車の中でも、雄大はぐずっていた。
 母親から離すのはとにかく大変で、暴れる雄大を肩に担ぎ上げるような形で車に乗せた。
 ずっとそこにいることは出来ないのだ。
 かと言って、六歳児を抱えた俺も途方に暮れていた。
 今まで気儘に一人暮らしをしていたっていうのに、いきなり子どもを育てなきゃいけないって。
 日常で子どもに接する機会なんてそうそうない。従兄弟にも子どもがいるらしいけど、随分離れた所に暮らしているから、会う機会がない。
 そろそろ日が暮れようかって時間だ。車を自宅に向けながら、心の中で溜息をつく。
 兄貴が父親になったのは、丁度俺くらいの年だった。
 どう思っただろう。父親になった時は。
 生まれたばっかの雄大を抱いた時は、感動して泣きそうになったって言ってたけど。
 助手席で雄大が鼻をすすった。
 赤信号で停止している間に、俺はダッシュボートに置いてあったティッシュの箱を雄大の膝の上に乗せた。
 するとしゅしゅと何枚も抜き取ってそれを顔に押し当てていた。
 まるで泣き顔を隠すみたいに。
 雄大は、どこに行くの?とか聞いてこなかった。
 そして俺も「叔父さんの家に行くから」と言っただけで詳しい場所の説明はしていない。
 それが不安なんだろうか。
 でも県をまたいでの移動で、地名とか説明しても分かんない気がするんだよな。
 自分が小さな頃は、どこそこの地名を言われても首を傾げていた気がする。
 一体…どこから切り出せばいいんだろう。
 沈黙の車内は重苦しい空気だ。
 大人同士なら、当たり障りのない話題を持ってきてなんとか雰囲気を和らげようとするのだが。
 こんな子ども相手に何を言えばいいのか。
 数年も会っていたとは言え、三歳児にどこまで記憶があるのか。
「…叔父さんのこと、覚えてるか?」
 無難であろう質問をしてみると、雄大は首を振った。
 まぁ、仕方ないだろうな。と思いつつもさらに気は重くなる。
 全然知らない人とこれから一緒に暮らすなんて、雄大にとっては重圧だろう。
「二年くらい前に、会ってんだぞ」
 だがあの時は兄貴の葬式だった。
 もしかすると雄大は覚えていないのではなく、思い出したくないのだろうか。
 父親が死んだことなんて、忘れてしまったほうが楽なのかも知れない。
 母は泣き崩れ、みんな怖い顔をして並んでいた。
 その異様な光景、そして父の不在。それが不安で恐ろしかったのか、雄大はずっと泣いていた。
 今のように。
 あまりにも泣きじゃくって麻理枝さんにすがるものだから、俺は葬式の最中にそっと雄大を連れだした。
 そこは海の近くだった。
 そこまで散歩に出たのだ。俺も葬式の湿った空気や、兄貴の不在に打ちのめされて逃げたかったのかも知れない。
 小さな雄大の手を引いて歩いた。
 そして疲れた雄大を背中におんぶして帰った。
「海に散歩に行ってさ。途中でおまえが寝るから、おんぶして帰ったんだぞ?」
 大変だったんだからな。と笑って見せると、雄大がちょっとだけ顔を上げた。
「覚えてるか?」
 雄大はふるふると首を振る。
「小さかったもんな」
 仕方ない。そう言うと雄大はひくとしゃくり上げながらも今度はちゃんと顔を上げたようだった。
「うみ」
「ん?」
「…海が…見たい…」
 唐突だった。
 だが進路方向を少しずらせば、海にすぐ着く場所を走っていた。
 俺は頷いて、頭の中で進路を変更した。



 堤防の近くに車を止めて、俺たちは海沿いを歩いた。
 雄大は涙を流すことを止めて、興味津々で海を眺めていた。
 麻理枝さんと暮らしていた家は海から少しばかり遠い。もしかするとこうして海に来るのは久しぶりなのかも知れない。
 夕暮れの光が波間に反射してきらきらと輝いている。
 犬の散歩をしている人が笑い声を上げて走っていった。
「雄大も、昔はよく海に来てたんだぞ」
 たった六歳の子どもに昔の話というのも妙なことだ。
「前に雄大が住んでたおうちは海に近くて、よく遊んでた」
 兄貴が生きていた頃は、海で遊ぶなんて珍しくないことだったはずだ。
 波打ち際ではしゃいでびしょぬれになった雄大のは話を聞いたことがある。
 兄貴はいつだって、雄大の話をするときはとても嬉しそうだった。
「…しらない」
 俺が雄大の知らない話をしたからか、むっとしたようだった。
 始終俯いて、雄大は丸くて形の良い頭を俺に見せていた。
「そっか」
 雄大に話せるような昔話は、もうなかった。
 胸ポケットには煙草が入っていて、落ち着かない空気を紛らわすように手を伸ばしたが、ふと雄大が鼻をすする音で止めた。
 子どもの近くで吸うのは良くない。
「…雄大は今日から…俺と暮らすんだよ」
 これだけは理解してもらわなきゃいけない。
 出来るだけ優しい声音でそう言ったのだが、雄大は小さく「やだ」と呟く。
「でも他に行くところがないんだ。お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも雄大にはもういないんだよ」
 俺に両親がいないように。そして麻理枝さんに頼る相手がいなかったように。
 雄大には他に行き場がない。
「ママといる…」
「雄大」
 遺体の傍らで、このやりとりは繰り返されたのだ。
 理解したくない。そんなこと認めたくない。その気持ちはよく分かる。でも受け入れてはいけない。
「死んでも、一緒にいるの!」
「出来ない」
「いや!」
「死んでもママが雄大の側にいるってことは、ママがすっごく苦しいってことなんだ」
 俺は幽霊とか、そういう類は信じてない。テレビとか見てるとあからさまにうさんくさいし、結構現実主義だと自分では思っている。
 でも、信じてなくてもこれは言っておいたほうがいいと思った。
「死んだ人がこの世にいるってことは、すごく苦しいんだ。苦しくて、辛くて、ずっと泣いてると思う。雄大はそれでいいのか?」
 雄大の足が止まった。
 ぴたりと立ち尽くして、そしてぽたりと涙を落とした。
 ひくっと嗚咽が聞こえる。でも泣き声は上げなかった。
 俺はただじっとそれを見つめていた。これは、雄大が納得しなきゃいけないことだ。そう思いながらも、慰めてやれない自分を人でなしだと思った。
 可哀想に、寂しいね、苦しいね。そういって抱き締めてやりたいと思う。
 自分が成人していたというのにそんな気持ちにを持ったように。
 でも、今そうしてしまえば、雄大は麻理枝さんが死んだことをちゃんと受けとめられない気がした。
 たった六歳の子どもが今認めなきゃいけない現実なのかどうかは、俺にもちゃんとは分からない。もしかするととても酷いことをしているのかも知れない。
 でも、この子は親がもういないんだ。
 いざっていうとき、一人で現実と立ち向かわなきゃいけない。親にすがりついて甘えたい時、八つ当たりしたいとき、寄りかかりたい時、もしかするとこの子は一人かも知れない。
 これから辛いことは、同世代の子どもよりずっと多いだろう。
 それを思うと、今を乗り越えなければずっと歩き出せない子になるような気がした。
 子どもとろくに接したこともない俺が考えている、偏ったことかも知れないけど。
 何が正しいなんて、分からないんだ。
 今思っている、ベストを選ぶしか。
「…やだ…」
 雄大は首を振った。
「ママ…泣くの…やだ」
 小さな涙声が、俺の中に入ってくる。
 思わずしゃがみこんで雄大を抱き締めていた。
「優しい、いい子だ」
 誰かが苦しんでもいい、悲しんでもいい。自分が寂しくなければ。
 これくらいの小さな子どもなら、そう言い出してもおかしくない。そう思っていたけど。
 でも小さな子どもだからこそ、心の底から母親に泣いて欲しくないと願うのかも知れない。真っ直ぐな、偽りも何も知らないまっさらな気持ちだ。
「雄大。ママが一番嬉しいのは、雄大が元気におっきくなって、笑顔で生きてくれることだと思う」
 それがあの人の願いだ。兄貴だってそう願っていただろう。
「いっぱい食べて、いっぱい遊んで、いっぱい笑ってくれることが、きっと一番の幸せだよ」
 腕の中で震えながら泣く雄大が、俺は愛おしくなっていた。
 兄貴もこんな気持ちだったんだろうか。
 すがりついてくる小さな手があたたかい。力を入れれば壊れそうで、それでも必死に生きている。
 泣いて、悲しんで、でもこの子は生きている。
 守ってやりたい。
 小さな、たった一人になってしまったこの子を。
 あの二人の代わりにはなれないけど、何が出来るのか分からないけど。
「な」
 ぽんぽんと背中を叩いていると、雄大がびくりと肩を震わせた。
 それは涙を流していたからだとは思えないほどね大きなものだった。
「どうした?」
「……いたい…の」
 さあっと頭の中に冷えた風が入ってきた。
 背中が痛い。それは痣のせいだ。
「…ママは……雄大をぶったりするの」
「……とき、どき」
 深く深く俯いて、雄大は零した。
 波音に隠れてしまいそうなほど小さな声だ。
「雄大が…わるいことしたから…」
「手で?」
「…木…」
「き?」
「肩たたく…やつ」
 どうやら肩叩き用の木、棒状で先に何かがついているのかもしれない。痣は丸い物や細長いものがあった。
 手じゃなく、そんな物で叩くのか?
 大人が力一杯手で叩けば相当痛いだろう、だが木の棒などもっと痛いのではないか。
 男がやれば、骨だって折れかねない。こんな子どもなら殺せるんじゃ。
 そこまで考えて、俺は少し怖くなった。あの麻理枝さんが。
「腕とか、足も?」
「雄大が…わるいから」
 本当に?
 俺はそう問い掛けようとしたが、飲み込んでしまう。
 子どもは母親から「おまえが悪い」と言われればそのまま鵜呑みにするらしい。
「やめてくれないのか?」
「………雄大が…わるいから」
 止めないのだろう。
 悲鳴のような泣き叫ぶ雄大に、近所の人が児童相談所に通報したというのも本当だろう。
 茜色に染まる空を見上げて、俺は嘆きたくなった。
 理解できない。
 それは俺が子どもを育てたことがないからだろうか。
 小さな子どもを一人で育てていると、これほど容赦ない躾をしたくなるものなのだろうか。
 だが、涙を流している雄大を抱き締めていると、どうしても受け入れられない。
 どんな想像をしても、こんなことをしていいと、思えないのだ。
「…酷すぎるだろ…」
 ぽつりと呟くと、雄大が俺の胸を押した。
 そして首を振る。
「ママは……わるくないの」
 雄大なの。そう繰り返す。
 大好きな母親のことを悪く言われたくないのだろう。
 叩かれても、辛く当たられても、母親は大切な存在だから。
 きっと母親を罵るということは雄大を罵ることに等しいのだろう。
 雄大がそう思っているのなら、俺はもう何も言えなかった。
 傷付けたいわけじゃない。
 麻理枝さんが生きていたのなら、俺は麻理枝さんを問いつめた。責めたかも知れない。でも彼女はもう生きていないのだ。
 責めても、意味がない。
「…分かったよ」
 俺は抱き締めていた腕を離した。
 すると途端に雄大は不安そうな目で俺を見上げた。
 機嫌を損ねたかと思っているのかも知れない。
 それは勘違いだと言うように、小さく笑って見せる。
「帰ろう」
 俺はそう言って手を差し出した。
 うちにおいで。雄大にしてみればそう言われるほうが正しかっただろう。
 だが俺としては、雄大は俺の家に「帰る」のだ。
 これから、そうしていきたいから。
 大人の掌を見つめて、雄大は悩んでいるようだった。信用していいものか、迷っているのだろう。
 しかし、その小さな手は、俺の掌に重ねられた。そっと包むとぎゅっと握り返してくる。
 少しだけ、距離が縮まった気がした。
 歩調を合わせてゆっくり歩く。
 もう日が沈む頃だ。
 この一日は雄大にとっては色々なことがありすぎて、疲れたのだろう。涙も流し続けた。
 歩きながら、こくりこくりと頭を揺れ始めたのだ。
 眠気に襲われているらしい。
 俺は雄大の手を離して、再びしゃがみこんだ。今度は背中を向けて。
「おんぶしてやるよ」
 ほら、と急かすと雄大は目を丸くした。あまりにも驚くので、こちらまで驚いてしまう。
「おんぶ、してもらったことないか?」
 雄大はしばらくしてから、こくりと頷いた。
 麻理枝さんは小さくて、とても華奢な人だった。もしかすると重くて出来なかった…わけないか。
 雄大くらいの子どもならおんぶくらい出来たと想うんだけど。
 溜息を胸の中で押し殺した。
 雄大はおずおずと俺の背中にしがみついてくる。
「手は前にして、俺の首にしがみつくみたいに、そう」
 促すと、雄大は素直に動いた。
「三年くらい前にもな、雄大をこうやっておんぶしたんだぞ」
 あれからどれくらい重くなったのかは分からない。
 でも泣き疲れて雄大が歩けなくなったのは、あの時と変わらなかった。
 砂浜は足が取られて、一歩一歩が沈んでいく。
 車までは少し遠いなぁと思っていると、雄大が肩のあたりでぽつりと言った。
「ママは…」
「ん?」
「やさしかったよ……雄大のことたたくけど、でも…ほんとは…ママは」
 ママはと言いながら、雄大はまたしゃくり上げた。
「おまわりさんは…おばさんは、ママはひどいって…でもママは…」
 周囲の人は、雄大を虐待された子として見ていたのだろう。
 俺が行った時もそんな雰囲気だった。それは間違いじゃないかも知れない。でも雄大にとってそれは、母親に叩かれている時より辛いことなのかも知れない。
「ママは…雄大のことすきって…」
 俺は目を伏せた。
 雄大を抱き締めながら、笑っている麻理枝さんを思い出す。幸せです、そう笑顔で自慢してくれた。
 赤ちゃんだった雄大をあやしているところは、本当にいいお母さんの見本みたいだった。
 雄大は私の幸せそのものなんです。
 俺にそう告げていた人。きっとそれは変わらなかったはずだ。
「知ってるよ」
 一人で辛くても、雄大が疎ましく思える瞬間があっても、それでもあの人はきっと。
「ママは、雄大のことが大好きだったよ」
 心の底から誰より愛していた。俺はそう思っている。
 雄大はふえ…と力の抜けた声を上げたかと思うと、俺の背中でまた泣き始めた。
 それを聞きながら、俺は夕日の下を歩いた。
 


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