夏語り 壱



 蝉が突然思い出したかのようにけたたましく鳴き始めた。
 広い庭にはどっしりとした木々が幾つも植わっている。その上アスファルトに覆われた部分のない、剥き出しの土が一面に続いているのだ。蝉にとっては暮らしやすい場所だろう。
 思う存分鳴き声をあげてつがいを求め、宿命を実らせて土へ子孫を産み落とす。そしてそのまま命尽き果て自然の理に従い土に還る。我が子が生まれてくるだろう土の中へ、巡るようにして消えていくのだ。
 それは人間にはとうに許されなくなった命の輪だ。
「……おはよう」
 つまらない思考に浸っていると、悠里がのっそりと起きて来た。まだ半分眠っているかのように、目は開ききっていない。髪の毛が所々ひょんと跳ねているのが、子どもっぽさを増長させていた。
「何時だと思ってるんだ。もう十時過ぎてるぞ。夏休みだからって怠惰に過ごしてるんじゃない」
 運動部に所属している悠里の弟、中学生の永里はとうに朝飯を食べて練習に出掛けている。それに比べて帰宅部の悠里は夏休みになると起床時間が昼近くまでずれ込む。
「別に学校ないんだから、朝早く起きることもないだろ」
 悠里はぼーっとした様子のまま、台所に入ってきては野菜ジュースを飲んでいる。昼飯までの繋ぎとして小さめの菓子パンを手渡すと、素直に齧り付いた。
「おまえも高三だろう。進路どうするんだ?」
 高校三年生の夏休みは、今後の人生を決めるに当たって重要な時期だろう。昨今は圧倒的に大学進学の者が多いだろうが、悠里の口からどの大学に行きたいだのという話は聞いたことがない。
 成績に関しては上位の大学も狙えるだろうと思える優秀さではあるのだが、本人からは進学に至る熱意だのやる気だのは感じない。
 去年までと同じく、まったり家で過ごしているだけだ。
 何十年も前に時間が止まってしまったかのように、古めかしさが充ち満ちているこの家と同じく。悠里もまた世間の時間の流れの速さに左右されない。
「大学に行くつもりだけど」
「どこの?通学出来る範囲にするのが好ましいとは思うが」
「分かってる。この家から出るのは家守が嫌がるだろうから」
 この家には代々守り神が憑いている。それは爬虫類のヤモリの形を成しており、一族の主に直系の中からつがいを選んではそのつがいと添い遂げることで、家の繁栄を約束してくれる。
 つがいの人間は結婚することが出来ない。しようとすれば家守の怒りを買う。
 かつては家守のつがいを人間の嫁にしようとして、大騒動になったそうだ。そんなことをもくろんだ輩の家はあっという間に朽ち果てて潰れてしまったと聞いている。
 守り神でもあり祟り神にもなりかねない家守の、今のつがいが悠里だ。
 この家に留まり、家守と共に過ごすことが悠里の役割であり、いくら進学のためとは言ってもこの家から出てどこかに居住を移すということは家守が認めないはずだ。
「どこにするかは、家守と相談する」
 悠里は守り神の名前を自然と口にしては、家族のように扱う。
 それは悠里がつがいだからだろう。悠里の元には当たり前のように顔を出しては、色々話をするのだという。
(俺の元に姿を現したのは、一度だけだったな)
 悠里の中に入り、悠里の口を借りてあれこれ指示を渡してくることはあるけれど。家守が家守自身の姿を晒して、直接語りかけてきたのはたった一度きり。
 あれも夏の盛りだった。



 夏樹の姉が交通事故で亡くなった。
 息子の悠里が必死に止めるのも聞かず、親友が倒れたという連絡を受けて居ても立ってもいられずに慌てて出掛けたのだ。そこで車にはねられて即死だった。
 悠里があんなにも止めていたのに、娘が出ていくのを止められなかったと言って母は嘆き悲しんだ。それは見ている側が、あまりにも悲痛な姿に母まで倒れるのではないかと思うほどだった。
 そしてその危惧は当たってしまい、母はそう間を置くことなく心筋梗塞で姉の後を追うようにして亡くなった。
 嘆くな、そう語りかける悠里の声は届かない形になった。
 それこそ姉が悠里の声を聞かずに事故に遭ったのと同じことだというのに、母は悲嘆に暮れては耳を塞いでしまった。
 一年の間に二人の親族を失ったが、その実感もなく夏樹は実家で呆然と座り込んでいた。
 大学生になって実家を出てからは、あまり帰ることのなかった実家だが。妻と義理の母を相次いで亡くし、まだ幼い息子二人を抱えた義兄が気がかりで、自宅には戻らず実家に寝泊まりをしていた。
 忌引きも会社から貰っている。母の通夜、葬式を済ましても残り四日はある。ぎりぎりまで取るつもりだけれど、その短い期間で義兄がこれからどうやって暮らしていくのか。果たして決められるだろうか。
(いや、決められるかどうかじゃない。決めなきゃいけないんだ)
 悠里がまだ十歳、永里はまだ七歳だ。母親が恋しい頃だろうに、祖母まで亡くしてあの子たちはどんな気持ちでいることか。
 なまじ人の生死が分かり始めるだろう年頃だけに、憐れだ。
(今の家守は役立たずだ)
 この家の繁栄を約束しているはずの家守が、悠里をつがいに選んだにも関わらずこの体たらく。母親と祖母をそんなにも短期間で奪って行って、何が守り神なものか。疫病神の間違いではないか。
 小さく丸まった義兄の背中、すがりつく息子二人の姿を見た時は涙を堪えられなかった。
 夏樹もまた自分の母親を亡くした立場ではあるけれど。大人として独立し、母親の手から離れて一人で暮らしていた。昨日まで傍らにいた人がいきなり儚くなる衝撃よりかは、少しはましだっただろう。
 ただその分現実味がないというのも、事実だけれど。
(明日からどうすればいい)
 自分には何が出来るだろうか。
 義兄の手伝いをしたいとは思う。義兄は親族には恵まれていないらしく、両親はすでに鬼籍であり頼る先がないのだ。なのでこれまでも義兄は我が家を実の家族のように思ってくれていた。
 その家族が欠けてしまった。自分がその穴を埋めることは難しいが、少しでも力になりたい。
 けれど幼い子どもの面倒を見るといっても限りがある。何より自分もまた会社員として働いている身分であり、時間にゆとりはない。
 それに何より、自分はこの家には受け入れられないだろう。
「俺は、ここには相応しくない」
 そうぽつりと零しては、静まりかえった夜中に縁側から庭を眺めていた。
 照明を一切付けずにいても、満月が出ていればこの家は明るい。街灯がひしめき合っている街中では決して感じられないだろう薄青い月光は、この家の中ではあまりにも明るく感じられるものなのだ。
 中学生の頃は文学少年を気取って月の光で読書なんてこともやった。視力が落ちるだけで、何の意味もないことだったけれど。それでもどこか浮世離れした心地に浸っては楽しかったものだ。
 この家は子どもの夏樹をいつだって優しく包んでくれた。豊かな自然は子供心に毎日新鮮な発見を与えてくれて、灼熱のような夏の暑さも、真冬の容赦のない乾ききった寒さも、この家の中では和らいだ。
 生き生きとした植物が、確かに息をしている地面が、季節の移り変わりを優しげに彩ってくれた。コンクリートやアスファルトに加工された世界にはない、生命の慈悲のようなものがいつだって夏樹を取り囲んでくれていた。
 その分、自分はここでは異端なのだと、いつからか気が付いてしまった。
 柱に寄り掛かり、ずるりと腰を下ろしては庭のどこかにいる鈴虫の音色に耳を澄ませる。
 目を閉じると幼少期に心が戻る。
 まぶたの裏に蘇る母の、若い頃の姿に喉がしなった。泣き出してしまう自分を感じながらも、誰もいないのだから構わないだろうと、涙腺が緩むことを自らに許した時。ふわりと風が頬を撫でた。
「夏樹」
 ごく近くで聞き慣れない声がして、はっと顔を上げると隣に男が座っていた。それまで誰の足音も聞こえず、気配もなかったというのにいきなり真横に現れた男に面食らった。
 自分よりも上背のある男は黒の着物を纏っていた。
 夜に紛れてしまいそうなほど深い黒は、すぐに喪服だと気が付いた。姉と母親の通夜や葬式にも誰一人和装の人はいなかった。
 けれどその黒は、死人に向けるものなのだと何故かすぐに気が付いた。
 髪の色は黒と灰が混ざったようなまだらに似た不思議な色をしている。顔立ちが整っていることはなんとなく感じるのに、その造形がどんなものであるのかおぼろげにしか見えない。容貌を記憶しようとしても、もやがかかったように不鮮明になるのだ。
「家守……」
 その容姿がどんなものか、誰からも教えられたことはない。夏樹が見たことがある家守はいつも爬虫類の格好だけだ。けれど何の疑いもなくそれが家守だと知っていた。
 甥である悠里をつがいにしたので雌の家守だとばかり思っていたが、違うのか。それとも夏樹の前に姿を現す時にだけ、男の姿になったのか。
 この家に女は亡くなった者しかいないから。
(どうして)
 何故今頃出て来た。
 もっと早く、姉が飛び出して行く時に、母親が嘆き悲しんでいる時に、こうして姿を現してくれれば、こんなことにはならなかったのではないか。家を守ると言いながら何も出来てない、喪ってばかりの守り神が今更のこのこと出てきて何を言うつもりだ。
 そう恨み言ならば山ほどあった。
 だが家守の手がそっと頭を撫でた瞬間、涙が落ちた。
 見開いたまま、双眸から次々に雫が落ちていく。
 それは夕立の始まりのように大粒で、幾つも頬を伝って手の甲に当たって弾けていった。
 家守の手は、泣き出した夏樹の頭をそっと撫で続ける。
 幼い夏樹が転けて泣いた時に、母親がそうして慰めてくれたように。迷子になった夏樹と一緒に歩いていた姉が励ましてくれたように。家守の手は大きくてひたすらに優しい。
 守ってくれなかったくせに。喪ってしまったくせに。
 その掌から伝わってくるものは確かに慈しみなのだ。
 いっそ恨みたい。おまえのせいだと泣き喚いて罵りたい。この苦痛の全てを投げつけてしまいたいのに、その手が夏樹の怒りを薄めてしまう。
「すまない」
「っ……」
 小さな謝罪に唇を噛んでは、涙を拭った。
 それは子どもの頃からずっと胸に抱いていた、万能でこの家のことならば何でも見透かし、完璧に守りきることが出来ると思っていた神様の崩壊でもあった。


 


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