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数時間ぶりに帰ってきた我が家。 出ていく時とは違って、今度は雄大がいる。 真っ暗な部屋に電気をつける。雄大は大きな目できょろきょろ辺りを見渡していた。 「好きに見ていいぞ」 部屋に上がると、雄大にそう伝えた。 1LDKの部屋を恐る恐ると歩き回る雄大の背中に、俺は少しだけ笑った。 まるで子犬みたいだ。 リビングのテーブルに車の鍵を放り投げた。カチャと軽い音を立てる。 さて、これからどうしようか。 雄大の荷物はある程度持ってきているが、それでも親子の部屋には様々なものが残されたままだ。 小学校の手配もしなきゃいけない。 それより、これから雄大と同居していくという実感がさっぱりないのだ。 今まで気儘に一人暮らしをしていた男が、いきなり六歳児と暮らすとなっても。 要領なんて分かるはずがない。 上手くいくといいのだが。 俺の仕事部屋を見てきた雄大は、次は風呂場に向かっていった。 涙はちゃんと止まったらしい。 「飯、何か食いたいもんあるか?」 外食してきても構わなかったのだが、自炊してるからある程度のもんは冷蔵庫にあった。 それに、なきじゃくっていた雄大を連れて店に入る気にはなれなかった。 「……おじさんが作るの…?」 雄大はリビングに戻って来ては、不安そうな目で俺を見上げた。 料理が出来ないタイプに見えるんだろうか。 それにしても、今更だが「おじさん」という響きが痛い。 まだ三十路には時間があるのに。 「何が食いたい?結構作れるぞ」 冷蔵庫に材料があれば、の話なのだが。 雄大はしばらく考えたあと、ぽつりと「オムライス」と言った。 「オムライスな。ちょっと待ってろ」 ミックスベジタブルという、細切りになった野菜を冷凍してあるものがまだ残っていたはずだ。 白飯も卵も、ケチャップだってちゃんとある。 「すぐ作ってやるから。テレビでも見てな」 リビングに置いてあるテレビの電源を入れた。雄大は二人用のソファにちょこんと座って所在なさそうにしている。 リモコンを渡すと、ころころとチャンネルを変え始めた。 子ども向けのアニメ番組で手を止めると身動きもせずに見始めた。前のめりになっているのだが、それほど集中しているのだろう。 俺はそれを横目で眺めながら、腕まくりをした。 なかなか男の一人暮らしでオムライスを作る機会はない。 だがやれば出来るものだ。 少々薄焼き卵がよれているのだが、そこは見逃して欲しいところだった。 リビングのテーブルにオムライスを乗せた皿を持っていくと、雄大の目が大きく見開かれた。 もしかして、卵がよれてるのに驚いたのか? 雄大が想像していたものと違うものだったらどうしようかと、内心心配だった。 スプーンとケチャップを手渡す。 もちろんお約束をしたがると思ったのだ。 「何でも描け。でも描きすぎるとケチャップまみれになるぞ?」 オムライスの醍醐味は、細長いキャンパスに描くケチャップの落書きだろう。 雄大は小さな手でケチャップを掴むと、うにゅ〜と中身を絞り出した。 どうやらオムライスにスマイルを描きたかったらしいが。実際は随分歪んでしまって、人の顔とは思えないような代物になってしまった。 しかし本人に不満はないらしい。 スプーンをぎゅっと握ると、オムライスを一口すくった。 「…美味いか?」 人に料理を作ってことはあっても、これほどドキドキしたのは初めてかも知れない。 些細な表情も見逃すまいと、まるでテレビを見ている雄大みたいに俺は前のめりになった。 だが雄大は頬を膨らませて、唇を突き出す。不満そうな顔だ。 「ママのとちがう…」 そりゃそうだろうな。 俺は内心呟いてしまった。 違う人間が作ったんだから、味も違う。でも雄大にしてみればそんなことはまだ分からないのだろう。 「まずいか?まぁ…麻理枝さんは栄養士の資格持ってたって言ってたし。美味いオムライス作ってたんだろーけど」 食べられないほど不味かったんだろうか。味見したけど、それほど酷い味とは思わなかったんだが、味覚は人それぞれだからな。 雄大は不満そうにしながらも、もぐもぐオムライスを食べ続けている。 不味くても食べてしまうほど腹が減っているのか。一応食べられるレベルの味なのか。 どちらなのだろう。 俺は自分の分のオムライスを作ることも忘れて、じっと雄大が食べている様子を眺めた。 口の端からケチャップ御飯が零れる。ティッシュを抜き取って、口元を拭う。それでもまた零してしまう。 雄大は零してしまうことに対して、目を伏せてきょどきょどし始めた。 行儀の良くないことだと、知っているかも知れない。 でも子どもって、こうやって飯食ってるイメージがあるんだけど。俺だけなんだろうか。雄大くらいの年になると、零さずに食えるのかな。 順序よく減っていくオムライス。でもチキンライスの中からあるものが除け者扱いされていた。 緑色した、ちいさな豆。 「雄大」 名前を呼ぶと、雄大は大袈裟にくらいびくりっと肩を震わせた。 何故か泣きそうな顔をして見せる。まださっぱり怒ってないんだが、俺と向かい合わせっていうのが怖いんだろうか。 「グリーンピース嫌いなのか?」 皿の中で目立つその豆。雄大は俺を上目遣いで伺いながら、こくりと頷いた。 「俺も好きじゃないけど…食わなきゃデカくなんないぞ?」 雄大は唇を尖らせる。嫌だ。と顔が言っている。 「まー、子どもの頃は俺もこいつ嫌いだったんだよな。妙な味するし。中はぱさぱさしてるしさ。渋々食ってたけど、本音言えばいらねぇんだよなぁ…」 昔は俺もこいつで苦労した。小学校から給食だったから、グリーンピースともお会いすることが多くて、なかなかに嫌な思いをしたものだ。 吐くほど嫌いじゃない、でもなるべくなら食べたくないものだった。 だから今の雄大の気持ちがよく分かる。 「でも栄養あるから食っとけよ?」 どんな栄養があるのかと聞かれれば、俺は知らない。でもなんかあるんだろう。 最近健康が世間ではブームらしいから、いつかグリーンピースが取り上げられるかも知れない。 「ほれ、全部じゃなくていいから、せめて一個二個くらい」 「いっこ…でいいの?」 俺の提案は救いのようなものだったんだろう、雄大の目が少しだけほっとしたように見えた。 「一個じゃ少なすぎるから、二個」 あんまり変わらないか。と言った後で思う。でも雄大は泣きそうな顔をしているもんだから、無理矢理食わせることでもないかと思った。 雄大は二個のグリンピースを睨み付けた。 気合いを入れているのだろうか。 そして決意したのか、スプーンで一粒すくい上げる。 ぱくり、と小さな口を大きく開けてそれを中に放り込んだ。 ぎゅっと目まで閉じて、辛そうな顔をする。その喉がこくりと動いた。何かを飲み込んだのだ。 「おー、偉いぞ」 必死の思いでグリンピースを飲み込んだらしい雄大に、俺は手を伸ばした。 頭を撫でようとしたのだが、上から降りてくる掌を雄大は目を見開いて凝視した。 そこにあるのは、怯えだった。 叩かれると思ったのだろう。俺はその恐怖を見て一瞬手が止まった。 だけど、俺がこうして頭に触れようとするのは、叩くためじゃない。そっと、怯えさせないように優しく頭を撫でる。 すると雄大はほっと息を吐いた。 人に触れられることが、そんなに怖いのだろうか。 亡くなった人を思い出す。 雄大がこんな風に怖がることなんて、誰も望んでいなかったはずなのに。どうして貴方は…。 どうして、叩いたんですか。 問い掛ける先を失った言葉は、俺の中に広がっていく。 再びオムライスを食べ始めた雄大を眺めていると、ガチャガチャと玄関の鍵が開けられる音がした。 「え…!?」 勝手に鍵を開けて入って来られるのは俺以外では一人だけだ。 なんでこんなタイミングでやって来るんだ、あいつは! 俺はすぐさま立ち上がって玄関に向かった。 そこにはすでに靴を脱いでいる男が一人。 予想通り、寝屋だ。 短い髪、無精ひげと区別の付かないあごひげ、背がひょろりと高い。スーツのネクタイは完全に緩められ、ぶら下がっている状態でだらしがない。 いい加減な人間だなぁというのが見るからに伝わってくる。 「よ」 片手を上げて挨拶されて、俺は「よ、じゃねぇよ」と思わず突っぱねた。 「今日は帰れ」 「なんで。誰か来てんのか」 と寝屋と玄関に置かれている靴を見て、目を留めた。 無理もない。普段あるはずのないものがそこにはあるのだ。 「子ども?おまえ、まさか隠し子か!?」 「んなわけねぇだろ!兄貴の子だよ」 「あー、そういえばいるって言ってたな。どうした、預かってんのか?」 「これから、ずっとうちにいる」 俺は詳しいことは言わなかった。 だけど声のトーンを落として真面目な顔をしただけで、寝屋にはある程度の事情が伝わったらしい。 寝屋の表情が堅くなった。 「…母親が亡くなったのか?」 声をひそめて尋ねてくる。奥に雄大がいるから、俺は直接的な表現を口にしなかった。そこを寝屋も汲んでくれたんだろう。囁くような声量だ。 こういう気の使い方を瞬時にしてくれるから、付き合っていけるのかも。 「…親戚が俺しかいないんだよ」 苦笑して見せると、寝屋は「そうか」と重々しく呟いた。 そのまま帰るかと思いきや、俺の隣をすり抜けていく。 「おい」 「これからここにずっといるなら、挨拶しとかねぇとな。だって俺もここの住人みたいなもんだし」 「いつから!?」 初耳だぞそんなこと。と文句を言っている間に、寝屋はリビングに入って行く。 「寝屋!」 雄大は寝屋を見て固まっていた。無理もない、身長が百八十もある上に、あまり人相が良いとも思えない。ひげだし。 それが雄大の隣にすとんと座ったのだ。雄大はびくりと震えてはみるみるうちに目に涙を溜めた。 泣き声を上げる寸前だ。 今日は散々泣いた後だというのに、また泣かすようなことをしなくても。 「おー、オムライスじゃん、懐かしい」 寝屋は泣きそうな雄大ではなく、オムライスが先のようだった。 「豆嫌いなのか?豆ばっか残ってんぞ」 半分になってしまったオムライス。でもグリンピースだけは目立つほど残っている。 すると雄大は涙目で寝屋を恐る恐ると言った様子で見てる。 「わ!」と寝屋が声を上げれば、その瞬間にでも大声を上げて逃げ出しそうだ。 これは緊迫状態に近い。 「俺は結構豆好きなんだけどな。酒のつまみとかさ。食わねぇから食うけど?」 寝屋がそう聞くと、雄大はこくこくと頷いた。 ぽろりと涙が一つ零れた。 でも寝屋は全然気にしない。 ひょいと一個、指で摘んでは口に入れる。 雄大が黙っていると、次から次へと残っていたグリンピースを食べていった。 「おい…好き嫌いさせないようにって食べさせる途中だったのに」 俺がぶすっと小言を言うと、寝屋は「おまえだって嫌いじゃなかったっけ?」と痛いところをついてくれた。 グリンピースが残り少なくなるごとに、雄大は涙を引っ込めていった。それどころか、寝屋を見る目自体が変わっているような気がする。 オムライスを崩して、中からグリンピースを取り出す作業まで始めてしまう。全部食べてもらおうという考えなのだろう。 「グリンピース以外は食えよ?いっぱい食ってデカくなれ」 大人が子どもに言うことって、大体同じなんだろうか。 俺が雄大に言ったこと、そのままを寝屋も口にする。 グリンピースを全て寝屋が食べてしまうと、雄大は口元に笑みまで浮かべていた。 今日初めて見る、雄大の笑顔だ。 ああ、笑えるのか。 泣き顔ばかり見ていた俺は、その笑みにほっとした。ちゃんとこの子も笑えるんだ。 寝屋がいてくれて良かったかも。とさっきまでとは全然違うことを思ってしまう。 それにしても、寝屋を見上げる雄大の目から恐怖は綺麗に消えている。代わりに好意的なものが浮かんでいるような気がするけど。 まさかグリンピース食べてくれたからって、尊敬してるんじゃないだろうな。 そんな簡単なことで寝屋を信用しちゃいけないぞ。 後で雄大にちゃんと教えておかないと。 「なー、俺にもオムライス」 「おまえのも作んのかよ!」 どうやら俺はもう一個オムライスを作らなきゃいけないらしい。 今度はグリンピース多めで。 なんで寝屋のために、と思わないでもなかったけど。 雄大が笑ってくれたから、まあいいかってもう一度、腕まくりをした。 |