五章 1 うなじにそっと冷たい風が触れた感覚で目が覚めた。 肌が一瞬だけ震えると、眠気に包まれていた意識がふと寒いのだと訴えかけてくる。 シーツの隙間に埋もれているのだから、寒さには無縁であって欲しいのだが。薄手の寝間着であったために、寒さが入り込んで来るのだろう。 (まだ、そんな季節じゃないと思っていた……) 夜中になり、ぐっと冷え込んだ空気に眠りを妨げられる。そんな体験はもっと後の時期、少なくとも一ヶ月以上は先のことだと思っていた。 なのにこの国では、こんな暦の早い時期から寒さが忍び込んでくるのか。 (北にいるからだ) エルベリルはケイガの隣に位置している。けれどクオンが暮らしていた土地から、現在の場所はかなり北になるだろう。 (昼間に雨が降っていたから、気温は下がるとは思ったけれど。これからはずっとこんな感じなのだろうか) 真昼の静かな雨によって日中でも気温は上がることがなく、日が隠れれば寒くなるとは思っていたものだが。予想を超えていた。 ケイガにいた時のような感覚で衣服を選んではいけないのかも知れない。 (冬になるのか……) ケイガの冬は長くない。せいぜい三、四ヶ月ほどなのだが、エルベリルはそう簡単には春が訪れてくれないだろう。 (今頃、ケイガは豊かな稲穂が海のように広がっている……) 一面金色の稲穂は神々しく、大地の恵みと呼ぶに相応しい光景だ。毎年秋になるとその恵みに感謝して祭事を行い、どんちゃん騒ぎをして楽しんだものだ。 豊穣は人々の生きる喜びに繋がった。 そう長くはないとは言え、けっして楽が出来ない冬の暮らし。その暮らしをどう乗り越えるのかが秋にかかっていたのだ。 今年はちゃんと豊作であっただろうか。そんなことをふと思い、その愚かさに唇を噛んだ。 戦をし、負けた国が豊作も何もあったものではない。 それどころか人を失い、土地を傷付けられ、建て直すのに必死になっていることだろう。ちゃんと作物を育てられているかどうかも怪しい。 そんな国にしてしまったのはクオンだ。 だが悔やんだところで、痛んだところで、クオンに出来ることなど何もありはしない。 止まりそうな呼吸に耳を澄まし、震える肌を押さえて寝返りを打った。 すると眼前には作り物のように整った男の顔があった。 まぶたを閉じ、無防備に寝息を立てている。こんな近くにかつての敵が、自分を殺すことの出来る唯一の相手がいるというのに。男はそんなこと気にもせずに寝入っているのだ。 最初は信じられなかった。怖ろしさすら覚えたものだ。 国を支え、生かしている、国そのものだと言える国核が、敵と同衾して平然と眠るなど自殺行為にしか思えなかった。 ただの民ではない、ただの人間ではない。同じだけの力を持ち、殺し合えるのだ。現に自分たちは殺し合っていたではないか。どうしてそうやって眠れるのか。 理解出来ないまま、その行為は繰り返され頭よりも先に身体が馴染んでしまった。 この男が、ラルが横にいることよりも寒さに目覚めてしまうほどに。 枕元近くのテーブルに置かれている石が、淡く発光しては辺りを照らしている。 月明かりより僅かに明るいだろうかという石は、いつもこの部屋を照らしていた。 気になる場合は蓋をすれば良いのだが、今日はその作業を忘れてしまっていた。 おかげでラルの顔立ちを間近で見つめることが出来る。 起きていると、鮮やかに意志を強く伝えてくる眼差しがクオンにとっては棘のようで。直視しているのが辛い。 けれどこうして閉ざされていると、ラルは意外と柔和な顔立ちをしているのだと分かる。 ラルの父親は雄々しい、がっちりとした容貌の人だった。きっと母親に似たのだろう。 長い睫まで透き通るような金色で、自分とは似ても似つかないその色に不思議な気持ちになる。触れると溶けてしまいそうだ。 (……他には何もない) この部屋には自分とラルしかいない。世話係であるネフィもどこかにいるはずだが、ラルがこの部屋に来る夜になるとネフィの姿が見えなくなる。 気を遣ってどこかに潜んでいるのか、それとも外に出て行っているのか。 他の人間の気配を感じることは出来ず、閉ざされた空間に二人だけの鼓動が響く。 怖いと思う。 二人きりしかいないこの部屋が、少し前では異様だと思っていたのに。今では何の違和感もなく、受け入れられている。 許されないことだと叫んでいたはずなのに、自分は死ぬべきだと悩んでいたはずなのに。いつの間にかその抗いが薄まっていった。 この人の傍らにいることに、苦痛以外のものが混ざりはじめた。 他にも誰もいないから。クオンを縛り付けるものは遠くにあり、どんな目からも隔離されているように思えるから。痛みを抱かなければならないはずの胸が、油断をしている。 あまりにも秘めやかな夜だから。最初からこうだった。二人で生きてきて、他にも誰も必要としていない、必要とされていなかった。 そう何かが囁くのではないか。 浮かんできた淡い考えはクオン自身の心臓をえぐるように苦しさに変える。 裏切り者。 そうはっきりと誰がの声がした。 国のために生き、国のために死ぬと誓ったくせに。ラルの手に落ちた途端に考えを翻して自分だけ楽になろうとしている。こうしている間もおまえの民たちは苦しみ、嘆き、おまえを待っているというのに。おまえは帰ろうとも思わない。 苛むその声に耳を過向け目を閉じた。己が背負うべき痛みであるからだ。 肌寒さに自分の肩を抱く。 どうかこのまま凍えて、ぬくもりなど思い出さないままでいますように。それにしがみつこうとなどしませんように。 だがそう願うクオンの懸命さを嘲笑うように眠りの浅くなった男はクオンに擦り寄っては、その身体から熱を分け与えてくる。 眠っているくせに、そう意図としているわけでもないだろうに。なぜその暖かさをクオンに感じさせるのか。 逃げ出したい。だがすがりつきたい。 その相反する気持ちに引き裂かれるように深く息をついた。 世界から閉ざしてしまえば良いのに。 朝の食事は向かい合って取っている。ラルは忙しい身分だろうに、朝の食事だけは時間通りに必ずクオンの元で食べていた。 ここのところはどんな時間になってもクオンのベッドで共に寝るようになったので、自然と朝もこの部屋で迎えるせいだ。 そして朝が苦手なラルは毎日ふて腐れたような顔で食事を行う。 寝穢さは次第に拍車がかかってきたようで、クオンの方が早く起き、なかなかベッドから離れたがらないラルをなんとか立たせて仕度をさせるところまで、一連の流れになっていた。 この国に捕らわれた時点で召し使いのようなことをさせられても何の文句もないのだが、国核がこれほどだらしない朝で良いのだろうかと、疑問には思う。 ケイガならば有り得ないことだ。一日の始まりは大切なものであり、きっちりと身支度を調えて落ち着いた精神で仕事を開始するべきだと教えてられてきた。 クオンもそれを守ってきたものだが。ラルにそんな意識は欠片もないだろう。 この国がそれで良いとしているのならばクオンが口出しをすることではない。 だが向かい合っている人の姿に、気になるところはある。 「寒くないのですか?」 夜中冷えていただけあって、朝方はベッドから出るのを数秒躊躇うほどの寒さだった。 寝室から出るとネフィがいつも通りすでに起きており、暖炉の熱で他の部屋は随分暖まっていたのだが、それでもクオンは寒さを感じて衣服を一枚多く着ていた。 それなのにラルは、いくら厚手とはいえシャツ一枚で食事しているのだ。 見ているだけで寒々しい。 しかし本人は全く気にしていないように、黙って手と口を動かしてた。横に控えながら一日のスケジュールを話しているジェダも、ラルの服装には何も言ってこない。 ジェダは冬らしい服装をしているのだが、思い返せばこちらは夏でもシャツをきっちりと身に纏って着崩すことがない。露出が極端に少ない人だ。 温度によって服装を変えることがあまりないのかも知れない。 「寒いの?」 ラルは食事の手を止めてクオンを見た。そこには不思議そうな響きがあり、その様子にまず驚かされる。 まるで自分は寒さなど感じていませんというような言い方だからだ。 「……そう、ですね」 どちらかというとこの状態でも若干寒い。 なのに自分より薄着のラルが何も気にしていないような素振りなのだ。 「クオンは寒がりだね。ここより南にいたからかな」 ラルはクオンの新しい一面を見付けて、嬉しそうに微笑んだ。大したことでもないだろうに、この人はクオンに関する新しい情報を一つでも得ると表情を柔らかいものに変える。 あからさまなその態度にいつも目を伏せた。真っ向から見詰めると、自分がどんな感情を抱くのか分からなくて、怖いのだ。 「そうかも知れません」 寒さに馴染みがないのは、生まれ育った土地が違うのだから自然なことだ。 だがその土地に戻ることは許されず、生きている以上ここに適応するしかない。 憂いが込み上げてくるクオンの肩に、ネフィが手触りの良い上着をかけてくれた。 「ありがとう」 ネフィの気遣いを素直に受け入れるのだが、そのネフィも見たところラルとそう大差のない服装をしている。もしかするとエルベリルではこれくらいの寒さで防寒などしてはいけないレベルなのだろうか。 「これからぐっと寒くなる。雪も降り積もるよ」 故郷は真冬のごく限れた時期、片手で足りる程度の日数しか雪が降らない。だかエルベリルは降雪が当たり前の土地だと聞いたことがあった。 「どれくらい、降るのですか?」 「そうだね。君の腰くらいまでは積もるよ」 「そんなに!」 立った状態の自分の腰の高さを思い浮かべてぞっとした。 息すら凍り付くような寒さの日に、それでも積もってせいぜい足の甲くらいまでしか雪が積もらない生活しか、クオンは知らない。 (どれだけ寒くなるのか……) 果たしてちゃんと呼吸は出来るのだろうか。 「だからこの時期だというのにこんなに寒いのですね。けれどそんなに積もってしまえば外には出られないのでは?」 雪が積もっているからと言ってエルベリルが凍結している、など聞いたことはない。 ただエルベリルよりも更に北に位置し、また山を挟んでいるリシアは雪と氷に閉ざされて冬の間は静かに息を潜めて眠っているらしい。 こちらは実際に身動きがろくに取れないほどに、雪に覆われるのだろう。 「雪が積もってもその程度なら道を作ることは容易だよ。ここの庭も雪が降るようになったら手入れをした方がいいな。埋もれてしまう」 部屋から繋がっている庭は、馬が走り回れる程に広い。四六時中ここにいるのはクオンとネフィの二人だけであり、庭の手入れまでは手が回らない。 もっとも世話が必要になるだろうか弱い草花は初めから植わっていない。あるのは常緑樹やまめな剪定のいらない低木などだ。それでもしっかりと季節を教えてくれるのだから植物というのはどれほど季節に敏感なのか。 「気を付けます。ですが特別外に出たいというわけではありませんので」 クオンも時折庭に出ては植物を見て、手入れのまねごとをしている。ここでは時間が有り余っているのだ。 だからついそう言ったのだが、この庭でも冬場に備えて特別な処置が必要とされるのならば無理にそんな手間をかけることもない。 真冬であっても庭に出なければ気が済まない、などという気持ちはないのだ。わざわざラルに何かして貰うようなことではない。 「ああ、寒いから外には出ないか」 クオンを寒がりだと言った人は、クオンの気遣いにそんなことを言っては笑った。 それではまるで重度の寒がりではないか、と思ったのだがこの国の寒さがどの程度かまだ分からないので発言は慎んだ。 今後この件でからかわれるのも得策ではない。 「でも雪が積もったらドームが作れる。あれは楽しいけどね」 「ドームですか?」 「雪山を作って、中をくりぬいて入るんだ」 腰まで雪が降るのならば小山くらいは作れるだろう。だが冷たい固まりを集めて、わざわざ中をくり抜くという作業をする意味が分からなかった。 「どうしてそんな冷たいことを?」 子どもの頃の遊びなのだろうか。 この人にもそんな無邪気な時期があったのだろうかと、ぼんやりと考える。だが現在からは上手く描くことが出来ない。 「中は暖かいんだよ」 「……嘘ですよね?」 雪の塊の中にいるというのに暖かいわけがないだろう。 わざとらしさもなく、どうしてそんな分かり易い嘘をつくのかと思った。だがそう指摘されたことの方が愉快だというようにラルが笑う。 ちらりとネフィを見るとこちらも穏やかに微笑んでいた。まさか事実だとでも言うのか。 もう一人ここにはジェダがいるのだが、この手の話題で表情を変えることがないので参考にはならない。 (雪の塊じゃないか。それに熱が籠もるのか?) 信じられない気持ちが表に表れているのだろう、ラルが瞳を細めてクオンを眺めている。 「嘘じゃないよ。今年は久しぶりに作ろうか」 その久しぶりか何年ぶりになるのか。日々忙しく、また心休まる時もほとんどないだろう人が雪遊びが出来たのはいつのことか。 知ることの出来ない思い出を探るようにラルを見てしまう。 きっと、とても幼い頃にしか叶わなかったのではないだろうか。 「マリなら、楽しそうに遊びそうですね」 いつくらいの年か、そう思うとマリの顔が思い浮かんだ。 ラルはあんな風に無垢にはしゃげるような環境では、決してなかっただろう。 「マリか…呼ぶのにあんまり気は進まないんだが」 人質として使われ、肌で感じられる距離で人が殺される場面に立ち会っている子。すぐ目を閉じていたところで、自分がとんでもない状況に置かれたことは子どもでも実感したことだろう。 あれから数ヶ月が過ぎているが、彼女がこの部屋に訪れることはなかった。 だが聞いたところによるとマリがクオンを恐れて遠ざかったというわけではないらしい。むしろクオンに会いたいと兄にだだをこねたそうだ。 ラルの妹とはいえ、逞しさに安堵したものだ。 だがどれほど逞しい子であっても無力な子ども。そしてあの恐怖がどこに眠っているかも分からない。 なのでクオンが暮らしているこの部屋ではなく、そのずっと手前にあるラルの部屋でたまにマリとは会っていた。当然そこにはラルやジェダも付いている。 少人数で接触することは固く禁じられ、またラルがいない場合にクオンに会うことは絶対に許されないことなのだとマリも学んだらしい。 「……積もったら考えるさ」 今すぐ決断することを諦め、ラルは食事を再開させた。急を要することではないと判断したからだ。 (積もったら) この部屋は更に外から閉ざされることになるのだろう。 next |