二章   4




 「調子はどう?」
 背後にジェダを引き連れて、ラルは部屋の中へと入ってくる。
「良くなってきています」
 ベッドに寝ているだけでも痛みに苛まれていた身体は、椅子に腰掛けることも出来るようになった。
 そろそろ日常生活なら平気で送れるようになるだろう。
 見上げながらそう告げると、ラルは溜息をついた。
 敬語を止めろと言われたばかりだというのに、それを改めないクオンに呆れているのかも知れない。
 何かに言いたげに口を開いたが、すぐにクオンに目を留めて、そのまま真っ直ぐ歩いてくる。
 何かされるのかと身構えるが、まさかネフィやジェダがいる前で無体なことはしないだろう。
 いくらこの暴君でも。
 しかし恐ろしい気持ちはあり、目が離せない。
「ここの辺りが焦げてる」
 ラルはクオンの髪に触れて、そう言った。
 今は無造作に一つにくくっているのでそれがどこの部分なのかは感じ取れないが、焦げている箇所があるのは知っていた。
 戦場では火をかいくぐって走っていたのだ。
 髪のことなど頓着は出来なかった。
 もともとクオンは自分の髪に対してあまり興味がないのだ。
「切ろうか。切っていい?」
 クオンの髪を結んでいた紐をほどき、ラルの指がやんわりと撫でてくる。
 優しい感触に目を伏せた。
 なるべく、そんなもの感じ取らないように頑なに意識を反らす。
「構いません」
 迷いはなかった。
 ケイガにいる時であれば、誰もがその問いに関しては慎重だった。
 ラルのように気軽に言うことはなかった。
「この辺りまで焦げてるから。綺麗にそろえようと思ったら短くなるけど」
 ラルがうなじ辺りに触れる。
 そこまで短くなるだろうと示しているのだろう。
「はい」
 了承の返事をして、クオンは内心苦いものを噛んでいた。
 ケイガでは、国核の血筋は髪を伸ばしている。
 髪はその人の身代わりの役目を果たすと言われているからだ。
 我が身が危うくなった際には髪を切り落とし、焼き払うことによって災厄が髪と共に消えていくとされる。
 だからクオンも物心ついた時から髪は長かった。
 生活の邪魔になる長さであってはならないので、ある程度長さの調整はされていたけれど。首筋まで短くしたことはない。
 父も母も、妹も真っ直ぐ綺麗な黒髪を保っていた。
 それがケイガの象徴でもあった。
 けれどクオンがそんなものを持っていても、もう無駄だ。
 こんな身体はもう守らなくていい。国核である象徴もいらない。
 全ては嘲笑へとすり替わってしまう。
「はさみ」
 ラルはネフィにそう指示した。だが口にする前にすでにネフィは動いており、どこかからはさみが持ち込まれていた。
 背後にラルが立っているというだけでも緊張するのだが、その上刃物を持たれるのだ。
 全身の神経が張り詰められる。けれどどう警戒したところで無駄なことだ。
 この人がクオンを殺そうと思えば、いつでも可能なのだから。
 強張る身体を隠そうとするように呼吸を深くした。だが吐き出した吐息は微かに震えている。
 じゃきり、と髪を断つ音が響く。
 どこにどうはさみを入れられたのか、クオンには分からない。
 本来ならこういうことは鏡の前でやるべきことだろう。けれどここには鏡が一枚もないのだ。
 自分の姿を確かめる術がない。
 しかしすでに制止出来るような空気でもなく、クオンは腹をくくりながら入り込んでくる日差しが作った、窓際の影を見つめていた。
 鉢植えの植物の足元に伸びた、暗がり。
 髪が切られていく感覚を得るたびに、ケイガが遠のいていく。
 あの土地が、クオンが過ごした日々が剥ぎ取られていく。
 背中の中程まであったそれは途切れ、刃物が首筋をかすめた。
 冷たい感触にぞくりとする。
 心臓をさらけ出しているかのような危機感があった。
 唇を噛んで、逃げ出したい気持ちをぐっと抑える。
 ラルはそんなクオンの様子に気が付いた節もなく、ただ淡々と髪を切っているようだった。
「君の髪は黒くて、真っ直ぐだね」
 ラルは軽く髪を梳きながら、そう言った。
 豊かな黒髪は一族の特徴だった。
 深く澄んだ青い瞳。黒く真っ直ぐな髪。それがクオンの血だ。
 ケイガの国民は黒より茶色の髪が多いのだが、エルベリルに比べると色彩は深い。瞳の色は明るい茶色、青、緑がいる。
 それでもクオンほどはっきりとした空色というのは珍しいものだった。
「うちにはあまり黒髪はいないから」
 そう言いながらラルは何度か髪を撫でる。
 珍しいと言いたいのだろうか。
(それはお互いさまだ)
 この国に黒髪があまりいないのと同じで、ケイガにもラルほど透き通った金色の髪を持つ者は珍しかった。
 初めて見た時は金の絹糸のようだと、驚いたものだ。
 ラルは撫でるのを止め、断髪の作業に戻る。すると髪が全体的に軽くなってきたことに気が付く。
 どうやら、あの長さはもう残っていないらしい。
 首の辺りでばかりはさみが動くようになって、嫌な汗が背中に滲む。
「…そろそろ整えたらどうですか?」
 あまり喋らないジェダがそう口を挟んだ。
「梳きばさみもあります」
 それを聞いてネフィが別のはさみを取り出してきた。
 そのはさみの歯には片方だけギザギザの加工がされている。
「ああ。うん」
 ラルの声は固い。手慣れていないだろうことは、国核という地位からして明らかだ。国核が人の髪を切るなんて作業をいつもしているとは思えない。
 だがこれが初めてだなんて、そんなことになってはいないだろうか。
「こっちをもう少し切るべきでは?」
 ジェダも背後に立ち、クオンの頭を観察しているらしい。冷静な声に不安になってくる。
「もう少しこちらにも手を入れた方がバランスが」
 ネフィはクオンの前に立ち、兄弟して両面から均整を考えてくれているらしい。
 真剣に見てくれているのだが、難しそうな表情をするのは止めて貰いたい。
「もう少しってどれくらいだよ」
「ですから。少しでいいのです。あまり切ると不格好に」
「ラル様。右側の耳の辺りが少し不揃いです」
 ああでもない、そうでもないと頭上で会話を繰り広げられ、クオンは居心地が悪くなる一方だった。
 一体、自分の髪はどうなっているのか。
「…鏡を下さい」
 刃物を当てられる嫌な感覚よりも、すさまじい髪型になっているのではないかという不安が勝った。
 というか、見えない分だけ危機感が強まるのだ。
 どれだけ酷いものであっても、いっそ目にしてしまった方が諦めがつく。
(自分で補修出来るレベルだろうか……)
 せめて前を向いた時に、え?と思われない程度にはなんとかしたいのだが。
(ああ、でもこんなこと願ってる時点でレベルが底辺に近い)
「ちょっと待って!もう少し!」
 ラルが背後で必死になって止めてくる。
 それが一層の恐ろしさをクオンに植え付けてくる。
(外出しないので、それだけが救いか……?)
 この姿を見るのはここにいる三人だけだ。どれだけ悲惨でも、理解は示してくれるだろう。示してくれないと、ベッドの中だけで生活をしてやる。
「見るのが怖いのですが。見ないというのはもっと怖い」
 そう文句を言うと、ラルは「分かってる!」と言い返してくる。
 分かっているのなら鏡をくれてもいいようなものなのだが。
(それほどまずいのか)
 最終的には五分刈りにしなければならないような状況になるのではないか。そんなことを思案していると、気分は沈んでいく一方だった。
 しきりに髪を触り、ラルは唸っている。
 ネフィもジェダも何も言わなくなり、奇妙な静けさが漂った。
 まるで軽い罰のようだ。
(なんて地味な罰なんだろう)
 ラルからしてみれば罰という認識が欠片もないだけに、かなり意味のない行為だ。
 溜息を殺してると、ラルが「うん」と頷いた。
「これでいいよ!」
 そう宣言され、クオンは脱力する。
(これでいいよって…貴方の髪ですか)
 まるで我が者であるかのように言うラルに、文句を言うのもはばかれるので口にはしないけれど。
 やれやれ、と思っているとネフィが鏡を差し出してくれた。
 いつも通り微笑んでいるが、その表情に裏がないかどうか思わず探ってしまう。
 しかし含みがあるようには思えず、クオンは覚悟を決めて鏡を覗き込んだ。
 ざっくりと切られた髪は比較的綺麗に整えられていた。
 長髪の印象が強いせいか襟足は長めで肩に触れていた。
 梳きばさみを使ったので、全体の形を思うと少しばかり髪が短いように見える。
 鏡の中にはネフィがもう一枚鏡を構えて背後に立つのが分かった。
 合わせ鏡にしてくれるのだ。
 それを察して、後頭部が見えるように鏡と自分の姿勢を変えた。
 バランスなどを指摘されていたが、何の問題もないように思えた。
 クオンが抱いた不安をあっさりと破ってくれる。
 どうやらこの国核は割と器用な人のようだ。
「どう?」
 ラルは自信ありげに訊いてくる。
 褒めて貰うのを待っている子どものように思えて、クオンは拍子抜けしていた自分に意識を戻した。
「ありがとうございます」
 落ち込む結果になるとばかり思っていたのに、予想外だ。
 ケイガにいた時に切って貰っていた人より下手なのは当然として、手慣れていないのにこれだけ整えられるのはすごいことだろう。
「怖いことにはなってなかっただろ?」
「そうですね」
 びくびくする必要はなかったようだ。
「また伸ばす?」
 短くなった髪を撫でながら、ラルはそう尋ねてくる。
 切ったばかりだというのに気の早いことだ。
「……いえ、もう」
 切らないと断言は出来なかった。けれどもうあの頃のように真っ直ぐ伸びた髪を誇りのように思うことはないだろう。
 何の意味も持たないというのに、長い髪を持っているのは邪魔になる。だからきっと、もうあれほどの長さにすることはない。
「そう?長いのは綺麗だったのに」
 ラルの無邪気とも思える発言に、クオンは苦みを噛み締めた。
 戻れない。
 ラルが綺麗だと言った、その時に戻ることは決して出来ない。
 足元に散らばっている髪の毛は、今まで自分が過ごしてきた年月のようだった。それはいとも簡単に切り落とされ、そして。
 人の手で片付けられて、捨てられていく。
 価値のないものとして。
 目を閉じて、捨てられるそれらから視線を遮った。それでもまぶた越しに感じられる昼の日差しは明るくて。自分の心は正反対の光に身体の奥が締め付けられるようだった。



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