繋いだ手



 病院のベッドに横たわる遺体。
 顔には白い布がかけられている。
 その横で膝を付いている少年。
 泣き疲れたらしい。泣き声は聞こえなかった。だが息をするたびに大きく肩が動いた。
 三年ぶりに見た子どもは大きくなっていた。
 数えてみると、今年から小学校だ。
 桜が満開になる頃、母親と共に笑顔で校門をくぐるはずだったというのに。
 それは叶わなくなった。
 俺は声もかけられず、そこに立ち尽くした。
 この子は、たった六歳で両親を失ったのだ。
 俺が六歳の頃はどうしていただろう。兄貴と騒いで母親に叱られていたんじゃないのか。
 それだっていうのに、こいつは。
 小さな、とても小さな背中だ。
 ここに連れてこられる前、警察から話を聞いていた。
 この子の、雄大の母親である麻理枝さんが交通事故で亡くなったのだ。
 青信号を渡ったらしい。そこに車が入ってきた。ほぼ即死だったらしい。
 目撃者はおらず、運転手の言うことだから、本当に青信号だったのかは分からない。
 ただ近所の人が言うには、最近麻理枝さんはよくぼーっとしていたらしい。
 いつも疲れていて、ふらついている時もあったというので青信号に気が付かず渡ってしまったのではないかと、警察の人は言っていた。
 そしてもう一つ、雄大を厳しく叱る声が聞こえていたと。
 叫ぶようにして泣く雄大の声や、麻理枝さんの怒鳴り声が聞こえていたらしい。児童相談所に通報された過去もあるそうだ。
 それを聞いた時、俺は耳を疑った。
 あの麻理枝さんがそんなことするのか?と。
 俺の中に強く残っている麻理枝さんは、兄貴と結婚した時の幸せそうな笑顔、そして兄貴が三年前に亡くなった時の泣き顔だ。
 そして、雄大を抱き締めて「パパがいなくなっても、ママがずっと側にいてあげるからね」と言っている顔だ。
 涙を流しながら、それでも必死に自分を奮い立たせている姿に、母親は強いんだと俺は思っていた。
 守るべきものがある人は、とても強いと。
 それだというのにあの麻理枝さんが?
 信じられないという顔をしていたんだろう、警察は気の毒そうな表情を見せた。
『手足に痣があるらしいですよ』
 そこまで言われれば、もしかすると、と思わずにはいられなかった。
 あの優しい母親が、どうして。
『母親一人で子育てっていうのは、辛いんでしょうかね』
 ぽつりと警察の人が零した台詞が、俺に突き刺さった。
 麻理枝さんの父親は去年亡くなり、母親は麻理枝さんが子どもの頃に失踪してしまったらしい。
 そして俺の両親は二人が結婚した次の年に二人で旅行に行き、そのまま交通事故で亡くなった。
 誰にも頼る人がいなかったのだ。
 親戚と言えば俺だけ。だから雄大の保護者として呼ばれたんだけど。
 まだ二十七歳の男に頼ることは出来なかったんだろう。全然役に立つと思えない。
 辛くて、苦しくて、それで。
 雄大に当たってしまったんだろうか。
 でも…あの麻理枝さんが…?
 やっぱり信じられない。
 子どもが風邪ひいたら、すげー心配してすぐに病院に駆け込むんだぜ?そう兄貴は生前に言っていた。どこか微笑ましいというように。
 今だって、こんな小さな子を叩くなんて、俺には信じられない。
 叩いたら壊れてしまいそうなのに。
「雄大君、おじさんが来てくれたよ」
 中年の女性が、雄大にそう優しく声を掛ける。
 するとびくりと肩を震わせて、雄大が振り返った。
 兄貴より、麻理枝さんに似ている。
 大きな目にいっぱい涙が溜まっていた。鼻も頬も赤く、口は歪んでいる。
 嗚咽も出ないほど泣いていたのか。
「覚えてるか?前に会ったのは…」
 雄大は怯えているようだった。だが俺はゆっくり近寄っていく。
 記憶を探ると、前に会ったのは三年前になった。
「兄貴の…雄大のパパのお葬式だ」
 あれ以来会っていないのだ。
 次は母親が死んで、再会した。
 もっと違う機会で会いたかったものだ。
 雄大の前でしゃがみ込む。上から見下ろされれば怖いだろうと思ったのだが、膝をついて泣いていた雄大では、しゃがみ込んでもまだ目線が合わない。
「覚えてないか?おまえまだ三歳くらいだったもんな」
 雄大は俺を見ると、ぎゅっと自分の服の裾を掴んだ。
 怖くて逃げたい。そう言っているようだった。
 兄貴が死んだ時、雄大は死というものを理解していなかった。「パパどうしたの?」と言っては麻理枝さんの目に涙を浮かべさせていた。
 泣いているということは、今はもう死を理解しているということだろう。
「今日から、叔父さんトコにおいで」
 雄大には他に行く場所はない。
 だからこそ俺に連絡が来たのだ。
 残されたのが、数回しか会ったことのない俺というのは不安だろう。
 雄大の顔がくしゃと歪んだ。
 大きく何度も首を振る。
「や…ママと…ママと」
 ママといる。そう言いたいのだろう。
 ああ…と俺は息を吐いた。
 そうだ。麻理枝さんは雄大と一緒にいるよ、と言っていた。雄大もちゃんとそれを守ろうとしているのだろう。
「雄大君。もうママとは一緒にいられないのよ」
 女の人は雄大の肩をそっと撫でて諭すように言う。だが雄大は首を振るだけだ。
 信じられない。そう主張しているのだ。
「…雄大。ママは死んだんだ」
 あえて直接的な言い方をした。すると雄大はひくりと喉を震わせながら俺を見た。
 子どもに遠回しな言い方をする大人がいる。でも俺はそれをいいことだと思ってない。
 遠いところに行った。それじゃ分からない。もう会えないだけじゃ分からない。
 子どもだって自分の頭で考えて、真実を見つめる。それなら大人だって誤魔化すことなく接するべきなんじゃないのか。
「だから戻って来ない。死んだ人とは一緒にいられないんだ」
「やだぁ!!」
 雄大は噛み付くように悲鳴を上げた。だがぼろぼろと零れてくる涙が、もう母を失ったことを感じている証明だった。
 認めたくないのだ。
 やだ、やだと泣く雄大に、俺は自分の姿を重ねた。
「叔父さんもな、パパとママが死んだんだ。兄貴も、雄大のパパも死んだ。その時いっぱい泣いた。悲しくて、悲しくてずっと泣いてた。どうして死んだんだって、怒った。帰ってきてってお願いした」
 みんな、突然のように逝ってしまった。
 両親を失った時は呆然とした。本当に突然で、信じられなかった。冗談だと思っていた。
 どうしてこんなことに。なんでうちの親が。
 そう嘆いた。信じられなくて、辛くて、寂しくて、泣いた。
 親にべったりするような年じゃない。父親とも母親とも衝突した。一人暮らしをして距離を置いて、一人前の顔して生活してた。
 もういい大人だと思っていた。
 それなのに、親を失った時はまるで小さな子どもだった。
 どうして死んだんだってだだをこねる子ども。
 兄貴はそんな俺を慰める側に回ってくれた。
 同じように辛いのに、苦しいのに、それでも俺のように泣かなかった。
 でも隠れたところでは、たぶん泣いていたと思う。
 結局、俺達は大切に育てられていたから。愛情を受けていたから。
 反発しても、強がっても、どこかで親の存在を支えにしていたんだろう。
 しばらく落ち込み、なかなか浮き上がれなかった。
 それが立ち直りかけた頃、今度は兄貴が逝ってしまった。
 兄貴はまだ逝ったら駄目だろ!?そう言った。
「お願いしても、帰って来なかった」
 兄貴は戻って来なかった。当たり前だ。
 死んだ人は戻って来ない。分かり切っていることだ。
 でも、いざ自分の身に起こると、それがなかなか受け入れられなくなる。信じたくないのだ。
 理解してしまえば、辛いだけだから。
 だが逃げても、無駄なのだ。必ずを認めなければいれない時が来る。
 それが、生きていくということなのかも知れない。
「死んだ人は戻って来ないんだ。それはどうしようもないことなんだ」
 聞きたくない。雄大は目がそう言っていた。どうしてそんな酷いことを言うの。どうして。
 子どもの眼差しに胸の奥が痛んだ。だが柔らかな言葉で曖昧に濁すことは出来ない。
「雄大」
「いやだ!やだ!…ママといる…ママと…」
 虐待なんて嘘だろう?
 こんなにも、雄大は麻理枝さんのことを恋しがっている。
 俺は警察の人が言っていたことを疑い始めた。目の前にいるのは、どう見ても愛されてた子どもだ。
「もう一緒にはいられないんだ。ママはもう逝かなきゃいけない」
 雄大はひくひくとしゃくり上げる。
「なんで…?」
「死んだから、だよ。死んだらもうここにはいられないんだ」
「なんで…ママ…死んだの」
 俺は、答えられなかった。
 麻理枝さんだって死にたくなかっただろう。
 こんな小さな子を一人残して、死にたくなかったはずだ。
「……どうして、だろうな」
 なんであの人が死ななきゃいけないんだ。
 それは俺が何度も思ったことだった。
 今まで、数え切れないくらい、思ったことだった。
「俺にも分からない。でも……死んだ人は戻って来ないんだ」
 そう繰り返すしかなかった。
 すると雄大は声を上げて泣き始めた。
 ありったけの力で、叫ぶように泣く。
 身体が裂けるんじゃないかって思うような声量に、俺はそっと手を伸ばした。
 触れた髪はさらさらしていて、撫でると柔らかだった。
 泣けばいい。そうして大声で泣いて、悲しんで、出来れば押し流してしまえばいい。
「戻って、来ないんだ」
 まるで自分に言い聞かせているようだった。
 家族を失ったのは昨日今日じゃないのに、俺の目の奥まで熱くなってくる。
 雄大を抱き締めると、小さな手がぎゅっとしがみついてきた。
 あたたかい子ども。
 置いて逝きたくなかっただろう。
 兄貴も、麻理枝さんも。
 そっと背中を撫でる。
 包み込むようにして抱き締めていると、ふとうなじに目がいった。
 何を考えていたのかは分からない。だが服の襟首を少し摘んで、背中を覗き込んだ。
 するとそこには青い痣があった。
 二、三つほど。
 どくり、と心臓が鳴った。
 子どもが…遊んでいて背中に痣を作るだろうか。
 まさか…そう思いながら、しがみついてくる腕、右腕の裾をそっとめくった。
 そこにも、やはり痣がある。
 どうして。
 動揺しながら、俺は雄大から目を背けた。
 まさか本当に…麻理枝さんは。
 顔を上げると女性が不安そうな顔で俺たちを見ていた。
 痣があるでしょう?というような目だ。
 思わずベッドに寝かされている遺体を見つめてしまう。本当に、雄大を叩いたりしたんですか?そう聞きたかった。
 


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