三章   1




 何故か隣に人がいる。
 いや、人と言うのは正しくないのだろう。
 傍らで国核が寝ている。
 自分以外の国核がこんな近くで、無防備に眠っていることなど本来なら有り得ないことだ。
 命を取り合い、刃を向け合うのか当然とされる間柄であるはずなのに。エルベリルの柱はクオンに対してその首を晒している。
 恐ろしいとは思わないのだろうか。
 殺されるとは考えないのか。それともクオンにはそれだけの覚悟もないのだと思っているのか。
(……私は途方もなく、怖い)
 この人が何の身構えもなく自分の前にいることが。
 全ての感情を隠すこともなくぶつけてくることがとても怖い。
 それはクオンを飲み込んでしまいそうなのだ。
 立場も理性も崩して包み込まれてしまいそうだ。その時自分は正気でいられるだろうか。
 淡い月の光に照らされる肌を眺めながら、クオンは目を伏せる。
 ラルは三日に一度はこうしてクオンのベッドに入り込む。
 クオンを抱くこともあれば、抱かずにそのまま眠ることもあるのだが、朝まで出ていかないことだけは一環していた。
 クオンはそのたびに、人の気配があれば眠れないのだと訴えた。
 ラルが横にいる状態で安眠が得られるはずもない。
 だがその返答はいつも同じ。
『早く慣れて』
 笑顔で、それを要求するのはさも当然であるような顔で言うのだ。
 いくら体力が人とは比べ物にならぬほどある国核であっても、寝不足では精神も斜めに傾く。
 一人で寝たいのだと話し、時にはやや声を荒らげてもラルは頷かず。せめて慣れるまでは連日やってくるのは勘弁して欲しいという微妙な状態で譲歩された。
 今は一人で眠れる日があるのでなんとか落ち着いてはいるけれど。
 いつもこの背中を見つめると息苦しさを覚える。
(私は何をしているのだろう)
 こんなことが許されるはずもないのに。どうしてこの人は平然とクオンを抱くのだろう。
 崩壊の音が聞こえないのだろうか。
 いつかその音はクオンだけでなくラル、ケイガやエルベリルにまで響き渡るのではないだろうか。その時ラルはどうするのだろう。
 それでも当たり前のように笑っているだろうか。
(分からない……)
 ラルが何を考えているのか欠片も分からない。
 そんなことを思う夜が、今日も深まっていく。



 眩しい朝日が射し込む部屋。
 ラルは不機嫌そうにフォークを動かしていた。
 あまり朝は得意ではないらしい。
 まして真横でジェダが今日の予定を延々喋っているのだ。仕事が好きではないらしいラルは忌々しそうにトマトを口に運んでいた。
 クオンにしてみれば敵国だった国核が目の前にいるのに、自国の重大な情報を平然と喋っている二人が信じられない。
 この部屋から出ることのないクオンに聞かれても何の支障もないだろうという判断なのだろうが。危ういものは極力排除するのが当然ではないのだろうか。
 何がどうなるか分からない国の情勢。もしクオンがここから出てしまったのならと不安に思うことはないのか。
(この人にとって不安なんてものは縁がないのか)
 いつも自信にあふれ、矜持を折ることなどないだろう国核だ。きっとクオンのような恐れなど知らぬのだろう。
 そう思うと自分の小ささや、敗戦したという事実が重くのし掛かってくる。
 ラルと食事を取ると自分の嫌な部分ばかり気が付いて、憂鬱になる。
「ケイガですが。順調に向かっているそうです」
 ジェダはクオンがかつて支配していた国のことを語る。
 一週間ほど前からケイガがこちらに来るという内容はちらつかされていた。だから今更驚きはしない。
 しかしそれをクオンが聞こえる場で口にする二人の神経を疑いはした。
 クオンはケイガの国核だ。
 たとえ国におらずとも、生きている限りはケイガのために生き、ケイガのために死ぬべきである生き物なのだ。
 まるで自分の身体はケイガという国の一部であるかのように。
 それをここに切り離しておいて、なおケイガのことを聞かせるなんて。
 クオンがどう思うのか。憤怒するとは、ここから出るための気力を呼び起こすとは思わないのだろうか。
 それとも、そんなことが出来るものならやってみろと挑発しているのか。
(これは侮辱なのだろうか)
 負けた国核に矜持など持つ資格はないのだと、嘲っているのだろうか。
 それとも国を奪ってやったという優越感に浸っているのか。
 そんなうがった見方をしていたが、ふとラルの視線を感じて顔を上げると柔和な眼差しがあった。
「もっと食べた方がいいよ。クオンはどうしてそんなに食が細いんだ?」
 まるで保護者のような言葉。
 かつて親に言われたことのある台詞に、痛みを覚える。
 せめて非情な暴君であってくれれば良いのに。どうして自分に対して優しさなど向けるのか。この身体と心をどうしたいというのか。
 混乱ばかり深くなる。
「元から、そうなので」
 大食漢など、とてもではないが言えない。
 まして今はこの部屋にずっと引きこもっているような状態なので腹も空かないのだ。だから食べる量も自然と減っていく。
 ラルはそれを気にしているようだったが、仕方のないことだ。無理に食べると吐いてしまうので、それよりはまだ食べないほうがましだろう。
「ふぅん。だから身体も細いんだな」
 クオンとは正反対によく食べるラルは納得顔になった。
 そしてパンを引きちぎりながら「クオンはね」と苦笑を見せる。
「抱いていると細くてびっくりする時がある。ここから僕と同じだけの力が出てくるなんてちょっと信じられないよな」
 抱くなんて単語が人前で出され、クオンは絶句した。
 間抜けなことにぽかりと口を開けてしまう。
 ジェダとネフィがいる場でそんなことを言い出すなんて、ラルには羞恥がないのだろうか。
「な……」
 何を、と言おうとした声は上擦る。
 ネフィはクオン付きの従者になっており、クオンに関する雑事は全て請け負っている。きっと夜の間にシーツが出されていることや、ラルがここで寝ていることからも何が行われているか察しは付いているだろう。
 そしてジェダもこの部屋で寝ているラルに対して、予測はしているはずだ。
 けれど、それでもそんなことは口に出して欲しくなかった。
 クオンの血流が体内でぐるりと大きく乱れる。
 それにラルは楽しそうに微笑んだ。なんて意地の悪い様だろう。
「……後少しで食事の時間が終わりますが」
 何とも言えない空気になった二人の間に、ジェダの冷たい声が降ってくる。
 ラルの仕事の管理をしているジェダは時間にも厳しい。ラルがその辺りはだらしないらしく、きりきりと追い立てるのだ。
「食事くらいゆっくり食べさせてくれないか?」
 むっとした顔をするラルを、ジェダは表情一つ変えずに言い返した。
「ではもっと早く起きて準備なさってはいかがですか。クオン様にすら支度を急かされる様では笑い物です」
 ジェダがやってきてもラルはだらだらと渋って着替えもろくにしなかったので、今朝はネフィだけでなくクオンまでラルの支度を促したのだ。
 自国でいるなら到底そんなことをするような立場ではなかったのだが、目の前で子どものように渋っているラルを見るとつい口を出してしまった。
「クオンはしっかり者だからな」
「貴方がぐーたらなんですよ。そろそろ会議の時間ですよ。今日は遅らせるわけにはいきません。予定は迫っているのですから」
 常に厳しい言葉でラルをしかるジェダだが、今朝は一段と容赦なくラルを急かしていた。
 何やら重大なことが控えているのだなと感じられる。けれどクオンはそれに関しては興味を示さない。
 国のことはクオンには関係のないことだ。
 知ろうとしても空しいだけ。
 クオンの食事の手が遅れてきたことを感じ取ったのか、ネフィが食べやすいようにカットされた果物を皿に盛って来た。
 食欲が乏しい時でも果物にはちゃんと手を出すことを、ネフィはいつの間にか学んだらしい。
 クオンが口に出したことはないのに、察知する能力に優れている。
 自国でもよく食べていた柑橘のそれにフォークを突き刺す。
 爽やかな香りがふわりと舞い上がってきて、ささくれ立っていた気持ちを凪ぐようだった。
 けれど口に含むと酸味より先に微かな苦みを感じ取って、クオンの視線が自然と下がった。
「お気に召しませんでしたか?」
 表情を読みとってしまったらしいネフィが心配そうに声を掛けてくる。
 けれどクオンは緩く首を振った。
「いや、美味しいよ」
 これが苦いと思うなんて、クオンの心境が悪いのだ。
 決してこの果物に問題があるわけではない。
 ひたすらに溜息を飲み込んで、クオンは果物を咀嚼する。苦みを無視しようとすればするほど、それは濃く伝わってくるようだった。
 


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