二章   9




 目覚めはいつも足音だった。
 部屋の前にネフィが来る気配で、まぶたを上げる。
 今朝もそうだった。
 けれどいつもよりずっと早い段階で、ネフィが来ることに気が付いた。
 それは眠りがとても浅かったからだろう。
 理由は明白だ。
 傍らにラルがいたからだ。
 無防備な姿で眠りについた人は、警戒を完全に解いていたのかほとんど起きた様子がなかった。
 その代わりクオンはラルが寝返りをうつたびに目覚めたのだ。
 熟睡にはほど遠い。
 おかげで朝日を拝む時間になっても疲労がべったりと張り付いたままだった。
 国核の特徴である、人間の領域を越えた回復力の恩恵か。身体の疲れを翌日に持ち越すということが滅多になかったというのに。悲しいことに今朝はそんな羽目になった。
 こんこんとドアがノックされる音に、ラルもまた目を開けた。
 眠たそうに目をこすっている。
 子供じみた仕草だ。
 クオンなどすでにベッドから下りようとしているのに。
「どうぞ」
 声も微かに掠れている。
 喉の調子は壊れているようだった。仕方がない。
「失礼致します。おはようございます」
 ネフィはドアを開けて頭を下げた。
 今日も規則正しい時間、そして乱れのない姿勢をしている。人の下で動くことを使命だと感じている者の在り方だ。
「食事の支度を致しますが」
 ネフィはそこで一端言葉を止めた。
 その視線は傍らでだらしなく髪を掻き上げた男に向けられる。
 己の国核がこんなところで寝ているなんて、部下にとっては驚愕だろう。
 いくら穏和で、いつも冷静に見えるネフィでも動揺を見せると思った。
 だが意外にも表情に変化はなかった。
「ラル様もこちらで召し上がられますか?」
(何故驚かない)
 ごく自然である問いかけに、クオンは違和感を覚える。
 どうしてここにいるのか疑問には思わないのだろうか。理由を何故尋ねない。
 訊かれると困るのはクオンであり、興味を示さないことはありがたいのだが。不自然だろう。
 ラルの寝室はここではない。この扉の向こう。何枚も隔てられた先の部屋であるはずなのだ。
 そしてラルもどうして、この光景を見られたことを気にもしないのか。
 どうして二人とも平然としていられるのだろう。
(前々から思っていたが、ここはおかしい)
 ラルと、その周囲はどこかおかしい。
 だがひずんでいるという感覚ではないのだ。彼らはきっちり繋がっており、ほころびはないように思える。
 ただ、クオンが生きてきた環境や、価値観などから大きくずれている。
 ずれすぎている。国の中核にいるというのに、これで良いのかと訊きたくなる。
 しかしエルベリルと関わりのないクオンが口を出すようなことではないだろう。
「うん」
 寝ぼけたようにラルが返事をした。
 ここで寝て、ここで食事まで取って。これでは扱いが完全に愛人だ。
 覚悟はしていたのだが、目の前で突き付けられると何とも言えない気持ちだった。
 女であったのなら、諦められただろうか。
 いつも通りベッドから下りて着替え、顔を洗う。
 キッチンではネフィが食事を作っているようだった。
 その間にテーブルの前に座り、窓から差し込む朝日を眺めた。
 眩しい光は射すようだ。
 昨夜の嬌態を責めるかのように思えるのはただの錯覚だとは分かっているけれど。
 ラルはクオンの動きが終わってようやく寝室から出てきた。動作はゆっくりしている。
 彼も疲労が残っているのだろうか。
 しかし椅子に座っているこの腰の鈍痛には比べられないものだろうと予測出来る。
(人体の構造として無理がある)
 あの行為は無謀だ。
 熱の余韻もとうに冷め切っている頭ではそんな感想が沸いてきた。
 ラルは顔を洗うと向かい側の席に着いた。服装は寝間着から別のものにに変わっていた。
 白を基調とした簡易的な軍服だ。
 この国に仕える者たちの制服となっている物。ぱっと見た瞬間はただの白いシャツだと思われそうだが、胸元には国の名が刻まれている。
 通常だとその上に羽織るものがあるのだが゛ラルは大抵それを脱いでいる。
 部屋の外ではどうか知らないが、堅苦しい服装は好きではないらしい。
 それにしてもすでに着替え、国核である姿勢を正すべき時間だというのに大きなあくびを見せるのはいかがなものか。
 自分なら有り得ない態度だ。
(意識の違いなのだろう…)
 だがそれにしても、もう少し何とかならないものだろうか。まるで教育係りのようなことを思ってしまう。
「失礼します」
 食事の用意が出来たネフィが、皿を並べていく。
 クオンは朝、そんなに食べられないと言っているので量は少な目にして貰っていた。
 残して頂いて構いませんと言われたのだが、出されたものを残すというのは失礼であり、己の意に反する。
 それに比べ、ラルの前にはたっぷりの量が並べられていた。
 スープ一つにしても器からして違う。どうやらラルは朝からしっかり食べるタイプのようだ。
 クオンが一枚に対して、三枚並べられたパンにお互い「それでいいのか」という目をしていた。
「クオンはもっと食べないのかい?」
「朝はこれで十分です。さして動くわけでもありませんし」
 ラルのように忙しく駆け回っているならともかく、クオンはこの部屋にいるだけだ。生きていくのに必要なだけ食べればいい。
「でも傷を治すにはちゃんと食べないと。それに君は細いよ」
 気にしていることをざくりと言われ、クオンは渋い気持ちになった。
「筋肉が目立たない身体なのです」
 細身であることは自覚している。
 どうやらこの身体は素早さを重視した形を持っていたいらしく、がっちりと筋肉が付くのを拒むのだ。
 だから見た目は細く見える。
 けれど筋肉自体はしっかり付いているのだ。
(貴方がしっかり付いてるだけです)
 クオンとは対極のような戦い方をするラルの身体は筋肉が目立っていた。
 重い剣を二つ、同時に軽々と扱っているだけある。
「それでも」
「お気になさらず。食事が冷めますよ」
 まだクオンの体型について何か言おうとしていたが、それを止めて食事を促す。
 本当に、これでは世話係だ。
 溜息を共にスープに手を着けると、ノックが聞こえた。
 この部屋にいる最も地位の高い者であるラルが返事をすると、すぐにドアが開かれた。
「失礼致します」
 入ってきたのは案の定ジェダだった。
「今日はこちらですか」
 自室にラルがいないので、不思議に思ってここに来たのだろう。
 それにしても兄弟揃って驚くことをしない。
 不自然だと思わないのか。そう言いたい思いが込み上げるのだが、ジェダは平然と「特には」と返しそうで言えなかった。
 もうこれ以上疲れるのはごめんだった。
「うん」
 ラルもパンを食べながら当たり前のように頷いている。
「予定報告はどういたしましょう」
「ここで聞くよ」
 平然とそう続けられ、クオンの方が手を止めた。
「それは良くない」
 きっぱりと、責める口調で告げる。
 するとラルはきょとんした目を向けてきた。
(この人は本当に国核としての自覚があるのか)
 どうしてそうも無防備なのか。
「どうして?」
「私がいます」
 数ヶ月前までは、情報を握られることを最大限に恐れていたはずの相手だ。
 情報はそのまま武器になりかねない。
 だからクオンも国にいる際、自分たちの情報に関しては細心の注意を払っていた。特に軍事に関することを把握している人間は、出来るだけ少人数にしたものだ。
 たとえ今ジェダが語ろうとしているものが、軍事に関わりのないものであったとしても。どんな些細な情報が戦に際に利用されるかなんて分からない。
 それなのに、クオンの目の前で国核の本日の予定を話すなんて。
 国がどう動いていこうとしているのか、同じく国核であるクオンが聞けば想像はついてしまう。
「構わないよ」
 危惧するクオンに対して、ラルは迷わずそう言った。
「他国に情報を流すおつもりですか」
 国核であるならば、もっと国のためを思うべきだ。
 何故そうも警戒をしない。慎重にならない。
 エルベリルの民ですらないクオンが、こうして苦言を告げるのは本来ならばおかしいことなのだが。言わずにいられなかった。
「君は僕のものだから」
 ぐっと、言葉を飲んだ。
 クオンはもう、ケイガの国核としては見て貰えないのだ。
 仕方のないことなのだろう。
 戦に負け、殺されるべき存在である国核がどうしてまだ生き延びているのか。その理由はたった一つだ。
 ラルが欲しいと言ったから。
 けれどラルが欲しいのは国核ではない。
 クオンだ。ただの、一つの生き物としてのクオン。
 それを所有している。
 国核であるなんて、認めてはいないのだ。
 だから傍らで寝ていても、エルベリルの情報を知られたとしても気にしない。
 そして実際、クオンはエルベリルの重大な情報を知ったとしてもどうしようもないのだ。
 故郷にそれを伝える手段はない。それを理由しようとしても、この部屋に隔離されたままでは動けない。
 唯一外部と繋がっているネフィは、ラルの手足だ。
 閉じ込められている。あらゆる意味で。
「それでは」
 ジェダはクオンが黙ったのを見て、持ってきていた資料を読み上げる。
 国勢の不安定さと財政の傾きについて語り、そのことに関しての会議の予定を伝えている。
 朝から晩までみっちり入っている予定。
 それはかつてクオンにも与えられていたものだった。
(ケイガと同じだ)
 クオンも、朝食を取りながら一日の予定を聞いていた。
 面倒だな、あの案件どうしたものかと思いながら咀嚼していたものだ。
 でもあの時は、こんな惨めで苦々しい思いを噛み締めてはいなかった。
 セキエと顔を合わせて、合間合間に他愛ないやりとりをして。
(……私は終わったのだ)
 もう国核としては死んでいるのだ。
 しかし割り切ることなんて出来るはずもなかった。







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