三章   5




 食事会の後はすぐにクオンは自室へと戻された。
 妹以外と個人的に言葉を交わすことはなく、しかしそれでもお互い顔が見えたことで安堵している部分は大きい。
 後ほど時間を作ってくれるとは言ったけれど、どこでどう会えるというのだろう。
 現在ケイガはラルと共に条約を煮詰めている最中。それだけで随分時間のかかることだと思うのだが。
(……強くなったな)
 セキエは身体は強くなかったが、気丈な子だった。
 それが一層真っ直ぐ前を見据えるようになった気がする。
 ケイガの国核がいなくなったことで、自分が責務を負うのだという意識がそうさせたのだろうか。
 だとすれば随分酷なことをしている。
 クオンはテーブルの上に置かれている絵本を見下ろした。
 かつて妹がまだ小さかった頃に話して聞かせた本だ。
 母は病弱で妹が生まれた後は床から離れることが困難だった。父は国核として忙しく、クオンがセキエの面倒を見ていた。
 寝入りばなに何度も読んでくれと言われ、自身もまだ子どもだったクオンはよく本を読みながら一緒に寝たものだ。
 あの時の絵本とは表紙も内容も異なっているけれど、セキエとの時間は変わるはずもない。
「クオン様」
 ネフィがそう呼んだかと思うとドアがノックされた。誰かが来る気配は感じていたので驚きはしない。
 クオンは返事をしない。この部屋の主はクオンというわけではないのだ。ラルが支配をしている。
 返事をしようがしまいがクオンに拒否権も何もない。だがその主であるラルの気配がドアの向こうから感じられなかった。
 国核の鮮烈な気配はドア越しにも感じることが出来るはずだというのに。
(いない……)
 ネフィが傍らにいる場合、訪れるのはラルくらいのものだ。けれどそれがないということは、何かあったのか。
「どうぞ」
 返事をせずにいると律儀に向こうで待っている人に、クオンは声を掛けた。
 すると向こうから無表情な男が現れた。そしてその背後には小柄な女性。
「セキエ」
 時間を取ってくれるとは言っていたが、まさかここに呼んでくれるとは思わなかった。
 クオンの檻に他人を入れることを良しとしなかったのではないだろうか。
(むしろ外に出した方が人目に触れて嫌なのかも知れないな)
 数時間前にここから出た際には多くの視線が集まった。もう一度あんなことになればラルの癇に障るのかも知れない。
「ネフィ。後は任せた」
 ジェダはセキエをここに運んだことで自分の役目を終えたのだろう。ネフィにそう告げると背を向けて出ていった。
 鍵がかけられる、クオンにとっては慣れた音にセキエが切なげに目を伏せた。
 ここに来るまでも幾つも鍵を開けたことだろう。その度にそんな顔をしたのだろうか。
「二人で会っても良いと、エルベリルから言われました」
 表情を緩めるとセキエは微かな笑みを浮かべてそう言った。
「そうか」
「はい。私もここまで来られるとは思っておりませんでした」
 ラルがいた時とは異なり、セキエからは尖った部分が抜け落ちていた。ケイガで会っていた時のように、穏和な雰囲気を纏う女性に戻っている。
 それだけエルベリルの人間たちの前では気を張っていたのだろう。
 ネフィは二人に配慮してくれたのか、離れた場所でお茶の準備をしている。なるべく音も立てないように慎重に動いてくれているようだ。
「ここで暮らしていらっしゃるのですか?」
 セキエは改めて部屋を見渡している。
 自国の部屋より小さく、物も少ない。だがクオンは物にこだわらない。使わない物は置いていても仕方がないと思っているほどだ。
 なのでこの部屋でも十分、不自由な生活出来る。
「狭くは、ありませんか?外には出られぬのでしょう?」
 クオンがこの部屋から出ることが出来ないという事実は、先ほど再会するまでに知ることになっただろう。
 第一、敵国の国核を監禁せずにいるはずがないのだ。
「慣れれば何ということも。庭が広いので窮屈だという感覚もそうないよ」
 部屋から出てすぐ広がっている庭はケイガの物よりずっと広い。クオンしか使わないだろう空間にこれほどの広さを使って良いのだろうかと思うほどだ。
 犬どころか馬を数頭か放し飼い出来るほどだろう。
「お身体は本当にもう、大丈夫なのですか?」
 戦でクオンがどうなったのか、セキエの耳まで届いたことだろう。無様な倒れ方をしたのだ。怪我の具合も浅くなかったことは明白だった。
「もう完治している。私は、国核だから」
 常人であるのならともかく、国核であるなら死にはしない程度だった。
 しかし己を国核だということに抵抗感がある。数ヶ月前なら何の躊躇いもなかったことだが、現状を思うと皮肉だ。
「……それでも苦しくはありませんか?」
 自虐的な響きを察したのだろう。セキエはぽつりと問いかける。
 痛ましいその声に、クオンは殺し続けた郷愁が頭をもたげるのを感じた。
「死なぬ己を苦しいとは思うさ」
 まだおめおめと生き延びている。国のために生きているなんてもはや言えない。
 クオンがいるからケイガはエルベリルに縛られている。セキエも、ラルに頭を下げなければならなかった。
 クオンがいなければケイガは消えてしまうけれど、国を失った民たちは自由に逃げることが出来たはずだ。
 ケイガでなければ生きていけないわけではない。セキエとて、ケイガの血筋として折れそうな細い身体に、重圧を背負うこともない。
(そう思うのは私の我が儘なのだろうか)
「そうではないのです!私が訊きたいのはそんなことではありません!」
 セキエは自重するクオンを、反射のように否定する。
 突然大きくなった声量にクオンは妹を見つめる。
 酷く傷付いた双眸に胸が痛い。幾度この子を苦しめるのだろうか。
「しかしセキエ。私が生きている限りおまえたちは抗えぬだろう?」
「私たちのことなど良いのです!」
 首を振り、セキエは大きな青い瞳に涙を滲ませる。
「ここまで来て兄様はまだ人のことばかり!いつだってご自身のことは後回しになさって…!」
 すがりつくようにセキエは訴える。
 人からそんな風に見えていることは知っていた。むしろそう見えるようにしていたのだ。
 自分のことなどさらけ出せはしなかったから。
「国のために生き!国のために自身を尽くされたというのに!今はこんなところにっ…!」
 セキエはぎゅっと手を握った。その手の中には何もないだろうに、必死につかみ取ろうとしているかのようだ。
「悔しいのです!口惜しいのです!私は兄様がこんなところにいることが!こんな扱いを受けているということが!許せないのです!」
「けれど私は負けたのだよ」
 事実を口にするとセキエはびくりと肩を震わせた。
 そして幾つも涙を落とす。
 直視出来ずに頭へと手を伸ばすとセキエが腕の中に飛び込んできた。
「生きているだけで恥とされるべき者だ」
「いえ、いえ!私たちにとって兄様は!」
 セキエは違う違うと首を振る。
 だだをこねているような幼い仕草に、自然と髪を撫でていた。こうすることで慰めにもならないとは分かっているが、慈しまずにはいられなかった。
(この子が背負っているケイガは、今)
 どうなっているだろう。
 戦の影響は色濃く残っていることだろう。まして敗戦ということでエルベリルの手が大きく入っているはずだ。どこがどう変えられていることか。
 中枢から支配が入っていることだろうが、どこまでそれが染み込んでいることか。そしてセキエはそれにどう応じているのだろうか。
 不安要素なら山ほどある。
 けれど、どれだけ思ってもクオンは問いかけはしない。
 知ったところでどうしようもないことだ。
 この檻から出ることは許されないのだから。
「兄様…ここから出られることはないのですか」
 クオンの思考を読みとったかのようにセキエが質問を渡してくる。
 涙声は震えており、可哀想だという痛みばかり生まれてくる。
「……私がここから出たのは、先ほどが初めてになる。おそらくこれからも出ることはほとんどないだろう」
 セキエがクオンの服を掴み「あんまりです」と呟いた。
「手紙の類も一切禁じられました。何であっても兄様の元には届けないと。これでは監禁です」
 酷いとセキエは言いたいのだろうか。けれどもしそう思っているとすればそれは勘違いだ。
 むしろ監禁くらいで済んでいるだけましだと思うべきなのだ。
「敵国の国核が生きているだけでもとんでもないくらい大きな温情だ。本来なら殺されているべきなのだから。それはセキエも分かっていることだろう?」
 優しく、セキエに語りかける。
 叱りたいわけではないのだ。むしろその思いをありがたいとすら思う。だからこそなおさら、クオンのために心を砕いて欲しくない。
「理解しております。ですが」
 ですがと続けながら、雫を零していた瞳は鋭さを増す。
 ここにいない男を睨み付け、殺したいと願っている色を宿していた。
(優しい子だけれど、情の怖い子だ)
 誰かを守るためであるのならば刃になれ。それは父が口にしていたことだ。その志をセキエは受け継いでいるのだ。
 まさに一つの刃としてクオンのために切っ先を定めようとしている。だがクオンはそれを望んでいない。
「セキエ。これ以上望んではいけない。私はもう十分なのだから」
「こんなところに閉じ込められていることがですか?本当に、恐ろしいことは何もされていないのですか?」
 止めるクオンに、セキエは再び不安そうに尋ねてくる。
「何もされていないよ。ここにいることだけが制限されている。他には何の強制もされていない」
 クオンも違和感を覚えるほどに、ラルは自由にさせてくれている。
 むしろ何も要求しないクオンに対して、何か欲しいものはないのかと期待してくるほどだ。
 セキエはその証拠を探すようにして部屋を見渡した。
 するとテーブルの上に何かを見付けたようだった。
「兄様…あの本は」
 なんとなく本棚から出して、そのままにして置いた絵本が気になったらしい。
 鮮やかで可愛らしい表紙の本は確かにこの部屋では浮いており、目立っている。
「絵本だなんて、懐かしい」
 セキエがふんわりと目元を緩めた。
 そういえばセキエはあの話を読んで欲しいとよくせがんできた。
「ケイガとエルベリルでは少し文字が違うので、勉強のために読んでいたんだ」
「そうなのですか」
 セキエは意外そうな声を上げる。
 実のところクオンもここに来て、本を開いた時に初めて知ったことだった。
 通常エルベリルとの文書のやりとりはケイガの言語と全く同じものだったのだ。けれどエルベリル国内ではその言語の使用は公の文書や、重要な書物の類に使われるものであまり日常では使われない物のようだった。
 話し言葉ではケイガと大差がないのに、文字では異なるなんて不思議なものだった。
「読んでいるとなんとなくは掴めるが」
 クオンはセキエを離して、絵本へと手を伸ばした。
「昔兄様がよく寝る前に読んで下さった話ですね」
 セキエもその絵本を覚えているらしい。
 飽きるほど繰り返したのできっと記憶の中に刻まれているのだろう。
「ケイガとは内容が違うんだ。最初読んだ時は驚いた」
「本当ですか?」
 セキエは大きな瞳をぱちりと瞬き興味深そうに絵本を見た。
「こちらでは大団円だよ」
 元は悲しい結末になる絵本なのだが、エルベリルではその最後の部分が大きく変えられていた。
 ハッピーエンドの最後のイラストをまじまじと眺めては、すごい変化だと驚嘆したほどだ。
「兄様、聞かせて下さいませ」
 セキエはゆっくりと小首を傾げてねだってくる。
 それは幼かった面影を如実に映しており、クオンは目の前の妹が急に懐かしく感じた。
 気が付くとネフィがテーブルの上にお菓子とお茶を用意しており、目が合うと柔和な微笑みを向けられた。
 なだらかで穏和な雰囲気。クオンはいつもこれに包まれているのだ。
 その中にセキエがいるという特別な現実を噛み締めながら、クオンは傍らの席に座るようにセキエを促した。



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