた心地良さと安堵の分だけ重かった。
 だから大学進学を理由に逃げ出した。
「全部、知っているだろう?」
 逃げ出した夏樹の背中も眺めていたはずだ。家守はこの家の中にあることは全部、把握出来るはずなのだから。
「私は一度たりとも、おまえに子を成せと命じたことはない」
「子が成せないなら家は絶える」
「永里がおる」
 そこで悠里の名前を出さないのが、家守らしいと思った。自分のつがいには決して人をあてがうことを許さない家守の性質だ。
「永里がもし、俺と同じなら?もしくは子どもを残せないような身体なら?」
「あれは妻を選び間違わなければ、子宝にはよく恵まれる。見れば分かることだ」
 見れば分かると言われ、まだ七つになったばかりの子どもだというのに、将来子どもを持つかどうかまで分かるのかと驚かされる。
 そして同時に悟った。その目には、自分が子どもを持てない生き物であることはとうに見透かされていたのではないのか。
 友達に口付けたあの夜よりも、ずっと前から。
「おまえが自分の質を見誤る、もしくは歪めて妻を娶る方が厄介なことになっただろう。その点おまえは聡い。そしてこうなっては、その判断がこの家を生かす」
 聡いも何も、興味がないものを自分の伴侶にしても仕方がない。自分だけでなくその相手まで不幸にしてしまうだろう選択を、誰が手に取るものか。
 しかしそんな当たり前の選択の話よりも、家守が告げる「家を生かす」と言う台詞が引っかかる。
「どういうこと?」
「この家に帰って来て、母親の後を継ぐのが良い。この家のことをおまえに任せる」
 母親が亡くなるまでこの家の財産管理は全て母親がやっていた。何せ地主を長くやっているだけあって、どこにどんな物件を持っているのかすら夏樹は把握していない。株だの金だのどこそこの権利書だのというものはさっぱりだ。
 それを今から掘り起こして整理整頓し、管理しなければいけないとは思っていたけれど。その役割が自分に振られるは。
「義兄さんがいるだろう」
「あれは向いていない。秋穂にとって良い夫、子らにとっては良い父親だが。優しすぎる。特に身内がおらん故、親戚には甘い顔をする。財産なぞ持たせるとあっという間に周りに貪り尽くされるぞ」
「ああ……まあ」
 義兄は優しい性格の人だ。姉がしっかり者で気の強い性格だったので、おっとりしている義兄とは相性が良かった。
 身内には恵まれなかったので、家族が出来たのが嬉しいと。姉と結婚してとても喜んでいた顔も覚えている。それが親戚に対する甘さに繋がることもなんとなく感じてはいた。
「金の扱いもあまり良いほうではない。身内のためと言われると湯水のごとく金を流す。物の価値もよう分からんようだ」
(言われてるな)
 家守は淡々と義兄に対する評価を下している。一貫して金を持たせるような人間ではないということなのだろう。家を守るために財産の保護はとても大事な部分なので、慎重になるのも分かるのだが、子どもを抱き締めて今も途方に暮れている人を思えば少し気の毒でもある。
「まして子らがおれば、財産など構っておられぬということもある」
「きっと子どもを守るので精一杯だ」
 金も権利も土地もどうだって良い。子どもたちをしっかり守って育てなければいけない。
 そのことだけを頭に置いて暮らしていくことだろう。それはある意味正しいのだが、財産というものは子どもにとっても大事であり、彼らの権利であるということを忘れてしまいそうだ。
「おまえが家を握れ。おまえにはそれが出来る」
 外に逃げ出した人間を捕まえて、家の実権を握れと言う家守が正気とは思えなかった。
 本気で言っているのかどうか、疑いの目で見詰めるのだが家守はそれ以上言葉を重ねない。
「俺に、そんなことが出来るとでも?」
「おまえはこの家の人間だ。悠里の次にこの家によう合っておる。母親より上手く出来るだろうな」
(そんなわけないだろう。俺は)
 自分は違う、自分は駄目だと思い続けてきた数年間がのしかかってくる。裏切り者だと自分を糾弾していたのに、それがこんな形で家守によって覆されるなんて思わなかった。
 戸惑いが膨らんでいく一方で、このまま家守の言うことに従って良いのかという根本的な疑問が沸き上がってくる。
 家守はこの家の守り神である以上、どう足掻いても家を残そうとするだろう。しかしその家が残ること自体が、果たして自分たちの幸せに繋がるのだろうか。
(母親と祖母を亡くした悠里と永里にとって、家守は本当に守り神か?)
 本物の守り神ならば、肉親を喪わせることなんてしないはずではないのか。もうこの家守は守り神の力など残っていない、ただのまやかしになっているのではないか。
 もしそうならばいっそ家など捨てて、義兄は子ども二人を連れて家から出たほうが幸せなのではないか。
 義兄の収入は決して低いものではない。子どもに関しては夏樹も出来るだけ協力するつもりだ。手が回らない部分はホームキーパーを頼むなり、何なり出来るだろう。
 何もこの家で生きていくことだけが、道ではない。
 家守とは違って自分たち人間は、どこへでも歩いて行ける。
 黙り込んでは、家守から目を逸らして庭へと眼差しを向けた。鈴虫がその名前の通り、鈴を転がしたような音色を奏でている夜は、夏樹の沈黙に緊張感を混ぜなかった。
 苦悩する胸を余所に、風情すら漂わせて涼しげに流れて行く。
(……俺は、この空気にずっと包まれてきた)
 幼い頃、夜中に部屋を抜け出して庭を歩くのが好きだった。春は桜を、夏は虫の声を、秋は紅葉、冬は椿や雪化粧。静寂を漂わせた庭はまるで時代を巻き戻したように、現代の騒々しさと忙しなさから隔離されていた。
 家族の寝息を遠くで聞きながら、一人きり過ごすその夜の優しさはこの庭だけが与えてくれるものだ。見上げた空に瞬く星を一つ一つ指差して、自分だけの星座を作って遊んだあの小さな高揚感は外に出てしまえばもう決して感じることは出来ない。
(ここはいつも俺を見守ってくれていたから)
 怖いものなんて何もない。どんな恐れもこの家の中に入ってくることは出来ない。
 そう何の迷いもなく信じられた。肌で感じることが出来ていたのだ。
(きっとあの子たちもそうだ)
 嬉々として庭を走り回る子らの姿は、どんな恐怖もここまでは届かないと言う安心がある。すくすくと育つその心に、日々移り変わっていく自然の慈愛が染み込んでいることだろう。
 家守の力などもう残っていないとしても、隣にいるものがただの亡霊になっていたとしても。あの子たちが大人になるまではこの庭で駆け回っていて欲しい。
(これは俺のただのエゴだ)
 自分がそう育って幸せを感じる思い出を抱えているからといって、甥たちもまた同じような記憶を持てるとは限らない。けれど、期待を捨てられないのもまた事実だった。
 

 


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