三章   3




 ドアを開けて入ってきたラルは、とても苛立っているように見えた。
 そんな様でこの部屋に入ってきたことは今までにない。
 ましてその見に纏っているのは白を基調とした軍服だ。
 公の場で着ることを目的とされた、改まった服装はラルが重要な事柄に取り組んでいることを示している。
 一体何事か。
 昼食の準備をしていたネフィまで手を止めている。
 それだけ異様な光景だったのだ。
 いつも背後に控えているジェダの姿もない。
「妹が君に会いたいと言っている」
 唐突なことだった。
 クオンに妹はたった一人しかいない。
 今は遠いケイガに、きっと自分を心配してくれているだろう小さな妹。
 戦に行く前に会った際の顔が思い出される。
「セキエ、が……」
 どうしてそんなことをラルが言うのだろうか。
 会いたいと言っているなんて、まるで近くまで来ているのだと言うような素振りだ。
(ケイガが、来ているのか)
 近々ケイガがこの国に来るらしいということは今朝も聞いた。だがまさか今日だったなんて。
 頭の奥で形にならない衝動が生まれてくる。だがそれを表に出すことは出来なかった。
 ラルがそれを望まないだろうから。
 そして同時に一度自分を抑えつけることを止めてしまえば、二度と同じ檻に戻れないような気がしたのだ。
「ここに来ている。おまけを連れてね」
 ラルは腕を組み、クオンを見下ろした。
 おまけとは従者のことだろうか。
 セキエをここに連れてこられるだけの力がある者。クオンの血杯を受けた二人のどちらか、もしくは両方か。
 そして外交に関して必ず相談を持ちかけていた、フリンツを連れてくる。父の代から勤めてくれていた彼なら腹も据わっている。
 老獪さはまだ若輩者であるクオンにも学ぶべきところは多い。
 そう、かつての己の位置を思い出してはケイガの使者を想像した。
「来る?」
 ラルは気が乗らないように誘った。
 断ってくれても全く構わない。そんな態度をとられるけれど、クオンはそれを拒むはずがなかった。



 どれほどあそこは切り離されたものになったと思っても、自分は生きている恥なのだ、会わせる顔もあるはずがないと思っていても。
 妹がここに来ていると言われれば、会わずにはいられなかった。
 公然の場でなく、密やかな場で会わせるとは言われたが、いくら何でも部屋着で面会するわけにはいかない。
 ネフィは部屋のクローゼットから簡略的な軍服を取り出してきた。
 それはラルが着ている物とよく似ている。
 エルベリルの服だ。
 とっさに眉を寄せてしまった。
 エルベリルの軍服を纏うケイガの国核を、妹たちはどう思うだろうか。殺したいほどの屈辱だとは思わないだろうか。
 国核は国そのもの。その国核がエルベリルを纏うなんて。
 しかし拒絶出来るだけの権利もクオンは持っていない。
 唇を噛むと、ラルがネフィに「別のでいいよ」と軽く言った。
「まだ条約結び終わってないし。向こうで殺し合いが始まると面倒だ」
 無駄に刺激するな、とラルはネフィに指示をする。
 助けられたと思いたいところだが、条文を結び終わった後ならクオンはこの軍服を着ることになるのだろう。
 ネフィは白いシャツと上着を取り出してくれる。
 エルベリルを表す模様は一つもないが。それでも作りが丁寧でかなり高価であることは、光の加減によって浮かび上がる繊細な模様から分かる。
 出されたものを黙って纏い、ラルを振り返る。
 良いのかとは訊かない。良いと思ったからこそ、ラルはクオンを呼びに来たのだろう。
 でなければケイガの者がここにいるなんて、ラルは一言も漏らしはしないはずだ。
 ラルが黙っていれば、クオンは永遠にケイガのことをついて知る術がない。
「少し人目に晒されるけど。まぁ気にしないで」
 さもどうでも良いことのようにラルは言う。
 歩き出したその背中に付いていく。背後からネフィも従ってくるのが分かる。
 クオンが行くのだから、ネフィも自然と来ることになるのだ。
 ちらりと見るとネフィはいつの間にか軍服の上着を羽織っていた。部屋の片隅にかけられているのはよく見かけるのだが、ネフィが実際にそれを着ているところは初めて見た。
 そうするとネフィもまた軍人であるのだろうと感じさせられる。
 僅かだが目つきが変わるのだ。柔和な表情も、柔らかな物腰もそのままだというのに、印象が変化してしまう。
(ネフィもまた、自分を隠して暮らしている)
 知られたくないものを潜めて、静かに爪を研いでいる。
 開かれたドアを開けて、クオンは廊下に出る。
 ここに来てから初めて部屋の外を見た。だからといって逃げ出すつもりもない。
 もし逃げたとすれば、妹たちは皆殺しにされるだけだ。
 廊下を通り、ラルの部屋に入る。クオンの部屋に似ていたけれど、中は雑多な雰囲気がある。机の上に山積みになっている本と書類のせいか、脱いだままにされている上着が椅子にかけられているせいか。
 ネフィがいたなら確実に片付けられているだろうと思われるものが幾つかある。
「気になるなら後日僕の部屋に招待しようか?」
 周囲を見回していたことに気が付いたのだろう。ラルが少し面白そうに言った。けれどその返事をする前に、ラルは部屋からも出ていく。
 その手には鍵の束。
 クオンの部屋からラルの部屋を出るまでに幾つものドアを抜けなければならなかった。
 どれほど厳重であるのか。
 ようやくエルベリルの城内部と思われる廊下に出る。ケイガと違い、内部の壁には装飾がほどこされていた。絵画も無造作にかけられている。
 ケイガではあまり城を飾るということはしない。
 華美である装飾は醜悪であるという意識の元に、あまり飾り立てるということをしないのだ。けれどエルベリルは着飾ったものが好きらしい。
 螢石が置かれている灯台も、大変凝った造りになっていた。虎の口を模している物、一つ目蛇を模している物、月を抱く鳥を模している物もある。
 何もかもを、ケイガと比較してしまう。
 そして本当にこの先に妹がいるのだろうかと疑う自分がいた。
 全く現実味がないのだ。
 エルベリルに囲われてから、クオンには現というものが酷く曖昧なものになり始めていた。
 だが廊下を歩き続けるとやや広い場所にたどり着き、廊下が幾つ枝分かれになり始めた。ラルは当然迷うこともなく突き進み、その度に擦れ違う人が増えてきた。
 誰もがクオンを驚いたように見つめてくる。
 そして「あれがケイガの」と呟くのだ。
 本当にエルベリルの元にいたのか、生きていたのか、そう信じられない様子で口にしている声も聞こえる。
 真っ当な感想だと、心のどこかで思っていた。
(私とて信じられない。ケイガを生かしているなんて。まして自分の元に置くなんて)
 だがそれをしているのはおまえたちの国核だと、冷淡な言葉も浮かんでいた。
 周囲に関心などあるはずもなく、クオンはただラルの背中ばかり見つめていた。そして一つの扉の前でラルはぴたりと足を留めた。
 ドアの近くには赤髪の男が立っている。
 戦場で見た者だ。確かラルの血杯を受けた男。荒れ狂う剣の使い手で随分手強かった。
 その男はクオンを射殺そうとするような眼差しで睨み付けてくる。明確な殺意を感じるのだが、クオンはその男を直視しなかった。
 そんな視線には慣れている。
 むしろドアの向こうにいる者の方がずっと気になった。
(あの子は、今も変わらずにいるだろうか)
 自分のことを恨んではいないか。いや、恨んでいたとしても構わない。ただ辛い目に遭っていないか。それだけが心配なのだ。
(自分のせいだというのに)
 何もかも、ケイガが苦しい立場にいるのは全て自分のせいだというのに、そんなことを考える己に吐き気がする。
 ラルは何の遠慮もなくドアを開けた。
 そして身体を滑り込ませた後はクオンを促すようにして身体を脇に退いた。
 ドアから正面に見える位置に、彼女は立っていた。
 黒を主としたケイガの正装を身に纏い。両脇にクオンの血杯を二人従えている。
 そしてその血杯の横にはやはり年配の男、フリンツが控えていた。
 セキエはクオンに気が付くとその双眸を大きく開いた。唇はわななき、けれど声は聞こえてこない。
 強張った身体は操り人形のように、ぎこちない一歩を踏み出した。
 だが操る先もない糸はふつりと切れ、弾けるようにセキエは駆け出した。
 真っ直ぐ向かってくる身体を、クオンは抱き包む。
 華奢な身体。
 子どもの頃から病気がちで、寝込むたびに泣きながらクオンにすがった妹。
 いつだってクオンの後ろから付いて歩き、離れるのを嫌がった。クオンが国核になってからはクオンを助けるためだと勉学に励んで、戦に出る時には見ているこちらが辛くなるほど必死に無事を祈ってくれた。
 重ねてきた年月が抱き締めたセキエから伝わってくる。
 家族は二人だけになってしまった。
 それなのに、クオンはセキエの側にいることも出来ず。こんなところで国の重しになって無様に生きている。
「に……様。にぃ様」
 セキエは顔を上げてはクオンを呼ぶ。けれど上擦った声はちゃんと聞こえてこない。
 ただ溢れ出る涙が精一杯クオンを呼んでいた。何度も何度もクオンを確かめていた。
 それほど懸命に会いたいと願ってくれていたのだ。
「セキエ」
「兄様、兄様…っ!」
 長く伸びた髪を撫でると、海色の瞳から大粒の涙が零れる。
 セキエの瞳はクオンより深い色をしている。それは母のものとそっくりだった。
 優しく儚い母の面影を、妹はしっかりと受け継いでいた。
 それを思うたびに自分がセキエをちゃんと守るのだと決めた心が蘇る。
 その気持ちに偽りなどなかったはずなのに、貫くことが出来ない。
「生きて、生きておられた」
 背中に回された腕に力が込められ、セキエはクオンの存在を確かめる。
 生きているだけでもはや十分である、もう望むことはないとすら言い出しかねない様子だ。
(……私は、生きているだけだ)
 ただ浅ましく生きているというだけしかない。
 けれどそれを口にすればセキエが激しく泣きだしてしまいそうで、怖くて言うことは出来なかった。
 これ以上苦しめることはしたくない。
「苦しくはありませんか?非道なことはされておりませんか?」
 切実な問いかけにクオンは首を振る。
 セキエの不安は強く伝わってくるけれど、その恐ろしさのどれもクオンには当てはまらないのだ。
「ああ、御髪がなくなってしまわれて……」
 短くなったクオンの髪に手を伸ばしてはセキエが苦しげな表情を浮かべる。
 国核の血族が髪を伸ばす理由を思い出してはクオンの身を案じてくれているのだろう。
「ずっと長くていらしたのに。きっと代わりに落ちてしまったのですね」
 そうではない。
 決してそうではないのだ。
 この髪はたださした意味もなく切られただけだ。ただの暇潰しの結果のようなもの。
 ケイガにいた時のような意味など、一つも残っていない。
(私は、随分遠くにいるのだよ)
 ケイガの中では当たり前のように流れていた価値観とは異なる世界にいる。
 けれど、分かりながらも唇を噛んでセキエを包み込む。
 戻れないと痛感しながらも、恋しい子を離せなかった。



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