二章 5 髪を切って数日経った日の夜、ラルは寝室にやってきた。 もうそろそろ寝るという時間だったので、クオンはベッドに座っていたのだが。立ち上がって出迎えようとしたら手で制止された。 そしてラルは無造作にベッドに腰をかけた。 「短くなったね」 切った人がしみじみとそう言っている。 この形に慣れていないのはクオンも同じだった。 首筋に風が当たるのが、不思議な感じだった。 頭が軽くて、どうも気になる。 いずれ平気になるだろうとは思うけれど。それまで背後が気になるだろう。 「君はずっと長かったらしいね」 「はい」 ケイガの国核が髪を伸ばしているのは、他国でも知られていることらしい。 特徴になっていることは分かっていた。 「長いのが好きなんでしょう」 髪を伸ばす理由など言わず、クオンは適当なことを言った。 好きだという理由で、一族が髪を守るはずがないことは明白だ。 誰もかれもが、好みが一致するとは思えない。 「僕も君の長い髪は好きだけどね」 クオンの言葉の真実を知る気はないのだろう。ラルは苦笑しながらもそう応じた。 「だから自分も伸ばしたし」 クオンは思わずラルを見てしまった。 彼の髪もまた長く、肩胛骨より下に位置している。 いつから伸ばしているのかは知らない。 ずっと、会うことはなかったからだ。 ケイガとエルベリルは出来るだけ接触を拒んでいた。いつ戦になってもおかしくないほどぴりぴりとした関係だったからだ。 それでも開戦の直前には顔を合わせている。互いに譲れない状態だと分かりながらも話し合いの場を持った。 当たり前のように決裂したのだが。その時にはすでに今と変わりない長さだった。 (珍しいとは……思っていたんだ) ケイガと違ってエルベリルには髪に何かが宿るという話は聞いたことがない。そして男性が髪を長くしているのは、あまり一般的ではないとも。 けれどラルの長い髪はよく似合っていたし、そこに自分の存在が関わっているなんて思っていなかった。 (私の髪を見て、そうしたなんて) いつから?どうして?そんな疑問がわいてくるけれど、口からは出てこなかった。 互い、どれだけ捕らわれているのかなんて知ってはならないから。 驚いたまま黙ってしまうクオンをどう思ったのか、ラルは顔を寄せては唇を塞いでくる。 口付けられると分かって、クオンは身体を後ろに引いたけれど逃げ場なんてベッドの上にはなかった。 縮められる距離だけ、身体を硬くすることしか出来ない。 睨み付けるけれど、ラルはお構いなしに口付ける。 しかし舌を入れられるわけでもなく、下唇を舐められるだけで離された。 それだけでも十分異様なことなのだが。 「……貴方には、愛人がいると聞きました」 「いるね。捨てようか?」 吐息が触れ合うほどの距離で、ラルは軽くそんなことを言った。 重ねられていた唇にはうっすらと笑みまで浮かんでいる。 「気になるなら、今すぐにでも追い出すけど?」 その発言にクオンは眉を寄せた。 そんな、物か何かのように扱うなんて。愛人ということは仮にも可愛がったことのある女たちではないのか。 情をかけることもなく、いらないからと即座に追い出すなんて。非情だろう。 「いえ。そうではありません。そもそも私が口を出すようなことではありません」 ラルの愛人が何人いようが、どんな人間であろうが、クオンとは関係のないことだ。 言いたいのは、愛人がいるのにどうしてクオンにこんなことをするのかということだ。 けれど決定的な答えを与えられることが、恐ろしくて言えない。 結局は確かめたくないのだ。 自分がラルにとってどんな存在であるのか。どうしたいのかなんて。 聞いてしまえば、知ってしまえば、クオンは自分がどうなってしまうのか分からなくなる。 「本妻がいないと…何かと言われるのでは?」 こんなことが知りたいわけじゃない。 自分にそう怒鳴るけれど、言い直す勇気もない。 「言われてるけど。僕の子どもが出来ないからって次の国核がいなくなるわけじゃない」 ラルはそう言いながら、クオンの髪を撫でる。自分が切った、その髪を。 「自分の血にこだわりはないし。次核になりたいやつは山ほどいる」 国核はこの世で特別な生き物。 人から外れて、多くの力と地位を得る。 それが魅力的に思える人間は数え切れないほどいるのだ。だから国核になりたいと思う者はどこにでもいる。 「自分の子どもを国核にしたいと思う奴もね」 ラルは口角を上げて、皮肉のように告げる。 兄弟はラルを含めて五人。そして母親は三人。その内、兄を産み落とした義理の母親とは仲がとても悪いと聞いている。 本妻だからだろうという噂だ。 ラルの母親は愛人で、本妻の方が地位が高かった。けれどエルベリルとなったのはラルだ。その辺りが気に入らないと聞いている。 所詮地位の高さなど国核になれるかどうかの決め手にはならないのだ。 国核に選ばれる基準は血だと言われているが、血が濃い順番に巡っているわけではないらしい。過去に、現国核と遠い親戚というだけの者が次核に選ばれた過去もある。 「君にも本妻はいないね。なんで?」 皮肉を告げていた時とは違い、柔和な声と笑みで問いかけてくる。 「…国を支えるので精一杯です」 すでに繰り返していた台詞をラルにも告げる。 なんて中身のない言葉だろう。何故は今はそう感じた。 他の人に言う時には硬い理由だとは思いながらも、それを偽りのようだとは思わなかったのに。 (これは本心以外の何物でもない。ちゃんとそう思って生きている) まるで言い訳のように、そう思った。 「愛人の元に通ったことすらないらしいね」 次の国核はどこから出てくるのか。それは他国も興味のあることだ。だから国核が誰を気に入っているのか、どの女の元によく通うのかという探りが入る。 クオンの元では、その探りも空しい結果になっていたが。 この空しさも情報として流れているのだ。 それにしてもやはり国核に座っているだけあり、ネフィより正確な情報を掴んでいるようだ。 「男色の噂まで出ていた」 それには思わず苦笑が浮かんでくる。 女の元に通わないから男が好きなのだろうなんて、安直な考えだ。 「でも君は誰も近寄らせなかった」 ラルの指が右耳に触れた。 その感触が、異常なまでに強く思えた。 「人当たりは悪くなく。優しい国核だと、国のためを思う良い国核だと言われ、人望もあったはずの君は。どうして誰も選ばなかったの?多くの人が周囲にいたはずなのに」 問いかけるくせにラルは答えなんて求めていないようだった。 微笑んだまま、ただ声に出しているだけで、その指は耳から頬へと撫で下ろされる。 ねぇ、と尋ねるくせにその唇でクオンの声を塞ぐ。 今度はすぐさま舌で歯列を割ってくる。 抵抗しようかと思った。だかしたところで前回と同じ状況になることは目に見えていた。 ラルは、自分がしようと思ったことを翻さない。 割り込んでくる舌が、熱い。 自分と大差ない温度で生きている者であるはずなのに、何故か特別熱く感じる。 その違和感に、精神が震えていく。 舌と舌が触れ合えば、体内を舐められているかのような錯覚を起こしてしまいそうだった。 「私を、抱くのですか?」 前のように執拗な口付けることはしないようで、軽く舌を絡めるとすぐに離された唇に、そう尋ねた。 この人の口付けは戯れを越えている。 それは劣情を抱かせるのに十分なものだ。 まして人の下肢を口に含むなんてことまでされたのだ。 抱かれると思うのは、仕方のないことだろう。 「怪我が治ればね」 ラルは誤魔化さなかった。 もう決められていることなのだ。 クオンの意志はもはや関係がないのだろう。 負けた国核をここに囲っている理由としては有りそうなことだ。 「待つんですか」 答えに動揺することもなく、クオンはそう尋ねた。 「痛みを与えたくない」 クオンの気持ちを考慮することなく、身体を開かせることを決めているくせに。そんな温情をかける。 優しいのか、残酷なのか。きっとこの人はその両方で作られているのだ。 「いつ抱かれても、私は痛い」 どれだけ痛ませたくないと気を使われても無駄なことだ。 この身体が癒えて傷が全て塞がったとしても、ラルに抱かれて平然としていられるはずがない。 この精神はその手に触れられている時点で痛みを覚える。鼓動のたびに見えない血が流れていくようだった。 止めることは出来ない。 積み重ねてきた時間がある限り、この心に信念がある限り、その血が枯れることはないのだから。 (この人の優しさは全部、痛みにしかならない) いっそ非情に扱ってくれればいいのだ。そうすれば心を閉ざし、神経を冷やし、何も感じることなく人形のように空っぽになれる。 ただ生きているというだけの、物体になれる。 だからいっそ斬り捨てて欲しいのだ。 「その時がくるのを目の前にぶら下げられては、まるで脅されているかのようです」 明日抱かれるのか、一週間後か、それとも次の季節が来るまで待つのか。 そんないつとも知れない時を待ち続けるのは苦しい。 口付けられるたびに、その手は肌に触れるのかどうか、開かれるのかどうか恐れ続けるなんて。いずれ疲弊することだろう。 いつ崩れるか分からせない崖の上に立たされているくらいなら、いっそ突き落とせばいいのだ。 地の果てまで、辿り着いてしまえばいいのだ。 そこには痛みと傷だけしかないと思えば、この心の恐れは多少和らぐ。 情などないのだと、ただ悦楽を貪るだけなのだと割り切れば、己の感情を捨ててしまえば。恐れは遠のく。 「怖い?」 首筋に刃物を押し付けられ、斬りつけられることを待ち続けているような状態を、ラルは苦そうに笑う。 「どうでしょう」 ラルが思っている恐れと、自分が抱いてる恐れは同じだろうか。 (この人が考えている、私の恐れは何なのだろう) 男に抱かれることの恐れだと思っているのなら、それは浅はかだ。 確かに望むことではないけれど。それは耐えられる。 自分の感覚を全て遮断してしまえばいい。自分を何の感情もない物だと思えば、意識を切ってしまえばいいのだ。 (私が怖いのは、それが出来るかどうかだ) 物になりきれるだろうか。国核でいた時、そうして自分の感情を押し殺していたように。 (この人の腕の中で私は) 己を偽れるのだろうか。 「いっそ、今その時を作ればいいのではありませんか?」 抱けばいい。 クオンは突き付けるように告げた。 ラルは渋い顔で、じっとクオンを見つめた。 「身体が辛いだろう?」 そう尋ねるくせにラルの眼差しは揺らいでいた。動き始めた考えを感じて、クオンは淡い笑みを作る。 「ですが、その時を待って怯えるよりましです」 奈落に落ちればいい。 自分自身に対する嘲りを抱きながら口にした言葉は、ラルを動かした。 君は、と呟いたきり続かなかった唇は、今度は首に落とされた。 next |