四章 2 小さな女の子はラルに勢い良く抱きついた。 ラルもそれを拒むことはなく、しっかりと受け止めている。 彼女が走って来た先には少年が一人と侍女と思われる女性が慌てていた。 少年は少女と顔立ちがよく似ている。きっと兄妹なのだろう。 「いけませんアクマリィズ様!」 侍女が必死な声でたしなめるけれど、アクマリィズと呼ばれた少女はラルに抱きついたままだ。 「マリ!」 少年は呼び捨てだ。予想通り兄妹であるらしい。 彼もまた鮮やかな金髪であり、瞳は緑が淡く混ざった青だ。 十三ほどに見える、どちらかと言うと線の細い子だ。 どこか大人しそうでラルとは正反対に近い印象を受ける。 「マリ、どうしたの」 ラルは抱き留めた子にそう声をかける。 そんな風に優しく誰かに話しかけているのを見るのは初めてかも知れない。 自分だけにしか向けない声なのかと思っていた。 (この人も、自分の妹は可愛いのか) 血杯に対しても淡々としていたので、身内に対してもそうなのかと思っていたのだが。違ったらしい。 顔を上げてラルをきらきらとした瞳で見上げる女の子は愛らしく、それを見れば冷たさも持っていられないものだろう。 (青い……) 兄であるだろう少年は緑がかかった青だったが、この少女にはほとんど緑がない。 深みのある青は、この国では珍しいのではないだろうか。 「ラル兄様がケイガの国核を連れていらっしゃるって聞いたの!私お目にかかりたいわ!」 嬉々とした声音で告げられた意味は、クオンのことに関してだった。 好奇心に輝くその視線は決して不快を宿したものではない。だが見世物のような扱いをされるのはなかなかに複雑だった。 ここではクオンなど、確かに見世物にされるようなものかも知れないのだが。普段は秘められている分、居心地は良くない。 どうしたものだろうかと困っていると、アクマリィズは見慣れぬ存在に気が付いたらしい。 「そちらの方ね!」 兄と国核に混ざっている一人を、アクマリィズはケイガだと判断したらしい。ラルの腕から出てはドレスの端を軽く摘んでは恭しく頭を下げた。 「こら、マリ」 背後で兄がたしなめるのだが、妹は聞くことなく姿勢を正さない。 「初めまして。私はアクマリィズ・エルベリンガと申します」 そう名乗られ、クオンは迷った。 礼儀としてはこちらも名を名乗るべきなのだ。 けれど敵国の真っ直中、しかも誰もがクオンをケイガの国核と知っている中。それを告げればこれを遠巻きに眺めている人々を逆撫でするのではないだろうか。 そして国核一族でも「エルベリル」の名が許されるのは国核のみだったな、と思い出した。 ケイガであるなら国核一族は皆ケイガを名乗るのだが。 「ほら、ヒリュイお兄様も」 隣の兄はヒリュイと言うらしい。「え、え」と戸惑いながらも、ヒリュイも結局妹とと同じように名を名乗った。 「ヒリュイ・エルベリンガと申します」 「私はクオン・ケイガです。ご存じかとは思いますが」 どうぞよろしくお願いします。と常であれば続けていたのだろうが、今はふさわしくないだろう。 「ちっ……んだよ」 穏やかになってしまった空間に、ジャスパーは舌打ちをしてきびすを返した。 まさか幼い子たちがいる中で罵声を浴びせるわけにもいかないと思ったらしい。 苛々した空気はそのままで、離れていく。 「失礼いたしました。アクマリィズ様、お止め下さい」 侍女はクオンがどんな位置にいるのか知っているのだろう。青ざめてアクマリィズを止める。ヒリュイも困惑しながら妹をここから遠ざけようとしたいらしい。 クオンなど関わって利点のない相手だ。 「マリは我が儘だな」 ラルは鷹揚とした態度でアクマリィズに苦笑している。 この妹は剛胆さと強引さがラルに似ているような気がした。 「だってお会いしたかったんですもの。なのにラル兄様はいつまで経っても会わせて下さらないから」 会わせられるはずがないだろう。 その場にいたマリィ以外の大人たちはみんな思ったはずだ。 ラルにはそのつもりはないようだが、クオンなどここの囚人に近い。 「クオンは普段外には出ないんだ」 出さないのだと、素直に言えばよいだろう。 クオンは皮肉を言いたくなる。 (こんな小さな子に、そんなことは言えないが) まして彼女には関係のないことだ。 しかしラルの言葉にもっとも反応したのはヒリュイと侍女だった。触れてはならぬことだと人々の間で言われているのだろう。 二人とも血の気を失っている。 「マリ。行こう。兄様の迷惑だ」 「えー。せっかくお会いできたのに!もっとお話したい!」 「駄目だよ!」 もっとクオンに関わりたいと言うアクマリィズの手を取って、ヒリュイは必死に止める。 危機感を覚えているような緊迫したものを見せている。 けれどアクマリィズにはそれが通じない。 「嫌よ!ラル兄様!」 すがるようにアクマリィズはラルの腕を掴んだ。三人が繋がる奇妙な光景になってしまう。 だだをこねるアクマリィズに、ラルは苦笑を深くする。 「マリ。ここでは駄目だ」 王宮の通路で長々とクオンを交えて話をするなんて正気の沙汰ではない。 ジャスパーのような者がまたやってきてクオンを罵り始めるかも知れないのだ。それどころかここで殺し合いになるかも知れない。 そんな厄介ごとをわざわざ引き起こす必要性はないだろう。 まして子どもの前で凄惨な景色を作りたくはない。 「では今度マリをクオン様に会わせて下さいな。じゃなきゃ離さないんだから!」 可愛い脅迫にラルはくつりと笑った。 ずっと黙っているネフィもにこにこと笑っている。その隣にいるジェダは相変わらず無表情だが。 (……セキエも昔はこんな風に愛らしい脅しをしたものだった) あの子にもこんな年頃があった。 クオンに構って欲しくて、無茶なこともよく言ってくれた。 アクマリィズとは顔立ちも身にまとっている色彩も違うというのに、妹というだけでセキエを思い出してしまう。 「参ったね」 ラルはかつての自分と同じように、妹に対して降参を告げる。 「じゃ今度。少しだけ時間を作ってあげるよ」 これにはラル以外の全員が驚いた。 まさか良いと言うなんて、思ってなかったのだ。 クオンをきつく閉じ込めていたというのに。誰の目にも触れさせたくないのだと言わんばかりの扱いだったのに。妹は別らしい。 (相当甘いんだな) 随分身内には甘いのだな、と驚きと共に感慨深く思った。 この人だってクオン以外に強く情を寄せるのだ。 「約束よ!」 アクマリィズは満面の笑みを浮かべて元気よくそう言った。 大成功を手にした人の笑顔にラルは肩をすくめた。 「分かったから手を離してくれないかい。もう行かなきゃいけないんだ」 いつまでもここにいれば、どんな揉め事が起こるか分からない。問題を増やしたくはないだろうラルは、ここから早くクオンを去らせたいのだ。 「すみません!」 ヒリュイはアクマリィズの我が儘に頭を下げる。 兄妹だろうに、アクマリィズとはあまりにも様子が違う。 ヒリュイには奔放さが欠けている。気質の問題だろうか。 「それじゃまた今度。マリにはお茶会の約束を送るよ」 「お待ちしていますわラル兄様!」 大人ぶりたかったのだろう。アクマリィズはやや改まった口調で膝を軽く曲げた。社交界でダンスを受ける女性のようだ。 ラルはそれを見て小さく笑い、背を向けて歩き出す。 ジャスパーの怒鳴り声を根こそぎ打ち消してしまうような、陽気な雰囲気が四人に寄り添っている。 あんな無邪気さを見れば曇っていた気持ちも、多少は紛れる。 「妹君には甘いのですね」 赤の他人から見ても可愛らしい女の子だ。身内であるならなおさら可愛いだろう。 この男にも家族を特別可愛がる思いがあるのだと、安堵に似た気持ちでそう告げた。 けれど返されたのは、そんなクオンの気持ちを上回るものだった。 「マリの瞳を見たかい?」 「はい。ここでは少し、珍しい色でしたね」 何故瞳の色なのか。 クオンは怪訝に思いながらも感じたことをそのまま伝えた。 するとラルは満足そうに頷く。 「君の瞳に似ている」 それが理由だ。 ラルは暗にそう教えたのだ。 アクマリィズを大切にしているのも、可愛がっているのも、特別扱いしているのも。 それは全てクオンと瞳の色が似ているからだと。 (……この男は……) ぞっとするような寒気が全身に走る。 それは恐怖なのか、それとも別の何かでもあるのか。クオンには分からなかった。 ただ途方もないものに自分は捕らえられているのだという錯覚に襲われた。 ケイガが現れたのだと、噂が耳に入ってきた。 これで二度目であるらしいが、一度目の際はケイガからの使者がやってきた時に唐突に出てきた。 けれど今回は出てくることが予測されていた。ケイガである以上終戦条約の調印をせざる得ない。だから人々の視線は今日という日に集められていた。 会議に出席する人々、そして部屋から出る際と帰る際に廊下を通る姿を待ち構えていた人々がケイガを目撃していた。 ラルよりも年上であるはずなのに、どこか少年のような容姿だった。そう報告してきた侍女は言った。 国核は常人とは異なり、国核にとって最も高みのある状態で年齢が止まる。 ケイガにとっては少年のようにも見えるその年が、一番優れた状態だったのだろう。 男であることは見て取れるけれど、静かで不思議な雰囲気を持つ者である。エルベリルの扱いも非常に丁重なものだった。 別の侍女もそう伝えてくる。 寵姫に成り下がっているのだ。 それが本物のエルベリルの寵姫たちの見解だった。 ケイガがここに来てから、エルベリルは自分の愛人たちの元に通わなくなった。 元々女の元には滅多に通うことのない淡泊な人だったのだ。それが戦が終わってぱったり動かなくなった。 行き先はいつも同じ。 ケイガの元だ。 何のためにケイガを捕らえたのか。何故殺さないのか。 当初から大きな疑問として人々の口に上がっていたものだが。今その理由が示されているのだろう。 ケイガを寵姫にしたのだ。 もしかするとケイガの国核を辱めるためなのかも知れない。屈辱を与えて、堕落させて、叩き潰してから殺すのかも知れない。 エルベリルは残酷なところがある国核だ。 それくらいのことをしてもおかしくはないと思っていた。 けれどいつまで立ってもケイガが殺される気配はなく。それどころか。 高く澄んだ声、最上の歌姫。そう言われた声が歪んでいる。 自覚しているが直せそうもない。こんな声は決してエルベリルには聞かせられない。 沸き上がってくる感情は怒気を通り越して憎悪ですらある。 ケイガなど興味はない。エルベリルは飽きっぽい人なのでケイガなどすぐに興味を失われるはず。そう他の愛人たちには言って、ケイガの姿をこの目で確認することはなかった。 それは正しい選択だったのだ。 あのエルベリルが誰かに優しい様など取っているのを見れば、その場で崩れ落ちてしまったかも知れない。 冷たく、氷のようで、だからこそ強く揺るぎのない人だというのに。 「いけませんわ。そんなの」 あの人が特別なものを持つなんて。特定の誰かに捕らわれるなんてあってはいけないことなのだ。 あの人は孤高であるからこそ美しく、尊いのに。そうでなくなればエルベリルの本質が変わってしまう。 そんなことはあの方自身望んでいないはずだ。 だから、そんなものは奪ってしまわなければ。 ケイガは瀕死の様でここに運ばれてきた。 戦場でエルベリルに殺されかけていたらしい。虫の息であったと聞いている。 それからまだ歳月はさして経っていない。 人であったのならまだろくに動けずにいるだろうというほどの損傷であったらしい。 しかし一見平然と歩いていたというのだから国核というものは恐ろしい。 だがそれでも未だにエルベリルの医者がケイガを看ているようだった。まだまだ治療は続いているのだろう。 身体が治りきって、体力が付いている状態であるのならともかく。今なら常人であってもその首を刈り取れるのではないだろうか。 そう思うと自然と椅子から立ち上がっていた。 殺せるのではないだろうか。 もし死んだのなら、エルベリルは大して悲しむこともなく心を取り戻すだろう。あの人は弱い者に関心はない。 まして死んだ者に目を向けるはずがない。 「お父様も、あれは良くないと言っていたものね」 この国の政治中枢に座っている父も、エルベリルの現状には不満があるようだった。 侵略した国家を吸収することもなく生き残らせていること自体、理解出来ない。何のための戦であったのか全く納得が出来ないと言っていた。 ケイガの国核が生きているからそんなことになっているのだ。 死んでしまえばあの国はエルベリルの物になる。 その方がこの国にいる者たちにとっては良いことだ。 「ねぇ」 頭の中で色んな考えが巡る。どうすればこれを変えられるだろうかと考えるのは愉快だった。 抑圧されていた何かが膨張しては弾けていく。 口元には自然と笑みが浮かぶ。そのくせにぎらぎらとした鈍い光が全身に纏わり付くような感覚を覚える。 脈拍は時を刻むようにはっきりと聞こえてきた。 高揚する気分のまま侍女に小首を傾げた。 「お父様にお時間を頂けないか訊いてきてくれない?」 可愛らしい仕草だと父が好むその角度のまま、そう告げた。 next |