四章   5




 背筋を伸ばした侍女は微かに笑う。
 なのにその目は少しも細められないから、変な感じだった。
「会わせて差し上げます」
 そんなことが侍女の口から出てくるとは思わなかった。
 何故そんなことを言うのかという違和感はあった。だがクオンに会えるならそれはすごく嬉しいことだ。
「本当!?」
「はい」
 返事をしたのは侍女ではなかった。
 屈強な男が二人、ふっと現れる。
 いつの間に近くに来ていたのだろう。全然分からなかった。
 見たことのないその姿にびくりと肩が跳ねる。
(怖そう……)
 きっと警備兵なのだろう。しかしアクマリィズが見たことがないということは、別の誰かに付いている者だ。
 顔立ちは鋭く、どことなく荒々しい鳥を思わせる。
 侍女は男を見て軽く頷いた。顔見知りなのだろう。
「しばらくすればクオン様のお世話をしているネフィ様が出で来られます」
 他国に行く際、ラルはいつもジェダとネフィを連れて行く。なのに今回はネフィがここにいるらしい。
 クオンの世話があるから、なのだろう。
(ネフィはクオン様が来てから全然見なくなったけど。ずっとクオン様のお世話なのかしら)
 クオンが尊い人だとは思うが、その世話をネフィが全て担うというのは奇妙な気がした。
 しかし国核であるラルは人に自分の世話すらさせないので、変わっているのが当たり前になっているのかも知れない。
「ネフィ様にお願いすればきっとクオン様に会わせて下さいます」
 侍女はにっこりと笑った。
 その顔はどことなく変だと思った。どこがと考えても分からないけれど。
「きっと」
(本当かしら)
 アクマリィズは自分がラルに甘やかされている自覚はある。ラルは冷たく我が儘な国核だと言われているけれど、アクマリィズには優しい。
 アクマリィズの母にもそうだ。ヒリュイはラルが怖いと言ってあまり話をすることはないようだったけれど、ラルはヒリュイにだって怒ることはない。
 けれどそんなアクマリィズにだって、してはいけないことは駄目だと言うのだ。
 何もかも許されるわけじゃないことは知っている。
 そしてラルが本気で怒ったのなら、アクマリィズなど息も出来なくなる。それくらいラルは恐ろしいのだと、知っている。
(…どうしよう。ラル兄様に怒られたきっとマリはここにいられなくなるわ)
 国核の激怒を買ったものがどうなるのか。アクマリィズはうっすらと聞いたことがある。王宮にはいられなくなるのだ。
 ここから出て行けは言われたら、アクマリィズはどうすればいいだろうか。もしかすると母とヒリュイも共に追い出されるかも知れない。
 とんでもないことになっているのではないか。
 そう感じた心臓が悲鳴を上げるみたいに、どくりどくりと大きく脈を打ち始める。
 やっぱり止めるわ、と言おうかと迷っているとドアが開かれた。
 ネフィは侍女と男二人、そしてアクマリィズを見ていつもの笑みを消した。
(怒ってるんだわ)
 アクマリィズが知っているネフィは大抵微笑んでいる。兄弟らしいジェダとは正反対で優しそうな人なのだ。
 それなのに今は微笑むことが出来ないようだった。
「ネフィ。クオン様にお会いしたいの」
 きっと駄目なんだろうなと思った。ネフィの顔がそう言っていた。でも望みをかけてそうお願いをする。
 ネフィはアクマリィズと目を合わせるとやんわりと笑んだ。それはいつもと同じ表情で、アクマリィズはほっとした。
 きっとそんなに怒ってはいないのだろう。
「それは出来ませんよ」
 やっぱりと思いながらもネフィは怒っていないという安心を取り戻したせいで、欲張りが口を出してしまう。
「でもクオン様は退屈されていると思うの!」
 本を読むだけの日々なんてきっとすぐに飽きてしまう。
 アクマリィズも文字ばかり見ていると眠くなってしまうのに、授業だと言われて無理に読まされているのでうんざりする気持ちが分かった。
「その後ろにいる痴れ者に何を言われたのですか?」
 ネフィは微笑んだまま、そう言った。
 優しい口調なのにぞくりとするほどの冷たさがあった。背後から凍り付きそうな空気が流れてきそうだ。
(ネフィじゃないみたい……)
 とっさに声も出なくなってしまう。
「アクマリィズ様を脅して、クオン様をどうするおつもりで?」
 ネフィはアクマリィズから視線を外すと馬鹿にするようにして、後ろの三人へと声をかけた。
 こんな風に誰かを挑発する様を、見たことがない。
「私は脅されてなんて……」
 叱られるだろうかと、アクマリィズは言い訳のように告げた。
「ではお引き取り下さい」
 ぴしゃりと叩き落とすように言われてアクマリィズは首をすくめた。
 これは完全に叱られているのだろう。
「どうしても駄目なの……?」
(クオン様にお会いしたいのに)
 ここまで拒まれると、平常であったのならとうに帰っている。けれどもう一度クオンに会いたいという気持ちがそうさせていた。
 エルベリルにいる人とは違う、特別な雰囲気を持った不思議な人なのだ。
「駄目と言ったところで引き下がるつもりはないのでしょうね、後ろの屑どもは」
「ネフィ……?」
 とうとう穏和な喋り方をするネフィが言葉を乱して背後を睨んだ。
 明確な怒りにアクマリィズは心臓が縮む思いになる。
 しかしネフィに気を取られていると、首もとに何かが当てられた。ひんやりとしたそれは目に見えないけれど、とてつもなく危うい物であるような気がして、身体が硬直した。
「お芝居ですよアクマリィズ様」
 侍女がそっと耳打ちをしてくる。
(…これがお芝居?)
 お芝居で何かを首に当ててくるだろうか。
 仮にもアクマリィズは先代国核の娘、現国核の妹だ。幼いながらに身分は高いことを自覚している。なのでこの扱いが不遜であることも気が付いていた。
「どうしても、お会いになりたいでしょう?」
 甘く囁く侍女の声が歪んで聞こえる。
 頷かなければならない。
 心の中でそう声がする。そうしなければ、どうなるか分からないのだと察してしまった 。
「痴れ者が」
 押し殺したような低い声でネフィが言った。
 ぎらついたその瞳はラルが見せるものだ。
 自分の敵であると判断した相手にその視線を向ける。そしてラルはその方向にいたものか必ず潰そうとする。
 それだけ力のある瞳なのだ。
(やっぱりネフィも血杯なのだわ)
 あのラルの血を受けて契約した者なのだ。だからそんな恐ろしいほど強い眼差しをぶつけられる。
「国核血族の命を脅迫に使うか」
 やはりこれは脅迫なのだ。そうアクマリィズは理解してしまう。同時に自分がどれだけ馬鹿なことをしているのかも実感させられる。
(侍女は裏切ったのだわ)
 王宮にいる以上、誰かに裏切られることはいつでもあり得ることなのだと母は言っていた。信頼することは死に繋がることもあるのだと。
 だから人に対して慎重になれと言われた。
 十のアクマリィズが理解するのに難しいことだ。けれど母の言いたいことはなんとなく頭に入っていた。それを、今突きつけられたのだ。
 絶望感はなかった。アクマリィズの周囲ではそのようなことが平然と行われていたからだ。
 ただ自分もまたこのようなことに巻き込まれて裏切られる立場にいるのだと、子どものままでいられないのだと感じた。
「お会いできますわね?」
 侍女という身分低い者であるにもかかわらず、侍女はネフィに嘲笑するような声音で尋ねた。
「おまえたちがお目通りを願い出せるような御方ではない」
 クオンに会いたいと、多くの人がラルに願い出ているのを知っている。
 けれど誰も会えなかった。
 だから初めてクオンと会った後に、ラルが再会を約束してくれて嬉しかったのだ。自分は特別なのだと感じられて舞い上がった。
 そしてそれが叶った時も。
(あれは本当に特別だったんだわ……)
 他の人では決してないだろうとことだったのだ。
「ならばアクマリィズ様の首を差し出すことになりますね」
 侍女は微笑んだような声でそう言う。
(首…!)
 この人は自分を殺すつもりなのだ。
 これが芝居だなんて嘘だ。この首に当てられているのは、きっと刃物でありその気になれば自分の首は胴体と離れてしまう。
 そう理解してしまい、身体はがたがたと震え始めた。だが震えば震えるほど首に冷たいものが当たって恐怖が濃くなる。
「エルベリルが黙ってはいないでしょうね」
 そんなことをすれば、妹を特別視している国核が大人しくているはずがない。
 ネフィはそう言ったけれど侍女は刃物を放さなかった。
「では通して下さいませ」
「通しても同じこと。どうしたところでラル様はお怒りになる」
 ネフィは見下したような言い方をした。こんなことになったこと自体、もしかすると馬鹿げていると思っているのかも知れない。
「ならばやはり妹様の首を飾りましょう。そうすれば少なくとも貴方への罰にはなる」
 アクマリィズを守れなかった。
 その事実がネフィにのし掛かる。アクマリィズを殺されても、クオンの元に通しても、ネフィはラルに許されることはない。
 忌々しげにネフィは舌打ちをした。そんな乱暴な仕草はネフィに関しては初めて見た。
 アクマリィズは祈るように両手を合わせる。
 この事態がどうにか上手く収まることを、ただじっと待っていることしか出来なかった。
「私たちはお会いしたいだけです。クオン様に何かしたいわけではないの。そんな恐れ多い。ですがこうしなければ到底お会い出来ないようでしたので、荒い手を取ってしまいました」
 侍女は礼儀正しく伝えるけれどその言葉が真意ではないことはアクマリィズにすら分かった。
 何もしないのであればどうして会おうとするのか。
 こんな手まで使って。
 他の人間に知られればこの侍女は無事ではいられない。不敬罪で死罪が言い渡されるだろう。けれどそれを恐れることなく行っているのだ。
 だからこそ得体の知れない不気味さがあった。
「愚劣ですね。虫酸が走る」
 ネフィは淡く笑みを浮かべてそう告げる。ラルが兄たちを退ける時に見せる氷の声にそっくりだった。
 その音の前では空気が張り詰める。指先一つ動かしただけでも全身を針で刺されてしまいそうだ。
「酷いお言葉です。ここにじっとしているのも耐え難いほど。ドアを開けて入れて下さいませんか?それともここでアクマリィズ様の首をご覧になりますか?」
 殺される。
 そう分かりアクマリィズはきつく目を閉じた。
(殺されたらどうなるの?)
 人は死ねばどうなるだろう。母は天国に行くと言う。ヒリュイは分からないと言い、ラルはただ消えてなくなるだけだと言った。
 侍女たちも天国に行くというけれど、それを本当に信じているかどうかはよく分からないようだった。
 アクマリィズにはそんな曖昧さすら分からない。
(死んだことなんてないんですもの)
 そして今それが知りたいとも思えない。
 震えているとネフィが溜息をついたのが分かった。
 そしてガチャリとドアが開く音がする。
 驚いて目を開けるとネフィが二つのドアを開けていた。
 そこはラルの部屋だ。
 手を切ってしまいそうな危ないものがいっぱい飾られた部屋、ベッドが置かれている部屋。ネフィは次々先に進んではドアを開けていく。
 侍女も男たちもそれに続いていく。アクマリィズは侍女に背中を支えられるようにして歩いていた。
 三つ目の部屋から出ると、ずっと廊下が続いた。いくつも開けられるドアと長い廊下。
 どこか別の世界に続くのかと思うほどそれは慎重な有様に思える。
(檻、なのだわ)
 クオンは檻の中にいるのだ。
 ラルの元で閉じ込められていると噂されていたけれど、それは真実なのだ。ラルはクオンを奥深くに閉じ込めて出さないようにしている。
(こんなにドアがあって、全部に鍵がかけられていれば出られるはずがないもの)
 それは異質なものに思えるのだろう。男の一人が「長すぎる」と苦笑したようだった。
 しかしそれまで淡々と鍵を外していたネフィが一つのドアの前で止まった。
 きっとそれが最後のドアなのだ。
「開けて下さい」
 侍女もそれに気が付いたようでネフィを急かした。
 するとネフィは躊躇いを捨てるように鍵を開けた。
 ゆっくりと、そのドアが重い何かを担っていることを示すように向こう側が開かれる。
 ネフィが中に入ると、その先にクオンが立っていた。
(クオン様……)
 突然いるはずのない四人が現れたというのに、クオンはまるで事前に聞いていたように平然とそこに立っていた。
 そしてアクマリィズと視線を合わせては淡く微笑んだ。



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