二章   8




 関節が無様にもがたがたと音を立てるかと思った。
 ベッドにぐったりと身体を横たえて、このまま眠ってしまいたいと願う。
 だが現状はそれを許してはくれない。
 言葉で言い表したくはないもので汚れたシーツと身体。
 このまま寝たら明日、確実に絶望することだろう。
 まして疲労を溜め込んでいる今、目覚めるより早くネフィが来るかも知れない。
 それは避けたい。
 こんなみっともない場面を見られるなんて、冗談ではない。
「汚れているので、風呂へどうぞ」
 ぐったりしながらもクオンはラルにそう勧めた。
「君は?」
 ラルもこのまま寝るのははばかれると思ったのか、そう尋ねてくる。クオンは服を羽織りながら息を吐いた。
「私は後で入ります」
「一緒に入ればいい」
 さも簡単に言われるので、クオンは怒りや呆れを通り越して脱力した。
 もう体力が残っていない。
「結構です」
 一緒に入ってどうするつもりだ。
 大体誰がこのベッドを片付けるというのか。
 まさかネフィを呼べばいいなどと言うのではないだろうな。こんなもの見られるくらいなら倒れても構わないから自分でやる。
「一人で入れますか?」
 溜息をつきながらそう問いかける。
 現国核、その前でも高い地位に就いていた人だ。身の回りの世話は全て他人に任せている場合もある。
 一人で風呂に入ることなどないのだと言われれば、諦めて共に入るしかない。
「入れるよ。自分のことは全て自分で出来る。馬鹿じゃない」
 傲慢な態度を貫いているラルだが、どうやら他人を無駄に使うのは好まないのかも知れない。
「そうですか。それは良かった」
 クオンも今までは世話をされる側にいた者だ。他人を洗ったことなどない。
 だからラルが一人でも自分のことは出来ると言ったことは正直ありがたかった。
「ではお一人でどうぞ」
 服をとりあえず着終わり、クオンは床に足を着けた。
 一瞬腰に痛みが走ったが、それを顔に出すことなく取り繕った。
 この程度の痛みなら我慢出来る。
「君は一人で入れる?」
「入れます。己のことも出来ずに国を背負うことなど出来ません」
 自分一人ろくに世話出来ないものが、どうして国を守ることが出来る。国を支えることが出来る。
 己を律してこそだ。
 ケイガはそういう意識で今まで国核を育ててきた。
 他人の世話に甘んじているようでは一人前とはほど遠い。
 人の上であぐらをかくな、人の上で己を甘やかすな。
 それが先代の言っていたことだ。
「なんで一緒に入らないの?」
 その問いかけに、どうして一緒に入ろうとするのですか?と訊きたくなった。
 そんな必要どこにもないだろうに。
「片付けをします」
「なら僕が」
「私の部屋なのでしょう?」
 腰がまだしっかり立てていないことが分かるのか、ラルはそんな気遣いをする。けれどいらぬ世話だ。
 ここは元々はラルの部屋だと聞いている。けれど今はクオンに与えられているはずだ。
 ならばクオンが片づけをしても何の問題もないはずだ。
 それを暗に突き付けると、ラルは複雑そうな顔で溜息をついた。頑なな態度だと言いたいのかも知れない。
「もう良いから入って下さい。お願いですから」
 そう告げるとようやく渋々と言った様子でラルが風呂に向かってくれる。一人残されて、クオンはシーツを求めてクローゼットに向かった。
 腰が痛い。鈍痛が歩くたびに響く。
 そして身体の中に、ラルの放ったものがあるのを感じた。
 溢れそうになるのを耐えてはいるけれど、とろりと流れ出したそれに動きを止めてしまった。
 風呂場で掻き出す羽目になるだろう。
 だがとりあえずは溢れたものを手早く拭い、ベッドのシーツを剥ぎ取っては新しいものに変える。おろし立ての匂いに、情事の後が少し払拭される。
 このまま何もかも塗り替えて、おかしなことなど一つもなかったのだと記憶を変えてしまいたい。
 偽りばかり埋め込みたい。
 けれど心のどこかで分かっているのだ。
 たとえ今、情事をなかったことにしたとしても、いずれまた行われることなのだと。
 口付けられたあの夜から、こんな時が来るのではないかと思っていた。
 馬鹿馬鹿しい想像だと笑った。有り得るはずがない。男を抱こうとするなんて。そう理性は言っていた。だがもっと深く、意識の中枢では予感していたのだ。
 いずれ、近付きたい、同じになりたいと願って交わるだろうと。
 愚かな生き物。
 己を罵りながらも、痛みは鈍かった。疲れ果ててしまったのだ。
 元々怪我をしてから眠ってばかりでろくに動いていなかった。体力が落ちているというのに、その上激しい運動をしたのだ。
 疲労がのし掛かるのは当然のことだ。
 後悔する気力すら薄かった。
 ラルの着替えを風呂場の前、脱衣室の棚に置いておく。
 クローゼットの中にあった新品だ。
 クオンがここに来た時、この部屋にあるあらゆるものは新しい物だと聞いていた。それは洋服にも当てはまるようだった。
 なので自分が使っていない、誰も袖を通していないものをラルのために用意した。
 いつもならネフィの役割だ。
 それを終えると、重苦しい身体でベッドに腰掛けた。
 立っているのが辛い。
 あれくらいの労働で、と思う気持ちはあるのだが。男に抱かれるなんて初めての衝撃に心身ともにまいっているのだろう。まして相手は、ラルだ。
 自然と身体はことりと倒れ、ベッドに横になった。
 水音を聞きながら、引き返せない過ちの場に来てしまったことを思っていた。
 そしていつの間にかまぶたを閉じて眠ってしまったらしい。がちゃりとドアが開かれる音ではっと我に返った。
 慌てて上半身を起こす。
「出たよ」
 服を着込んだラルは頭にタオルを近くにあった椅子にかけながらそう言った。
 長い髪はふわりと揺れたので、きっと濡らしていないのだろう。
「では入ります。片付けは終わっていますので」
 そう言い残し、逃れるようにして風呂に入った。
 温かな水が湯船に張っている。
 身体を清め、中の物を掻き出すという屈辱を自分に強いた。だが恥辱だと歯を食いしばるような気持ちにはならなかった。
 自分が空っぽになったかのような錯覚を覚える。すでに何もかも奪われたのだ。
 恥すら、感じることが出来なくなるかも知れない。
 ぞっとするような現実は、クオンを苛む。
 以前であるなら長い髪を頭の高い位置でくるくると丸めたところだが、今はそれをしなくても良い分楽だった。
 数時間前に洗った髪を再び洗う手間は面倒だ。
 汚された身体は、物理的に洗っても意味は消えない。
 そう理解しながらも残滓を拒むように丁寧に洗った。身体は怠いのでもう寝たいと訴えていたが、気が済まなかったのだ。
 肌が痛みを覚えるほど力を入れて清めると、湯船に浸からずに風呂から出た。
 もし浸かり、身体を弛緩させればそのまま眠ってしまいそうだったのだ。
 手早く水気を取り、服を纏って部屋に戻るとラルはまだそこにいた。
 ベッドに腰を掛けて長い髪をほどいていた。
 金色の長いそれは雄々しい生き物の尾のようだった。
「何故、お帰りにならないのですか」
 事は終わったはずだ。どうしてまでここにいるのか。
「風呂で溺れていないかと思って」
「溺れません」
 それほど弱り切っているように見えただろうか。
「包帯巻くからおいで」
 よく見るとラルの手元には白い布やガーゼが置かれてある。
 情事の際、最も深いと思われる腹の傷に巻かれている包帯だけは取らなかった。だが風呂になると取らざる得ないのだ。ラルはそれを見越していたのだろう。
「一人で出来ます」
 呆れながらそう言ったのだが、ラルは引かない。人の話を聞くということを、この人はしないのだろうか。
 強引に断り続けてもいいのだが、その分無駄なやりとりが続くのだ。それを思うとすでに疲れる。
 それなら素直に従って早く帰って貰ったほうがまだ楽だ。
 諦めてラルの近くに腰を下ろすと、手際よく処置をしてくれる。
 どうやら慣れているようだ。戦などで己の治療をしていたのかも知れない。
 時間はかからず、素早く包帯が巻かれるとラルはぽいっと残りの包帯とガーゼをベッドの下に投げた。
 何をするのかと思うと、そのままクオンの手をとってベッドに引きずり込んだ。
「あ、あの!」
「寝る」
「は!?」
 シーツと毛布の間に滑り込み、ラルは身体を落ち着かせようとする。もちろんクオンの手を掴んだままだ。完全に寝る体勢に入った人に、クオンは驚きを隠せなかった。
「ご自分のベッドに戻って下さい!」
「ここがいい」
「駄目です!」
 ここは国核であるラルが休んでいい場所ではない。
 敵国の国核を閉じ込めている部屋なのだ。本来気軽に来るべき場所ですらない。それなのに、ここで寝るなんて。
 警備も何も置いていないのに、もし何かあったらどうするのか。
「寝るから」
 頑固にラルは言い放ち、クオンはベッドの中で叫ぶ羽目になった。
「ラル!」
 様を付けようとした。だが敬語を直すか呼び方を変えろと言われたことを覚えていた。そしてその時、クオンはこの人に抱かれそうになったのだ。もし今もまだそれを改めていないと知れば、再び足を開かされるかも知れないと恐れた。
 不運なことにここは、ベッドの上なのだ。
 しかし慣れない呼び方に戸惑っているとラルは一瞬目を見開いて、それから嬉しそうに笑った。子どものように、無防備な笑みだ。
 心臓を貫く表情に、言葉を失う。
「おやすみ」
 返された言葉は非情なもので、ラルはクオンを手元に引き寄せて、抱え込んだ。
 離さないと主張しているのだ。
「貴方という人は…」
 藻掻こうとしてもがっちり抱えられていて、動けない。
 そして逃れる体力も残っていない。
 口で抗うしかなかったのだが、ラルが全て聞き流すだろうことは明白だった。
(なんて無防備な……)
 自分が殺されるとは思わないのか。
 今ここで首を刈り取られるとは思わないのか。
 手元に刃物がないと思っているのかも知れないが、キッチンにあった薄い刃をベッドの傍らに潜ませているのに。それを握れば、首に突き立てれば国核といえども死ぬ。
 そんなことを考えないのか。
(警戒してくれ。そうすれば、私は少しでも、微かでも救われるのに)
 心を許せない相手だと認識してくれれば、こちらも頑なでいられる。何も見せずに隠していられる。
 だがラルはそれをしない。
 きっとクオンには何も出来ないと思っているのだ。
 そして苦しいことに、それは事実だった。
「貴方は……自分が何をして許されると思っているのですか…?」
 乱され、苦しまされ、自分ばかりが振り回されるその悔しさに思わず嫌味が出た。
 八つ当たりだ。
 一番悪いのは、自分自身であることは分かり切っているのだ。
「国の行く先を惑わせて、人を巻き込んで思い通りに動かして」
 酷いと訴えたかった。
 貴方は酷い。
 だが言ったことは全て自分に跳ね返る。
「許されると思っているのですか?」
 そんなこと、許されるはずがないのだ。
 クオンは己にも同じことを言い聞かせた。何も望むな、望むことは愚かだと。
 けれどラルは口元を緩めたまま、告げた。
「思っているよ。君が僕を見てくれている間は」
 どくりと心臓が跳ねた。
 この鼓動は果たしてこの人に伝わっただろうか。
 クオンは歯を食いしばり、目を閉じた。
(見透かされていた……)
 この目はずっと盲目なのだと、ラルは知っていた。
 本当は、ずっと一つのものしか映していないのだと勘づかれていた。
 他の誰も、知らなかったはずなのに。
 掴まれた手の感触だけが鮮明で、クオンを揺らす。この目をえぐり出してしまえばいいのだろうか。そんな馬鹿げた考えがよぎった。
 だが視覚を失ったとしても、この心は。
 変わりはしないのだ。



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