三章 6 妹と過ごす時間は、当たり前のように柔らかく、そこにネフィがいたとしても違和感がなかった。 けれど、この世で起こっている何もかもを無視している。置き去りにしているという自覚はあった。 そして、すぐに終わることだとも理解はしていた。 だから再びドアがノックされた時には、時間が来たのだと素直に思えたのだ。 続くはずがない。このままでいられるはずがない。 それはセキエも同じ気持ちだっただろう。けれどお互いその切なさは口には出さなかった。 切り裂かれてしまう瞬間が怖かったのだ。 「お時間です」 ジェダが恭しく告げたその言葉に、兄妹は深く息を吐いた。 嫌だと、もう少し時間が欲しいと言えるだけの浅慮さはない。 どれほど時間を伸ばしたところで、離れがたい気持ちが薄らぐことはないのだから。 セキエは大人しく席を立った。 青ざめた、苦しげな様だ。 可哀想だと思うけれど、それを成しているのは自分だという実状に言葉が出ない。 クオンもまた席を立っては歩き出そうとするセキエに寄り添った。 「兄様は、いつも私を救って下さった」 セキエはクオンの手を握り祈るように語る。 「だから今度は私が兄様をお救いする番です」 揺るぎのない、強すぎる声だ。そのためには何であろうとも厭わないと決意する音が聞こえるようで、クオンは首を振った。 「私は良いんだ。私は、セキエが幸せになってくれればそれで十分満たされる」 クオンのために傷付いて欲しくない。 この目に出来なくとも、聞くことが出来なくとも、セキエが幸せになってくれればそれでクオンは満足なのだ。 嬉しそうに暮らしてくれていれば、それだけで生きてきた価値があるような気がする。 (この子が幸せに生きてくれているならば) それは自分の幸せになるのだ。 だがセキエは握った手に更に力を込めた。 「兄様のいない幸せなど私にはありません」 「……セキエ」 それはセキエのいない世に幸せがないのだと、クオンが躊躇いなく口にするのと同じことなのだろう。 分かるだけに諭すこともできない。 「けれどセキエ、もう戻れはしないんだ。どこにも戻れない」 二人で穏やかに暮らしていたあのケイガには帰れない。クオンはここから出られないのだから。 「あの男のせいですね」 戦を駆けめぐったクオンですらぞっとするような声で、セキエは低く呻いた。 明白な殺気は華奢なセキエが放つには不釣り合いだ。 「エルベリルのせいではない。それは、全て私が招いたことだ」 「……先ほど、兄様はエルベリルのことをラルと呼ばれておりましたが。それは何故ですか?」 悔やむクオンにセキエは唐突な問いかけを投げる。 じっと、クオンの瞳の奥に何かが秘められているのではないかと疑っているような眼差しで射抜いてくる。 仮にも国核を呼び捨てになど、通常は許されないことだ。 国辱に値するのだが、それをラル自身も平然と受け止めていた。それが異質に映ったのだろう。 「それは、エルベリルご自身が望まれたことだから」 「命じられたのですね。でなければ兄様がそんな無礼を口にするはずがありません」 望まれた。それだけのことならばクオンは呼び捨てにするなどということは拒否しただろう。 まして衆目がある場所での呼び捨ては、ラル自身の威厳を低くさせる結果にもなりかねない。 礼儀を失うようなことをクオンは極力避ける。 それをセキエもよく知っている。だからこそ、命じられたのだと察してしまったのだろう。 「……セキエ。もう良いのだよ。それほど私のことを思わなくてもいいんだ」 「何を仰るのですか兄様」 気を使い、心配ばかりいる妹にクオンは優しく終わりにしなさいと伝える。けれど聞き入れられない。 「私はすでに己の欲のために道を外し、ケイガに背を向けている。きっと私は国を捨ててしまっている」 「そんなことは決してありません!」 「セキエ、私は」 クオンはぎゅっとセキエの手を握った。 自分とは異なる細い指。この手はもう二度と離したくないと思う。その一方でもう握ることは出来ないと思うのだ。 妹の前で、ケイガのためだけに命を捧げていたクオンはもう、どこにもいない。 「己の欲に捕らわれた最も貪欲で非情な、罪人なのだよ」 この言葉が意図としていることをきっとセキエは分からない。 だがクオンの声に何かを感じ取ったのだろう。 瞠目をしてはクオンを見上げてくる。 自分の知らない兄がそこに見えているのかも知れない。 「セキエ様」 ジェダが退出を促し、名を呼んでいる。 それにセキエはゆっくりと瞼を下ろした。 「それでも兄様。私は兄様に幸せになって欲しいのです」 誰よりも幸せになって欲しいのです。 切実な願いにクオンは答えられない。自分の幸せが何であるのか、もはや分からないのだ。 「どうかお元気で」 目を開けたセキエはすがるような眼差しのまま、そう伝える。 「セキエも」 「はい」 頷き、視線を落とし、指が外された。 するりと抜けていく指に自分の心すら落ちていくような錯覚を覚える。 そしてセキエは瞬きを一つしては仮面をかぶる。ケイガの血筋としての矜持を抱く者としての仮面を。 かつてクオンがそうであったように。 「また必ずお会いします」 クオンに背を向けてドアへと歩きながら、セキエが言った。 それは力強い意志が滲んでいるものだ。 おそらくクオンの言葉すら届くことのないほどの決意がそこにあるのだろう。 そしてセキエは返事を待つことなく、ドアの向こうへと進んでいった。 一人残されたクオンは初めて、閉まるドアに孤独を感じた。 ケイガとの条約のやりとり、最終段階の煮詰めをし、その後はエルベリル側でまた会議が行われた。 何度も人と話をしたのだが、何をどう言われようが自分の決めたことを押し通すだけだった。 ラルが国核として自立してから、エルベリルは大抵そうして回ってきている。 そろそろ周囲に諦めが滲んでいるのだが、それでも苦言を呈してくる者は多い。 その筆頭がジェダであることが皮肉だった。 最もジェダはラルの意志を尊重した上で状況を否定してくるので腹は立たないが。 それでも会話が増えれば自然と会議が終わる時間も長引いてしまう。 クオンの元に訪れたのは深夜近くの時間になってからだ。 その前に自室でネフィから昼間のことは詳しく聞いている。 クオンの妹をわざわざクオンの部屋まで案内したのは人目を避けたことと、ネフィに逐一会話を記録させるためだ。 おかげで二人が交わした会話の全てが文字として手元に現れた。 相当仲の良い兄妹だということは、再会させた時に分かっていた。 抱き合ったあの光景は全身に灼熱が走るほどの激怒を覚えたほどだ。 自分の者に気安く他人が触れている。そしてクオンもまたそれを受け容れているということがラルの神経に大きく触れた。 それでも動かずにいたのは、見つめ合った二人の顔立ちがとてもよく似ていたからだ。 似ていない兄妹であったのならラルは妹を二度とクオンには会わせなかったことだろう。 始終妹を気遣い、妹が出ていった後は物憂げに鬱ぎ込んだらしいクオンの寝室にラルは無音で入り込んだ。 螢石の淡い光が周囲を照らしている。 まだ眠っていなかったらしいクオンはベッドに腰掛けていた。 ラルを見ては立ち上がり、軽く頭を下げてくる。 「妹をここに通して下さって、ありがとうございます」 「君が会いたがっているようだったから」 会食時にもしクオンがラルに願い出なければ叶わなかっただろう時間だ。 ラルにとってこの部屋は特別なものだ。クオンと自分のためだけの空間であり、そこに他人を入れるなんて許し難いことだった。 だがクオンに似ている妹であるのなら、そしてクオンが自分の知らない顔を見せてくれるのであればある程度我慢は出来た。 そして今はその判断は間違いではなかったのだろうと思っている。 まだ知らなかったクオンの情報が手に入れられたのだから。 「彼女の側近たちも、ずっと君を心配していた。会議の合間に君のことを聞きたがってね」 未だにケイガの民はクオンを「ケイガ」と国名で呼ぶ。 それは国核である以上仕方のないことのように思える。だがその度にラルは自分の精神がとがっていくのを感じていた。 クオンはもうケイガではないのだ。そう教えたくなる。 国として生きていたクオンはもうどこにもいない。存在させはしないのだと、勝ち誇るように言い放ちたい。 「全ては君のために動いている。そんな感じだった」 なんとかクオンを取り戻そうとしているようだった。 だがラルはそれらを退けた。考慮する必要性を欠片も感じなかったのだ。 何のための戦であったのか、そう言ってしまいたくなる。 だが言ってしまえばさすがのラルもエルベリルの者たちから非難を一身に受けることになる。それは面倒だった。 ケイガの懇願を聞き流しながら、懸命にクオンを取り戻そうとしている人々を眺めていた。 「国核の神格化。ケイガはそれが顕著だと聞いたけれど。本当に厄介だね」 忌々しい限りだ。 エルベリルの中に隔離したとしてもケイガの民はクオンを慕って何度でも繋がりを持とうとする。その気配を感じてはクオンもまた残してきたケイガを思い、ラルの前から意識が離れる。 どれほど閉じ込めようとしても、自分だけのものにしようとしても。あらゆる方向からそれを邪魔される。 もういつだって目の前にクオンはいるのに。その眼差しを受けることが出来るというのに。どうしてまだ、完全に独占することが出来ないのだろうか。 一つの存在を手に入れることはこんなにも困難なことなのだろうか。 (君はどこまで遠いんだろう) 現実の距離はたった数歩だというのに、どうして遠いのだろうか。 next |