夏語り 参



 菓子パンを食べ終わり、棒アイスに齧り付いている悠里は、いつかの夏樹のように縁側に座っていた。
 真夏の昼の光は眩しすぎる。しかし庭から流れ込んでくる風はまだどこか夜の涼しさを残しているようで、そろそろ夏の盛りも過ぎたのだと感じさせるものだった。
 蝉の鳴き声もいつ途切れることか。
 やかましいとばかり思っていたその声が終わる頃には、一抹の寂しさを覚えるのだから人間というのはどうにも勝手な生き物だ。
「悠里、高校を卒業したら俺の仕事を少しずつ手伝え」
 隣にどすんと腰掛けて、そう話を持ちかけると悠里が目を丸くした。アイスを咥えたままなので、間抜けな面だ。
「おまえが大学を卒業したくらいには、家のことは大抵分かるように仕込んでやる」
 十歳だった悠里を思い出しては、驚いている子に苦笑が浮かぶ。自分がこの家の仕事を引き継いでからもう七年、その間随分苦労したのだ。何せ家のことを回していた母親はいきなり亡くなったので、家のことは誰も何も分からなかった。
 義兄はこの家のことには関わっていなかった。それは所詮他人、余所の生き物だと家守が拒んだようにも思えた。
 何を訊いても首を傾げるばかりで、結局悠里が寝入った頃、家守を呼んではあれこれ尋ねた。
 眠っているはずの幼子の口から、ぞんざいな口調で家のことが語られるなぞ、端から見ていればホラーのようなものだろう。
 だがそれにすがってしまうほど必死だった。
「俺が引き継ぐって、叔父さんはどうするんだよ」
「隠居だよ」
「四十前で隠居か」
「別にいいだろう。本来この家はおまえが継ぐのが正しい形だったんだ。だがまだ子どもだった。だから俺が繋ぎとして座っていただけのことだ」
 家守のつがいなのだから、この家は悠里のものになるのが最も相応しい。
 夏樹はそれまでただ家を一時的に回していただけであり、時が満ちれば退くのが筋だ。家守もそれを望んでいるだろう。
「まあ、繋ぎとしている間に私腹も肥やした。隠居しても生活には困らないし、暇になったなら知り合いのところで雑用でもさせて貰うさ」
 この家を一応守っていたのだから、その謝礼として一部の権利を譲って貰っても構わないだろう。家守に窺いはするけれど、多少は目を瞑れと言いたいところだ。
 何せ独身三十路の男が小学生二人を抱えて、ありとあらゆる面倒を見てきたのだ。義兄は人が良すぎて周りにつけ込まれる、騙されて大損する前にさっさと家から出した方がましだと家守が判断して、海外にまで放り出されたのだ。
 あれには参った。
(人道に反していると思ったんだがな)
 しかし海外に出る直前、義兄が親戚だけでなく知人からも借金の申し込みをされて笑えない金額の金を貸し出していたと知った時には、単身赴任を止める気持ちが霧散したものだ。
 義兄には悪いが、夏樹にとっては義理の関係である義兄への温情などよりも、甥たちをまともに育て家を守ることの方が数千倍重要だったのだ。
 おそらく姉だって同じことをするはずだ。
 そして夏樹の仕事は着々と進み、悠里は高校を、永里は中学を来年の春に卒業する。ここまで来ればあともう一歩。そろそろ自分のことを考えても良い頃合いだろう。
「俺が家を継いだら家から出て行くの?」
「出ていった方がいいか?」
 悠里が完全に後を継げば、夏樹は用済みになる。この家にいる必要がないとなれば、出ていくのも自然だ。
 その頃には悠里も成人しており、責任能力もある。家事だの何だのも今から仕込めば十分出来るようになるだろう。
「まさか。この広い家に永里と二人とか、耐えられるわけがない」
 止めてくれと眉を寄せる子に、小さく笑った。この兄弟はどうにも仲があまりよろしくない。
 幼い頃から、家守のつがいだと周りが悠里を特別視したからだろうか。自分と同じ兄弟なのに、決して同じようには扱われない兄に、永里が不満を覚えるのは無理もない。
(それに悠里は独特だからな)
 育ちもそうなのだが、身に待っている雰囲気が街中で見かける高校生たちとは明らかに違う。この家と同じく静かで、世間の流れから隔離されたところで息をしているような清々しさと手の届かない遠さを感じる。
 それが他人からすれば、悪くない容姿と相まって神秘的に見えるのだろうが。なまじ自分と同じ顔立ちであるために、永里にとって悠里は異質なのだろう。
「どうせなら恋人でも連れて来てここで暮らせばいい。離れでも作る?」
 恋人、と平然と口にした悠里に息が止まった。
 これまで甥たちに恋人の存在を匂わせたことはない。そもそも付き合っている相手は男なのだ、女ではない分「友達」で通用する。
 相手にもそのつもりでいて欲しいと伝えてある。
 おかげで相手がこの家に来ることはほとんどなく、来たとしても徹底的に友達として振る舞って貰っていた。電話などでも気を抜くことなく、ざっくばらんな男友達の付き合い方を貫いていたはずだ。
 なのにどうして恋人がいると気が付いた。
「俺にそんな相手がいると思ったか?こんなに女の影がないのに」
「相手が女じゃないんだから、そりゃそうだろ」
 苦し紛れの誤魔化しを、悠里はあっさりと叩き落としてくれた。思わず空を仰ぎたくなるけれど「保護者」として過ごしてきた年月が降参を許してくれない。
「おまえな、なんで俺が彼氏なんて作ると思ってるんだ」
「別に相手が女だろうが男だろうが関係ないだろ。俺にそんなこと言わせるのか」
 じろりと睨み上げられて、家守の性別を思い出した。
 悠里のつがいというから、すっかり雌だと思い込んでいた。かつて夏樹の前に姿を現した時は雄の姿だったけれど、あれは自分の性癖がそれを望んだからか、もしくは守り神には性別自体が定まっていないのではないかと希望的に思っていたのだ。
 生憎そう上手くはいかず、家守は悠里を雌として認識していたという話だった。神様の感覚は分からない。
「叔父さんは、恋人のことになると意外と顔に出てるよ。知らなかったみたいだけど」
「…………そんなことは、ないだろう」
「堪えてるのは分かるけど、どうしても甘やかしてるのが出てる」
 悠里は人をからかうようでもなく、淡々と喋っている。溶け始めたアイスが指に滴らないように気を付ける方が重大だと言わんばかりだ。
(いつから気が付いていた。気が付いても知らないふりしていたのか)
 自分が恋人に対している向けている顔を、いつ理解したのだろうか。
「家守か?」
 あの守り神が悠里にそれを教えたのか。自分が同性しか好きになれないことを、家守は知っている。承知の上でここに置いている。
 それを悠里の耳に流し込んだのか。憎らしさが込み上げるのだが、それに悠里がぶっと吹き出した。
「彼氏に対する目とか声とか、他の人に向けるのと結構違うよ。隠してても好きなんだろうなって、近くにいると分かる」
「嘘だろう」
「叔父さんは平気で他人を騙せるし、表情取り繕うのも上手だけど。恋人だけには素直なんだなって。見てて思った。家守に教えられるまでもない」
 高校生に微笑ましいと言わんばかりの口調で語られては形無しだった。羞恥が全身を駆け抜けるけれど、ここで恥ずかしがれば余計に居たたまれないだけだ。
 深呼吸をして自分を落ち着かせようとしたが、正直今すぐ庭に穴を掘って埋まりたかった。
「俺たちの面倒を見て、ここまで育ててくれたんだ。これからは叔父さんが自分のために生きてもいいと思うけど」
「そうは言ってもな」
「付き合って長いだろ。昔から、あの人の名前はちょくちょく聞いてた気がする」
 悠里は小さくなっていたアイスをぱくりと口を入れては、棒を引き抜く。そして「あたり」も何も書かれていない素っ気ないその棒を左右に軽く振った。
「うちは部屋が余ってる。もっと言えば離れを作ればお互いのプライバシーも守られる。家賃もいらないし、庭は広い」
「永里が」
(違う。俺は何を言ってるんだ)
 そんなこと出来るわけないだろう、そう悠里を窘めるべきなのに、口から出て来たのは永里の名前だった。あの子がきっと嫌がるだろうという、言い訳だ。
「永里はそういうこと全然気が付かないよ。馬鹿だから。彼氏の家が火事になったとか、保証金詐欺にでもあって家賃が払えなくなったとか言ったら、何も考えずに受け入れるだろ」
 弟を馬鹿とはっきり言い切った悠里に、夏樹は反論出来なかった。
(あの子は男同士がそんなことになるなんて考え、最初から頭の中にないからな)
 有り得ないとすら思っているだろう。
 だからこそ、家守が雄であったことに混乱して一時期大変だったのだが。夏樹が後で「守り神だから男の姿をしているだけで、悠里とベッドにいる時もあのままとは限らないだろう」と阿呆らしい可能性を口にすると、すんなりと納得してくれた。
 それだけ永里にとって同性愛は別世界の話なのだろう。
 それが苦しくもあるのだが、あの子にまで男同士の恋愛を意識されると、この家に子孫が生まれなくなりそうなのであえて秘めている。
「叔父さんはこれまで頑張りすぎた。だからさ、これからは自分のことも考えて欲しいと思ってる」
「頑張りすぎたとは、別に思っていないが……」
「そう。じゃあこれからもこの家で頑張って俺たちを育てて」
「いつまで甘えるつもりだ」
 家を引き継げと言った夏樹の台詞をすっかり忘れたように、そうじゃれてくる悠里の頭にこつりと軽く拳を当てた。到底痛くないだろうその接触に、悠里が首をすくめる。
 そんな子どもらしい仕草や甘えが、夏樹は決して嫌ではなかった。むしろ親に甘えたいだろう年頃に自分しかそばにいてやれなかったという憐憫の情がある。
「隠居するにはまだ早いし、出ていくなんてもっての他だって」
「え?」
「俺も永里も未熟者だ。何より寂しいから駄目だってさ。家守がそう言ってる」
 悠里は夏樹ではなく、その後ろに目をやっては口元を緩めた。
 はっと振り返って悠里が見ているだろう壁に視線を彷徨わせると、天井近くにぽつりとそれはいた。
 灰色に黒のまだら模様が滲んだ小さな爬虫類は、夏樹の眼差しから逃げるようにして天井を這って行く。その素早さを呆然と見送っては、寂しいという言葉を噛み締めた。
(そんな風に、思うのか)
 自分はずっとこの家を守るための駒でしか過ぎないだろうと思っていた。悠里が独り立ちをして家を継げるようになれば、自分なぞ家守にとっては用済みでしかないのだと、切り捨てられる時を覚悟していた。
 それだけ家守は悠里にだけ執着していたからだ。他の人間はたとえ直系であったとしても、興味など向けなかった。
 けれどふと、この家を握れと言われたあの夜のことを思い出した。
 母親と姉を失った夏樹の頭を撫でた、あの大きな掌は確かに情が込められていた気がする。
(……そう簡単に出て行けるわけもないか)
 恋しさばかりが詰まったこの家と庭を、そう何度も抜け出すことは出来ない。まして自身を罰するだろうと思っていた守り神が手を引いて連れてきてくれた居場所だ。
 ここを守れるというのならばこの身を捨ててでも構わない。
 真夏の光を浴びる瑞々しい緑を見やっては「年寄りを酷使するなよ」とぼやいた。だがその声が喜色を帯びてしまったことは、悠里に指摘されるまでもなく自覚していた。




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