三章   2




  賓客を迎える間で、ラルは扉から真っ直ぐ伸びた場所に立っていた。
 玉座などが置いてある間に迎え入れるのがおそらくエルベリルとしての正しい対処なのだろう。けれどラルはその玉座に座ることがほとんどない。
 かつて座ったのは国核を継承した時と、父の葬儀の際だけだ。
 玉座から見下ろす光景は酷く馬鹿げていて、そんな場に座っている自分もまた酷く愚かに思えた。
 あそこからでは人の顔が見えない。
 恭しく跪いたその手の中に剣が握られていても分からないのだ。
 ならば高みにいるのではなく、対面に向かい合っているほうがずっと良い。危険も回避出来る。
 そもそもわざわざ高い位置に座っておらずとも、国核が尊いものであることは明白なのだ。
 視覚に訴えるような光景を作るまでもない。
 悠然と立ったまま、来賓を待っている。同じく来賓を待っている部下たちは扉の方を気にしているようだった。
 元々今回の戦に関しての条約を交わすための場だ。
 敗戦国であるケイガとはそれまでも条件の提示をし続けてきたのだが、改まった形での条件の締約を今回行うことになった。
 エルベリルから提示されている条件の甘さにケイガも随分怪訝に思い警戒をしているようだったが、それも条文を結ぶまでだろう。
 一度決定された条件は簡単に崩すわけにはいかない。
 国の威信に関わるものだ。
 容易に条約を反故にする国と、誰が協力関係を結びたいだろうか。
 敵国ばかり作る結果になるようなことは避けるのが当然だ。
 どこも独立国家のような形を取ってはいるのだが、他国と関わりなく生きていくことは不可能だった。
 所詮己の国にないものは他国に求める。
 だからといって侵略行為などという危険性が高い行為に出ることは憚られるものだ。
 本来であるのならば。
 その危険極まりないことを自我のためだけにやってのけた国核は泰然としていた。
 不意に扉が開かれ、案内役のエルベリルの使者に続くようにして姿を現したケイガの者を見てその笑みを消した。
 国核の次に権力と名誉を保持していると思われる者が真っ直ぐラルを見据えた。
 挑みかかるような視線だ。
 まだ二十ほどの華奢な女。
 透き通るような青い瞳に真っ直ぐ背中の中程まで伸びた黒髪。
 繊細な造形をしている容貌だが、そこに浮かんでいる表情はまるで刃のようだった。
(よく似てる)
 クオンに、よく似ている。
 凛然としたその姿勢、清廉を滲ませる空気を纏い、揺るぎを知らぬその様。
 彼と同じ血液がその身体の下に確かに流れているのだと感じさせる。
 クオンの妹。残された唯一の肉親だ。
 最愛の妹と言われており、兄妹の仲は大変良かったらしい。
 クオンがエルベリルに来てからケイガのことを気にする際、最も大きなことは妹だった。
 とても心砕いている様子に、どす黒い憤怒を抱いた。
 たとえ妹とはいえ、クオンが誰かに捕らわれているということが許せなかった。
 見たこともない妹に憎悪に似たものすら持ったものだ。
 けれど目の前にするとそれが薄らいでいくのが分かる。
(見た目が似ているというだけで怒りが弱くなるとは)
 我ながら笑ってしまう。
 クオンの見た目に惹かれたわけでもないだろうに。それほどあの命が恋しいのか。
 真ん中にクオンの妹を挟み、左右に男が二人。そちらはすでに戦場でも見たことのある者だった。
 クオンの血杯を受け取り、国核の腕として働いている者だ。
 右側にいる赤みが強い茶色の短い髪をした男がルック、反対側にいる黄色の髪をした男がサルファだ。
 クオンとは年がごく近いらしく、幼馴染みとして育ちその流れで血杯を受けたと聞いている。
 戦場では血杯を受けた者の力を存分に発揮し、エルベリルの兵を幾人も斬り捨てた。それはこちらも同じことだったが。
 ケイガの国核から血杯を受けた者は三人。最後の一人はやはり妹だ。
(血杯が三人揃ったな)
 そしてその血杯の後ろに控えるように年配の男が一人立っていた。
 戦場ではちらりとしか見たことのない男。四十を過ぎた頃に見えるその男は戦前の交渉時に見た覚えがある。
 おそらく先代の国核から仕えていた者だろう。
 名前までは覚えていない。
「ケイガから参りました。セキエで御座います」
 セキエは感情を押し殺すようにして名乗った。頭を下げてはいるけれど、本意でないことは全身から伝わってくる。
 無理もないだろう。
 国を蹂躙し、大切な兄を手元に監禁している相手を敬う気などあるはずがない。
(自分を殺そうと必死になっているところもよく似てる)
 クオンもよくこんな態度を見せるのだ。
 ただセキエの方がずっと感情が溢れていた。
 どれだけ綺麗に抑えようとしても無理が滲む。
 クオンはその点上手く隠していた。それがラルにとっては気に入らないのだが。
「こちらにおりますのは」
「知ってるよ。戦場で会っている」
 従者の説明をしようとしたのだろうが、ラルはそれを先に止めた。
 知っている者である。それに詳しいことなど知る必要もない。
 同時にラルは自分の近くに控えている者の紹介をする気もなかった。
「よく来たね。もう知っていると思うけど、僕がエルベリルの国核だ」
 知らぬはずはないだろう。殺したいほど恨み、憎んでいる相手なのだ。
 案の定セキエは大気がきしむような視線を向けてくる。
 気の強い娘なのだろう。
「それでは条約の内容について話し合おうか」
 無駄な話は一つもいらない。
 ラルは世間話をこの娘とする気はないのだ。ただケイガとの条約を固めてしまえば良い。
(ま、見てみたかったっていうのはあるけど)
 クオンの妹はどんな者であるのかこの目に映してはおきたかった。
 似ているかどうか。似ていたとしてもさして関心はないけれど、見ていないよりかは彼に対する情報が増える。
「その前に、ケイガの国核は本当にこちらにいるのでしょうか」
 セキエが挑みかかるような声でそう尋ねた。
 剣を持ち、闘いに赴く戦士を彷彿とさせる。
 見た目は非力でか細い女性だというのに、そう思わせる怒りと気丈さがあるのだ。
「息災にしておられる」
 セキエに対しては一切敬語は使わない。けれどクオンに対しては言葉を改めた。
 国核という生き物は人の上にいる。
 たとえ相手が誰であろうとも、同じ国核同士でなければ敬う態度など持たなくても良いのだ。
(クオンはそんな考え方じゃなかったみたいだけど)
 彼は相手が国核でなかった場合でも、ちゃんと丁寧な態度で接していた。きっと性分なのだろう。
 堅苦しいと思うけれど、そうしている彼に対しては微笑ましいと感じる。
「会わせて頂きたい」
 女性だというのにセキエは飾った言い方をしない。
 単刀直入に、自分の願いを突き付けている。
 下手に遠回しなやり方をされたり、綺麗な言葉を無駄に付けられたりするのは好きではない。なのでその口調に関しては問題はなかった。
 けれど言われた内容に対しては不快感しか覚えない。
「断る」
「会わせて頂けないのではあれば、私たちはどんな条約も結ぶわけにはいきません」
 セキエの言葉に対して、エルベリル側の人間はざわついた。
 思ってもみなかった台詞だからだ。
 ケイガは敗戦国。ここでどんな不条理な条件を出されたとしても、最終的には飲み込まなければならない立場にいるのだ。それなのに自分たちの要求を突き付けるなど、無礼にもほどがあった。
 ラルの近くで控えている人々が嘲笑と憤りを滲ませ始めたのを肌で受け取りながら、国核はじっとセキエを見つめ返した。
 身体どころか命をさらけ出している。
 それだけの覚悟がセキエに見えた。
(無礼だと叱責されることはおろか、斬り捨てられることも覚悟か?)
 それは従者たちも同じであるようだった。
 ぎりぎりと張り詰めていく糸を幾重にも引きながら、ケイガの者はラルの声を待っている。
「おまえたちは自分の立場をわきまえているか?こちらはおまえたちの要求など一つたりとも飲む義務はないぞ」
「分かっております。その上での願いです」
 願いだと言いながら、セキエは懇願するような素振りがない。頑なに刃のような眼差しをぶつけてくる。
 それがラルには心地良かった。
 彼の血を感じさせる者が無様なものを見せてはいけないのだ。
「あまり我が儘が過ぎると、ここでおまえを殺して国を潰してしまうことになるが?」
 ラルは口角を上げて嘲るように伝えた。
 嗜虐的な笑みが見えないはずはないだろうに、セキエは怯えない。それどころか胸を張るような堂々とした態度を表した。
「ここで殺せば外聞も悪いでしょう。一度提示した条文を容易に破る、何の信用も出来ない国だと思われることかと思いますが」
 エルベリルが見るべきはケイガだけではないのだと、冷静に聞こえるような言葉を選ぶ。
 自分たちの全てを盾にして、ケイガの本質を再びその目にしたいと切望している。
(クオンはケイガの神か)
 国核に対して信仰に酷似した敬意を見せるケイガの民たち。それはただひたすらに疎ましいものだ。
 意地でも見せたくないという気持ちと、もし妹を目の前にすればクオンはどうするだろうかという純粋な好奇心があった。
「会ってどうする。初めから言っていたと思うが、ケイガを元に帰すつもりは毛頭ないが」
 ケイガからは何度もクオンを帰してくれと言われている。だがそれらを全て却下してきた。
 彼がここにいなければ、自分の元にいないのであれば、あんな戦など意味がなかったのだ。
 この世にあるありとあらゆる物はみんな価値を失う。
 ラルにとってクオンとは唯一無二の、絶対的な価値観だった。
 けれどそんなことはケイガの民たちが知るはずもないことだ。
 知っているのはきっとジェダとネフィだけ。
「お会いしてご無事であることをこの目で確認致します」
 セキエは一歩も引かない。自分の後ろには絶壁しかないのだと信じ切っているような、覚悟だ。
「もしも御身が苦境にのみあり、今すぐにでも解放されたいと願うような状態であったのならば」
「ならば?」
 敵国に捕らえられた国核の扱いが真っ当であるはずがない。拷問を受けているのではないか、幽閉されているのではないか。なぶり殺しにされる途中ではないのか。
 そんな恐ろしさにケイガは浸っているのだろう。
 エルベリルは丁重に扱っている。決して非道な対処はしていないと言っているのだが一向に信用しない。
 その気持ちは当然である。
 自分たちを脅かしてきた主格である国核だ。首をはねるのが自然である相手をいちいち大切に扱うことの方がおかしいのだ。
「兄様のためにケイガという国を滅ぼしましょう」
 セキエの発言に、さすがのラルも驚いた。
 エルベリル側の人間が息を呑む気配が広がり、微かなざわつきが生まれる。
 国核のために国を滅ぼす。それは真逆であるはずの発想だ。
「…国核を苦しめる国はいらないと?」
 ラルはそう問いかけ、再び笑みを浮かべる。
(これは面白い。君の妹は随分強いじゃないか)
 ここにいない人を思っては、心が動き出す。
 もしかするとこの妹はクオンよりも強固な意志をその小さな身体に宿しているのではないだろうか。
「国核は国そのものだろう?国のために身を捧げ、国のためにあらゆる苦しみに耐えるのが国核のすべきことなのではないのか?」
 白々しいことをラルは面白がって口にした。
 国核の在り方を語ってはいるけれど、自身に対してこんな責任を感じたことはない。
 むしろ国核だからといって国に縛られるなど冗談ではないと鼻で笑っている。
 きっと側近どもは心の中でおまえが言うのかと呆れていることだろう。
「兄様はもう十分過ぎるほど耐えました」
 初めて、ここに来てセキエの表情が変化した。
 泣き出しそうな、切なげな瞳をする。
 ただ兄に対しての気持ちを告げている時だけ、セキエは妹としての素直な心を開くのか。
(……仲が良いとは聞いていたけれど。クオンが妹を可愛がっていたのも察していたけれど)
 妹も兄を相当慕っているらしい。
 確か親との絆も深いと聞いている。死ぬまで家族の間柄は極めて良好だったと。
 エルベリルとは大きく違う血筋だ。
「そもそも、ここに国核がいる時点でケイガは半ば死んだも同然」
 深く息を吐いたかと思うと、セキエは再びケイガの民の顔を作ってはラルを見た。
 国核としてケイガのことを考えている時のクオンもそんな様だった。
「ケイガの国核に、兄様に会わせて下さい」
 静かな声音だ。
 だが鮮烈に響く、不可思議な声だった。
 クオンの喉から聞こえてくる音もそうだ。みんな特別に届いてくる。
(よく似ている)
 セキエに対してはやはりそんなことばかり思ってしまう。
 そしてようやく微かな迷いが心の端にちらついた。
 


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