四章   1




 ケイガとの終戦条約の調印を、皮肉なことだがクオンがやらねばならなかった。
 どこにいようが、敵国に縛られていようが、クオンは国核なのだ。
 まして戦が始まった際に国核同士で開戦の宣言をあげている。
 それを止めるには、国の最上位にいる者が必要だった。
 無論ふさわしいのは国核である。
 生きている以上、クオンはこの役目から逃れられない。
 他のことであるのならケイガにいるだろう妹が背負うのだろうが、戦に関しては全ての責務を国核が負う。
 それは決められていることだった。
 なのでクオンはラルに与えられた部屋から久しぶりに出ることになった。
 以前部屋から出たのはケイガからの使者がやって来た時だ。
 それを思うと、こうしていてもやはり自分とケイガは繋がっているのだろうと思う。
 悲壮でしかない現実だが、変えようがない。
 クオンはラルに連れられてエルベリルの公式の場に姿を出した。
 殺意と好奇心の視線に突き刺されながら、クオンは調印を行った。拒否など初めから存在しない。
 そして調印が終わるとクオンは再びラルと共に席を立って部屋に戻ろうとした。
 この後エルベリルでの会議があるのだろうが、クオンには関係がない。そしてラルはそれよりクオンを移動させることの方が気になるようだった。
 王宮の華やかな廊下を歩いていると、遠巻きに人々がクオンを見て何か囁いている。
 好意的なものは一つもない。当然だ。
 クオンはこの国の人間を何人も殺している。殺戮者を歓迎するような狂気じみた者はそういない。
 自分の安全を脅かした者に対する視線はどれも針のようだ。
 しかしその中でも特別強い視線があった。
 後ろからずかずかと大きな足音がする。その音と共に殺意が近付いてきていた。
 背中に目があったとすればきっと睨み付ける誰かの眼球を眺められたことだろう。
「いつまで生かしておくつもりだ」
 その足音はラルやクオン、その二人に付き従っているジェダとネフィを通り過ぎて道を遮るように前に来た。
 怒りをあらわにする赤毛の男。
 ラルの側に控えているのを何度も見ている。戦になる前もごく近しい臣下としてラルの側にいた。
 そして戦場でも見た男だ。
「いつまでもだけど」
 進路を塞がれて、ラルは立ち止まる。
 さも当然のように答えるのだが、赤毛の男はそれに激高したらしい。
 全身の毛が逆立ち、相貌が血走った。
 あまりにも強すぎる感情の発露だ。
 激情家なのだろう、とクオンは自分に向けられている怒りであるはずなのに平然と観察していた。
「こいつはケイガの国核だぞ!?」
 男はわざわざクオンを指さしてくる。本音を言えば帯刀しているその刃を喉元に突きつけたいと言うようだ。
「それが?」
 分かり切ったことを何故問いかけるのかというように、ラルは不思議そうですらあった。それが一層男の神経を逆撫でするのだということくらい、容易に想像出来るだろうに。
「どれだけの仲間が殺されたと思ってんだ!こいつはおまえの知ってる部下だって殺してんだぞ!」
 親しげな口の利き方だ。確かこの男は血杯を受けた側近だったはずだ。だから出来ることだろう。
 そうでなければこんな口の利き方は出来ない。それどころかラルの進行を止めるような真似も出来ないだろう。
「ジェダだって目をかけてた部下殺されただろうが!なんで黙ってんだよ!」
 冷ややかなラルに焦れたのか、男は背後にいるジェダに話を向けた。
 ジェダも戦場に出ている。そういう荒々しい行動が似合いそうもない人だが、血杯を受けている以上戦わないはずがない。
 そして戦場に出れば、親しい者が奪われるのを目撃もしただろう。
 男が言うならば部下をクオンが殺したという。
(でも私はそれが誰かなど分からない)
 ジェダの部下がどんな人物なのか、きっと特徴を言われても分からないだろう。
 殺す人間をじっくり見ることなどないからだ。
 ただ作業のように殺して、捨て去るだけだ。
 命を刈り取るのには数秒もあれば十分で。そんな短さで相手の何が記憶出来るだろう。まして、クオンはそんな作業を何度も繰り返してしまっていた。
 何の感情も抱けないクオンと同じであるかのように、ジェダも無反応だった。
 それに男は舌打ちをする。
 そしてとうとうクオンに目を向けた。殺してしまいたいと視線が訴えていた。
「おまえだって生き残ってるのが恥だと思わねぇのか!」
 男はクオンに向かって一歩踏み出してきた。だがそれ以上距離を縮めることなく、ぎりぎりと殺意を込めて視線をぶつけてくる。
 まるで戦場に舞い戻ったかのような錯覚を覚える。
 だが不快感は沸いてこなかった。これが自分に向けられる自然なものだと感じているせいだろう。
(恥だ。生きていることは間違っている)
 男の言う通りなのだ。クオンは死ぬべきだ。
 だが真横にいる男が、敵国の国核であるはずの生き物がそれを許さない。
 クオンをここに縛り付ける。
「てめぇのせいで俺たちがどれだけ大切なものを奪われたか分かるか!?大切な仲間たちが、身内がどれだけ亡くなったか!残されたもんがどれたけ辛いか!」
 戦場では死体が積み上げられた。
 クオンが風のように通り過ぎた後には物体になってしまったものがいっぱい並んだ。
 それはさっきまで命を持ち、誰かを愛して、誰からか愛されていた人間だった。
 だがそんな人はもう二度と戻ってこない。
 どこにもいなくなってしまった。
 クオンの一降りが、それを成してしまったのだ。
 あの空虚感は思い出すだけでも悲鳴を上げたくなる。
 自分もあの死体たちと同じように空っぽになっていくようだった。
 だがそんなことすらも分かりながら、クオンは人を殺していた。
 守りたい者があったからだ。
(それすら私は失ったけれど)
 目の前の男のように失った者を惜しんでわめき散らすだけの力は、寂しさは残っていない。
「恋人や家族を失った奴らに俺は何て声をかけたらいい!死体も帰らず、泣きながら空に祈る奴になんて!」
 悲嘆に暮れている男の言葉に、クオンは息を吸った。
 怒鳴り続けて男の気が紛れるのならばそれでいいかと思った。
 だが自分たちだけが辛い、苦しい、悲しいのだと叫ぶ様に、小さな滑稽さを見てしまった。
「貴方も私の民を殺した」
 嘆くその様は、自分たちのものだけではないのだ。
 罵声を投げつけるその男の手も、命を奪ったものだ。
「貴方は戦場で私の民を多く奪った」
 血杯とただの民を一緒にすること自体間違っている。血杯はすでに人とは言えないような能力値の高さだ。
 けれどそれでも民は血杯に立ち向かっていく。国核だけでは全てを相手出来ないと知っているから。彼らはその命を捧げるのだ。
 無駄な死になるだろうと知りながら。僅かな足止めとして散っていく。
 クオンがそれを散らしたように、この男もそれを成した。
「民って言ってもおまえにとったらただの兵士!ただの駒だろ!」
 男の言い方はクオンの精神をざらつかせる。けれどそれを否定したところで直属の部下とただの戦力は違うというのだろう。
 それだけの傲慢さを男は見せていた。
「私の伯父も貴方に殺された」
 伯父は血杯ではなかった。
 血杯を増やせばそれだけ能力値は分散してしまう。何故かそういう仕組みになっていた。
 なのでどこの国でも血杯は数人に限られている。
 そのため伯父はこの男に殺されたのだ。
「彼にはまだ幼い娘がおり、未だに彼の帰りを待っているだろう。母親は病で亡くなり、たった一人の親だった」
 まだ幼い子がどんな気持ちで生きてるいるのか。クオンには分からない。
 ただあの小さな身体では変えられないほどの重さを抱えていることだけは分かる。
「死んでいった者たちの家族は皆そうだろう。悲嘆に暮れている。失った人が戻らないことを受け入れられずにいる」
 死にましたと言われて、そうですかとすんなり理解出来る者が果たしてどれだけいるだろうか。
 愛おしい存在がもうどこにもいないなんて言われて、実感出来るはずがない。
「貴方の部下を失った人たちと同じように」
 どちらが悪かったなんて問答は無意味だ。どちらにより重い責任があるかなんて。
 失った人々にとっては、奪った相手が憎い。奪った存在が呪わしい。
 意義や価値なんて意味がない。
 仕方がないのだ、国のためなのだと理由を付けても寂しいものは寂しい。苦しいものは苦しいのだ。
 喪失の事実を完璧に納得させられる理由なんてどこにもない。
「だがおまえは!」
 男はやや勢いをそいだ。それでも殺気を消さずに言葉を続けようとする。
 しかしそれを止めたのはラルだった。
「ジャスパー」
 めんどくさそうにラルが名前を口にする。
(そうだ。その名だった)
 この男はそう呼ばれていた。この国の、顔を合わせるわけでもないだろう人の名前など覚える必要もないと思っていたので、頭に入れなかったのだが。
 この男はその名前で呼ばれていたなと思い出す。
「止めんのかよ!」
「ガキのようなことを言わないでくれよ」
 ラルの冷淡な台詞に、ジャスパーが息を呑んだ。
 大切に思っていただろう部下の喪失に怒っていることを、ガキのようだと一蹴されたのだ。面白いはずもない。
 しかし顔色を変えるジャスパーを見ていながらラルは口を閉ざさなかった。
「今回は被害が大きかったからって一々動揺するなんて。指揮官のやることじゃないよ」
 被害が出るのが戦。死人が出るのが戦だ。
 避けようがない。
 その覚悟で誰もが戦場に赴くのだ。
 なのにこれほどの激怒を見せるジャスパーが、ラルには馬鹿馬鹿しく見えたのかも知れない。
(この人は、人の命に重きを置かない)
 部下も民もきっと一つの道具のように見ている。だからジャスパーの意見には全く同意出来ないのだろう。
 クオンはその考え方が嫌いだった。
 国核は人ではない。けれど生まれた時は人だ。そして人に囲まれて、育まれて育つ。その優しさと恩を知っている。
 だから道具だなんて思えない。人であると、命であると思っている。
 けれどラルにはそんな感覚はないのだろう。
「てめぇ……」
 唸るように低くうめいたかと思うと、ジャスパーは拳を握った。そして力強く前に出ようとする。
 間違いなく殴りかかる手前だ。
 いくら血杯だとは言え、国核にそんな態度を取って良いはずがない。反逆はどこの国であっても死罪だ。
 まさかここでこの血杯は我を失って罪を犯すつもりなのか。
 クオン一人だけが危機感を覚えているようで、ラルは悠然と腕を組んだままだ。後ろの二人も黙って傍観する様子だった。
 頭を冷やせと忠告して、止める慈悲はここにはないのだろうか。
 他人事であるはずなのにその冷たさにぞっとしていると、ジャスパーが突然目を丸くした。
 何かを発見したらしいその反応に、クオンは何となく振り返る。
 他の三人も同じだったようで、背後を見るとそこにはこちらに向かって走ってくる小さな女の子がいた。
「ラル兄様!」
 ふわふわとしたドレスを身にまとった金髪の少女が両手を広げてこちらに走ってくる。
(兄様……?)
 鈴を転がしたような高く可愛らしい声が告げた言葉を、クオンは心の中で呟いた。



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