四章   3




 意外なことに、アクマリィズは本当に来た。
 口約束だけで実現することはないだろうと、クオンは予測していたのだが。そう日にちを開けることもなく、再会することになった。
 しかしクオンの部屋にアクマリィズを招くことはなく、その手前であるラルの部屋に呼ぶことになった。
 どうやらラルの部屋であるならば、アクマリィズは以前にも来たことがあるような様子だった。
 クオンも足を踏み入れたことはあるのだが、それは外に出る際の通路としてだげだ。
 じっくり滞在するのは初めてで、テーブルの前に座りながらやや落ち着かない気持ちだった。
 クオンの部屋と内装は似ているのだが、少し雑多な印象がある。装飾品と思われる武器類が多く飾られていた。好きなのかも知れない。
 アクマリィズがこの部屋に入ってきた時には、侍女を連れていなかった。
 ラルとジェダに添われており、自分に付いているだろう配下の者は誰一人姿を見せなかった。
 国核の血筋が単身で歩き回れるほど、この国の内政は穏やかではないだろう。
 これがケイガであったのならば不自然ではないのだが、ここであるならば異なる。
 きっとラルの部屋に入ってくる前に、侍女たちは下がらせたのだろう。
 ここに入れる気はなかったらしい。
 アクマリィズは侍女がいないということも気にする素振りはなく、クオンに会うと大袈裟なくらい喜んだ。
 エルベリルの内政を考えていたクオンなど馬鹿馬鹿しいと言うほどの明るさに、つい表情が和らぐ。
 アクマリィズは大いにはしゃいで、ラルに纏わり付いてはクオンにきらきらとした眼差しを向けてくれた。
 妹を構っている穏和なラルを見るのは非常に新鮮だ。
 それぞれが椅子に座りネフィがお茶の用意をすると、ようやくアクマリィズは落ち着いたらしい。
「ケイガは」
 前のめりになってクオンに何か言おうとした。
 けれどラルがそれを片手で止める。
「クオン様と呼びなさい」
 国核は国名で呼ぶ者。アクマリィズはその礼儀を知っていたのだ。だからクオンをケイガと呼んだ。
 だがラルはそれを好まない。クオンを国核として見ることを禁じているような台詞だった。
 もしかすると心の中では本当にそれを望んでいるのかも知れない。
「よろしいのですか?」
 アクマリィズは戸惑いつつラルやクオンを見た。
 その決定権はクオンにはない。だからラルをちらりと見ることしか出来なかった。
「ここではそう呼びなさい。ここから出た場所ではどうか知らないけどね」
 この部屋にいる限りは、クオンはケイガの名を背負うことがない。
 背負い続けており、下ろせるはずがないのに。ラルはそれを無視するのだ。
 ここが特別な空間であることはアクマリィズにも分かるのだろう。疑問を顔に出すこともなく飲み込んだようだった。
「クオン様はお幾つですか?」
 他愛もない質問にクオンは微笑んだ。
「二十六です」
 真実を告げるとアクマリィズがまじまじとクオンを見てくる。
(年より若いと思っているのだろうか)
 見たところ成人する頃の見た目に見られるのだが。二十六という年齢は間違いではない。
 国核の見た目など、年齢を計る基準にはならないものだ。
「マリ様は?」
 問いかけをそのまま返すと、アクマリィズは青い瞳を真ん丸にして、ぽかりと口を開けた。
 あまりにも驚くので何かしてしまっただろうかとクオンまで驚いてしまう。
「マリとお呼び下さい!様なんて、そんなのいりませんわ!」
 とんでもないことだと、まるで怒るようにしてアクマリィズが主張した。
 他国の国核血族なのだから、敬うのは自然ではないだろうか。
 仮にもクオンは敗戦国の捕らわれなのだから。
「マリの言う通りだよ」
 ラルもそれを後押ししてはお茶が満たされたカップに口を付けている。
 しかし、と言いたくなるのだがラルが決定を下したことに関していくら「でも」と言ったところで聞き入れられないのは学習済みだ。
「マリは十になりました」
 気を取り直したようにアクマリィズはにこやかな顔で答えてくれる。
 切り替えの早い子だ。
「そうですか。利発でいらっしゃる」
 これくらいの年の頃、セキエはどんな子だっただろう。何をして、どんなことを喋っていただろうか。
 懐かしくてなって、つい思い出してしまうけれど。記憶に沈むの前にアクマリィズの声に引き戻される。
「クオン様の御国にではみんな御髪が黒いのですか?」
 エルベリルには黒髪の人がほとんどいないようだった。
 なのできっとこれが珍しいのだろう。
「いえ。茶色の者も多くいます。マリほど綺麗な金色はおりませんが」
 黄金と呼べるほど綺麗に輝くその髪を褒めると、アクマリィズは照れたように笑っては目を細める。
(ラルによく似てる)
 彼女の髪の色はラルとそっくりだ。
 兄妹なのだから当然なのだが。違いはアクマリィズの方が緩やかに波打っているようだということだろうか。ラルは真っ直ぐな髪質だ。
「君の髪が深いのは血筋の濃さかな?」
「かも知れません」
 国核を己の血から出すために、クオンの一族は親族で婚姻を結ぶのが珍しくない。
 どの国でも行われていることだ。
 しかしエルベリルでは代々愛人が多く、子も多いようで血が薄まりやすいようだ。
「ケイガはどんな国ですか?」
 国核血族、しかもこの年では他国に行ったことはないだろう。
 当然興味があるはずだ。
 好奇心に満ちた瞳で尋ねられ、クオンはまずケイガの位置から説明しようとした。
「クオンはもう僕のだから。ケイガのことはもういいんだよ」
 喋る前にラルがそう切り捨てた。
 優しい言い方をしているが、言っていること残酷だ。
 ケイガという国というそのものであるクオンに対して、もういいんだと言うのだ。
 そんなものはもういいのだと。
(何も良くない)
 どんなつもりで、もういいだなんて言うのだ。
 ケイガはクオン自身であるのに。生きている限りクオンはケイガのものなのに。ラルのものになど完全になることは出来ないのだ。
 それを知っているはずなのに、何故そんなにもはっきりと言い切れる。
(私はケイガだ)
 喉が裂けるほど叫びたい。
 だがそうしたところでラルは今のように平然と否定するのだ。
 クオンの表情は凍り付いただろう。だがアクマリィズは異変に気が付いたはずだろうに、不安そうな顔一つしない。
「では……えっと、普段もここにおられるのですか?」
 この話題では駄目なのだと、幼心に察したのだろう。
 利発な子だと言ったばかりだが実感させられた。
「いえ、ここにはおりません」
 いつまでも固まっているとアクマリィズが気を遣うだけだ。
 クオンはすぐに笑みを作っては答える。
 こうして自分を殺して、別の感情を偽って見せるのは国核になる前から体得していたことだった。
 そう、きっとアクマリィズの年にはすでにこうしてクオンは感情を止める術を学んでいた。
「どこにいらっしゃるのですか?」
「この奥です」
 クオンは軽く奥だと言った。
 だが実際にはラルの部屋に来るまでにもドアがいくつかあり、この部屋からクオンの部屋に行くまでも多くのドアがある。
 深い、奥だ。
「ここの奥ですか?入ってはいけませんか?」
 この近く、もしかするとこの部屋に付けられているドアの向こうだとでも思ったのか。アクマリィズは席を立った。
 駆け出してしまいそうだが、ドアを開けたところであるのは廊下であったり、ラルの個室であったり、決してクオンへは届かない場所だ。
「駄目だよ。特別なところだから」
 特別な檻なのだと、クオンの耳には聞こえた。
 頑丈な鍵がかけられている。
 見た目にもそうだが、もっと大きな鍵は、ここからクオンが逃げ出した場合はケイガの民たちの命が奪われるという事実だろう。
「そうなのですか」
 アクマリィズはしゅんと小さくなって力無く椅子に納まる。
 つまらない、と言いたげだ。
「ではクオン様はいつも何をしていらっしゃるの?」
 部屋から出てこないクオンは、そこで何をしているのか。仕事があるわけでもないとアクマリィズも分かっているのだろう。
「本を読んでいることが多いですね。ケイガとここでは喋っている言葉はほとんど同じでも文章にすると少し違いがあるようです」
 情報だけでは以前から知っていたが。それを目にしたのはラルの部屋に入れられてからだ。
「絵本などで勉強している最中です」
 実のところ絵本でなくともなんとなく中身が読み取れる程度には理解出来るのだ。
 けれどどうせ初めからやるのならば、と開き直るようにして絵本を読んでいる。
 時間なら有り余っているので、ゆっくりやろうとしているのだ。
「そうなのですか!よろしければ私が教えて差し上げます!」
 アクマリィズは絶好の機会を見付けたと言うようにまた椅子から立ち上がった。
 ぴょんと勢い良く飛び跳ねるような仕草まで見せてくれる。
 得意げな顔が大変可愛い。
「マリが?ちゃんと本読めるのかい?」
 自信に溢れているアクマリィズに水を差したのはラルだった。
 頬杖を突いて、少し維持の悪そうな笑みを浮かべている。
「読めます!もろんですわ!」
 胸を張ってそうアクマリィズは言うけれど、ラルの笑みは深くなるばかりだった。
「僕は結局クオンがマリに本を読んであげてる図が思い浮かぶよ」
「そんなことないわ!マリだってちゃんと読めるもん!」
 ラルの挑発が相当心外だったらしい。アクマリィズは顔を赤くして大声でそう言った。
 敬語を忘れてしまうほど、言われたことが許せなかったらしい。
 実に幼い様に、クオンも笑ってしまう。
「マリはどんな本を読んでいるのですか?」
 このままでは拗ねてしまうだろう。アクマリィズがふいっと顔を背けて、柔らかそうな頬をぷっくりと膨らませたのを見てクオンが尋ねた。
 その問いかけはアクマリィズにとって嬉しいことだったようだ。
 斜めになってしまったはずの機嫌がしゃっきりと起立したのが分かった。
「魔法使いの御本!」
 大好きな本なのだろう。アクマリィズの相貌は輝いている。
「どんな魔法使いですか?」
「ドラゴンと契約をする魔法使いなの!そのドラゴンは本当の姿は」
 アクマリィズはクオンの質問に喜々として答えてくれる。
 夢中になって喋っているところから、きっと読んでいる時は今より真剣なのだろうなと思う。
 こうして少女が本の中身を語っているのを、大人たちが微笑みながら聞いている。
 その光景は実に穏やかなものだろう。
 普段の自分たちとはあまりに懸け離れた空間は。それこそ絵本の一部みたいだ。
 悪くないことなのだと思いながらも、ここには合わないだろうという気持ちもあった。



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