三章   4




 ぽとりとまたセキエの涙が落ちる。
 昔は泣き虫だった妹は、いつしか涙を見せなくなった。
 きっと隠れてどこかで泣いているのだろうと思っていたけれど、いつからこの子は我慢を覚えたのだろう。
 そしてその我慢を壊してしまうほどの不安を、クオンはどれだけセキエに与えたことだろう。
「何度も何度も手紙をお送りしようと思いました。けれど、どれも叶わず」
 それはラルが止めたのだろう。
 ケイガの物は何一つ届けはしない。そんな気がしていた。
「お会いしたくて、兄様が生きていることを確かめたくて」
「だから来たのだね」
 敵国にまで自らやってくるなんて。かなり危険なことだ。
 ましてまだ若い女性。恐ろしさは山ほどあっただろう。
 だがセキエはやってきた。何よりクオンに会いたいという一心で。
 その強さにどう応じれば良いのか。そもそも応じられるというのか。
「随分止められました。けれどじっとしていられなかったのです。それに」
 セキエは深く息を吸い込んだ。
 震える吐息で、けれどはっきりとセキエはクオンを見つめる。
「今ケイガを背負うべきであるのは、私です」
 クオンがエルベリルにいる以上、最も国核に近い人間はセキエだ。国の責任を負える立場にあるのもまた同じ。
 自分が肩から下ろしてしまったものを妹が担うことになる。その残酷な事実にクオンは胃の中が煮えるような思いだった。
 どこまでも己が呪わしい。
「無論皆が助けてくれています」
 セキエは兄の気持ちに気が付いたのか、慌てるようにそう付け足した。
 その言葉に倣うようにしてクオンはセキエの後ろへと視線を向けた。
 クオンが自らの血を媒体として力を分け与えた者。黄色の柔らかな髪をした男がサルファ。赤髪で頑丈な体つきをしている男がルック。どちらも子どもの頃から付き合いのある、気心の知れた相手だ。
 そして血杯の横に並んでいるフリンツは先生としてクオンに様々なことを教えてくれた、父の親友だ。
 彼らならばセキエを助けて、支えてくれることだろう。
 軽く目線で感謝を表すとサルファが力強く頷いた。そして何かを耐えるような表情を見せる。
 世話焼きで人の良いサルファは、クオンがエルベリルに捕らわれていることに心を痛めているのかも知れない。
 それは傍らのルックも、フリンツにも見えることだ。
(私もこの人たちに支えられていた)
 国核として一人でいたわけではない。様々な人に助けられていたのだ。それを忘れたことはない。
 けれどそれらを斬り捨てるように、ケイガから離れた場所にいる。
「では条約を結ぼうか」
 ラルの不機嫌そうな声が降ってくる。
 いいからさっさと先に進みたいのだという苛立ちが含まれているようだった。
 この光景が気に入らないのかも知れない。
「性急過ぎますな」
 フリンツがケイガを急かすラルにちくりと皮肉を口にした。
 親子ほども年が離れているフリンツから見れば、ラルの苛立ちなど可愛げのあるものかも知れない。
 だが年の差がどれほどあろうとも、国核と人間とでは明らかに立場が違う。それでも口を挟んだということは、度胸のある証拠だ。
「時間は有限なんだ。君たちの傲慢過ぎる願いを叶えたんだから、さっさとサインして貰いたいね」
 ラルはテーブルに置かれていた紙を指さした。
 尊大な態度に血杯の二人が顔をしかめる。
「そう事を急くと思わぬ失敗に出くわすかも知れませぬ」
 ラルを見てフリンツは堂々とした態度を崩さない。
 それにエルベリル側の人間たちが大きくざわついた。それは憤りというより驚きのようだった。
 ラルにそんな苦言を呈す者がいることは驚愕に値するらしい。
 そのざわつきにクオンは初めて周囲を見渡したが、思っていたよりずっと人の数が少ない。どうやら非公開に近い場らしい。
「老い先短い己の命を縮めずとも良いだろうにな」
 ラルは組んでいた腕をほどいた。その腰には刃がぶら下がっている。柄に手をかけられるとフリンツを守るすべがない。
 セキエがクオンの腕の中で硬直する。震え出さないだけでも気丈であると言えるほどの威圧感が漂い始めた。
「確かに性急過ぎでしょう。食事でもされればいかがですか」
 意外にもラルを制したのはジェダだった。
 無表情なまま、食事の提案までしてくる。
「ジェダ……」
 何を言うのかと不満げなラルに、今度はネフィが口を開いた。
「クオン様のお食事もまだでしたので」
 食事をしようと思った矢先にラルが来たのだ。ネフィは準備していたようだったが、それらを全て放り出してきている。
 別段腹が空いているわけではなかったのだが、ラルはその言葉に威圧感を解いた。
「……仕方がない。クオンはどこで食べたい?ここ?」
 ラルは溜息をついて訊いてくる。まさか食事会になるとは思っていなかったのだが、セキエたちとまだ一緒にいられると思うと、首を縦に振っていた。



 食事の席に着いたのはケイガの四人とラルとクオン。その他の人間は座ることなく部屋の隅に控えては雑事をこなすだけだ。
 実に奇妙な空間だった。
 食事会というならばエルベリル側の人間がもっと多く座り、これから国をどう動かして行くのかということについて話し合うべきだろうに。ラルしかいない。
 他のエルベリルの人間もいることはいるのだが、食事に参加することは許されていないようで、離れた場所で座っている。
 一体どういうことなのか。
 これがエルベリルでは普通なのだろうか。
 ケイガでは有り得ないような状況だった。
 その戸惑いは同じくケイガの民であるセキエたちからも伝わってくる。
 しかし問いかけられるようなことであるのかどうかすら分からず、ただ困惑を浮かべるだけだ。
 食事が運ばれてくるのだが、自室であるのならネフィがすることもさすがにここでは別の者が行っていた。
 ネフィとジェダはラルの近くに立っている。そうして並んでいると血杯を受けた双璧なのだと感じられた。他の人間とは気配が異なる。
(もう一人いたはずだが)
 この部屋に入る前、ドアの近くに立っていた男も血杯を受けているはずだが、この場にはいない。ラルが退けたのだろうか。
 ラルの横にクオン。向かい側に四人が座るという形で食事は進められるのだが、セキエの問いかけに答えるのはラルばかりだった。
 クオンの事を訊いているはずなのだが、本人よりも先に喋るのだ。
 今どこにいるのか、どうしているのか、怪我の具合はどうなのか、こちらと連絡を取る術はあるのか。どれもクオンが一声も上げずに会話が終了されていく。
 次第にセキエの表情は険しくなり、ラルを睨み付ける素振りまで見せ始める。けれどラルはそれに微笑んでいた。
 人の憤りが愉快であると面白がっているかのようだ。
「私は兄様と話がしたいのですが。エルベリル」
 黙っていてくれないかと暗に言うセキエにラルはにっこりと笑みを深くした。
「図々しいよ。誰のものだと思ってるんだい?」
 その発言に空間がひび割れるのを感じた。
 クオンは自分のものである。気安く話しかけるなと言わんばかりの言葉にセキエが凍り付く。
 だが先に怒りを露わにしたのはルックだった。
「それはどういう意味でしょうか」
 地を這うような声だ。今すぐテーブルの端を掴んで引きずり倒し、ラルに飛びかかるのではないかと思うほどの激怒がそこにはあった。
 他の人間たちまで一気に緊張感が走る。
 ここで殺し合いなど不毛極まりない。そもそもケイガの者は礼儀を気にする。ラルの態度はおそらく初めから癇に障っていたことだろう。
 クオンはこの場を納める術を思案しながら、ふつりと皿の上にある物にフォークを突き刺した。
「ぁ……」
 セキエの微かな声に気が付いた時には、フォークで突き刺した物は口の中に入っていた。
 口内に広がる強い匂い。
 噛み締めると一層それは濃くなり、苦みが舌に染み込む。
(……美味しくないな。何度食べても慣れない)
 料理の添え物として出てくることの多い香草を、クオンは苦手としていた。
 食べ物というより匂う物だという意識になるのだ。
 なので自国にいる際にはこの草を口にすることはなかった。それをセキエは知っているから、驚きの声を零したのだろう。
 そしてどうやらその驚きはケイガの民たち四人全員が感じたものらしい。一斉に視線を浴びてしまった。
 クオンの香草嫌いは、本人の知らぬところで有名になってしまっていたらしい。
 食べるのですか?と気遣ってくる視線に包まれ、クオンは片手を軽く上げて気にするなという意思表示をした。
 すると途端に四人の視線がそれぞれ沈む。
 ここがケイガではないこと。またクオンが自分のことを話すような場所ではないことを痛烈に実感してしまったのかも知れない。
「何……?」
 一人この状況が読めないらしいラルは先ほどまでの笑顔を消し、すごみのある眼差しで四人を眺めた。
 けれど答える者など一人もいない。
「何も」
 沈黙を守る四人に代わり、クオンが短く返事をした。
 苦手なものを食べたというだけのことに、空気を変えてしまったケイガに問題があるのだ。
 この程度のこと、動揺するようなものではないだろうに。
 苦みを飲み込みながらクオンは溜息を押し殺す。
 ラルは何か言いたげにしているが、尖った双眸のまま食事を再開させた。
 どこか重苦しい雰囲気が流れ、セキエがフォークとナイフを皿の上に置いた。
「エルベリル。どうか兄との時間を下さい」
 衆目がある場ではどうしても会話が限られる。本来談話が出来るはずの食事の時間ですらこのありさまだ。
 だがセキエはそれで納得など出来ないのだろう。
 クオンとちゃんと話す時間が欲しいのだとラルに訴える。
「却下」
「お願いします」
 無下に断るラルに、セキエは頭を下げた。
 ずっと憎悪を込めた眼差しで見つめていた相手に懇願するなど、屈辱に違いないだろうに。それを押してまでもクオンとの時間が欲しいのだ。
(セキエ……)
 自分を慕って矜持を折る様に、クオンは到底じっとしてはいられなかった。
「エルベリル。私からもお願いします」
 セキエだけでなくクオンもまた、我慢出来ずに願い出た。けれどラルはクオンを見もしない。
 機嫌が悪くとも、視線くらいは向けてくるのではないのか。そう違和感を覚えたクオンは一つのことを思い出した。
 ラルと呼ばれることに酷くこだわったことを。
(ここは人目があるだろうに)
 エルベリルの者がいる中で、それでもラルと呼び捨てにしろというのだろうか。それはエルベリルに民にとっては面白くないことだろうに。ラルは民たちの心境を省みることはないのか。
「……ラル」
 短く、けれど切実な思いを込めて呼ぶ。
 周囲が息を呑むのが空気越しに伝わってきた。
 本来ならば国核の名を呼び捨てにするなど、許されないことなのだ。それをクオンは行っている。
 そして当のラルは、それにようやく瞳を向けてくれた。
「……君がそうしたいのなら、少しだけ時間を作ることは出来る」
 渋々ラルはそう言った。
 クオンが言うのであれば、という条件に人々の間に戸惑いが広がっていった。
 平然としているのはラルとジェダ、ネフィだけだ。あの部屋での暮らしを知っている者たちだけ。
 セキエは唇を噛み、当惑している様でクオンを見てくる。けれどそれを見つめ返すことは出来なかった。
「ありがとうございます」
 俯き恩赦に礼を告げる。
 戦前までは対等であったはずの二人の間に、高い差が出来たことがきっとセキエたちの目にもはっきり映っただろう。
 しかし恥だというにはあまりにクオンはそれを受け容れてしまっている。
(私は裏切り者、なのだろう)
 罵られても構わない。そう思うのだが、セキエの唇からそれが聞こえることはおそらくないのだ。



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