二章   3




 エルベリル特産のお茶は、ケイガのものより酸味が少し強い。
 それを舌で感じながら、窓の外を眺めていた。
 柔らかな昼下がりの日差しが木々を照らしている。
 穏やかな光景だ。
 クオンには相応しくない、あまりにも平和過ぎる空気。
 本来ならこんなところにいるべきではないというのに。どうして安穏としていられるのだろう。
 何かについて悩むことすら奪われていくような気がした。
「ネフィ」
 大人しく傍らに控えてはお茶に合うような菓子まで出してくれる人の名前を呼ぶ。
 返されるのはいつも微笑みだ。
「エルベリルは本妻がいないと聞いているのだが」
 ラルからはそう呼ぶなと言われているが、いきなり改めるということは出来なかった。
 ましてラルの部下に対していきなりラル呼ばわりすれば、不快に思われることだろう。
「はい。おりません」
「何故?」
 国核が妻を娶るという決まりはない。けれど大抵の国核、または国核に近いものは配偶者を得る。大抵は十代の半ばから後半になれば自然とそういう話に流れていくのだ。
 だからラルも、もう何年も配偶者に関する話を持ちかけられているだろう。
 ラルが本妻を持っていないということはケイガにまで伝わってきていたけれど、それが事実であるかどうかは半ば疑わしかった。
 それほど、国核とは配偶者を持つのが当然とされているような地位にいる。
「不必要だからです」
(そんなはずがない)
 クオンはとっさにそう思った。
 国核という地位はどんなものよりも高く、別格として扱われている。
 けれど周囲の地位の高い者たちと繋がりを強くすることで、より一層己の動きやすいように位置を固めるのが、当然のやり方だろう。
 その中で最も強く、そして簡単に結ぶことの出来る関係が結婚だ。
 そんなことは遙か昔から繰り返されていたことだ。
 その分、有益で確実な方法であることは立証されている。
 ラルはそれがいらないというのか。
「愛人ならおりますが」
 それも知っている。
 ラルの愛人はどれも皆、周囲の権力者とはあまり縁のない女ばかり三人だと聞いている。
 本来なら女を通じて権力との関係を深めるものなのだが、ラルはそれを拒んでいる節がある。
 あれだけ独裁的な動きをしている上に、そうして他者を排していては、対抗勢力も存在していることだろう。
 国核だからといって全ての横暴が認められるわけではないのだ。
「束縛をしようとしてくる者は全て切っているようです」
 それは愛人関係だけに留まらない。ラルの姿勢そのものなのだろう。
「エルベリルは束縛自体が嫌いだということか」
「そのようです」
(しかし、自分は他人を束縛していてる)
 身動き一つ許さないかのように。クオンを手元に留めている。
「子どもが必要なのでは?」
 次の国核は、今の国核であるラルの血族から出る。その確立が最も高いのは、実の子どもだ。
 今の地位を次に、自分の血に継がせたいとは思わないのだろうか。
「他にもご兄弟がいらっしゃいます。ラル様はご自身の御子でなくとも構わないそうです」
 ラルの兄弟は他に四人いると聞いている。
 兄が一人、弟が二人、妹が一人だ。誰も腹違いらしい。
 その内、兄と弟一人とはどうも仲が良くないらしい。無理もないだろう。
 国核を先に期待されていたのは、その兄なのだから。
「そもそも、ラル様は愛人の元にもほとんど通われておりません」
「忙しいのだろう」
 戦の後だ。愛人に構ってやる時間の余裕はないだろう。
(そのくせ、ここには来るのか)
 日々忙殺されているはずなのに、それでもクオンの元には毎日通ってくる。
 何かを確かめているのか、それとも義務か何かだと思っているのか。
 監視だけならネフィが行っているはずなのに。
「それをお尋ねになる、クオン様にも本妻はいらっしゃらないそうですが」
 今までに何度も尋ねられた質問だ。戦になってからは滅多に訊かれなかったけれど、十代半ばから延々言われ続けた台詞に、クオンはお茶を一口飲んだ。
「国が落ち着いてからと、思っていたから」
 クオンが国核になる前から、不穏な空気が漂っていた。
 そして年を重ねれば重ねるほど、国の周囲は騒がしくなったのだ。
 だからそれらが片づいてからと言っていた。
 むろん周囲は納得しなかった。自身の身を固めることで、意識も引き締まる。守るべきものを持った者は更に強くなるもの。
 そう説き伏せようとした者もいる。
 けれどクオンは首を縦に振らなかった。
「愛人はおられるそうですが、あまり通われることがなかったようですね」
「よく知っている」
 クオンは苦笑を浮かべた。
「あまりというより、全く通っていない。彼女には手以外触れたこともない」
 名前は出てきても、顔は朧気にしか出てこないような相手だ。
 父の側近だった者の娘で、どうしてもと言われてクオンの元に来た。
 血筋も近く、年頃も良い頃で、器量も悪くない。
 是非妻へと差し出された娘だ。
 クオンは断った。妻を娶る気はないのだと繰り返した。けれど父親は納得してくれなかった。
 あまりにも頑な過ぎる互いの態度に、このままではいずれ亀裂が入ると思った。
 だから愛人という形であるのならと妥協案を出したのだ。それで父親は頷いた。
 子でもなせば嫌でも国核と切れぬ繋がりが出来る。だからそれで満足しようとでも思ったのだろう。
 だがクオンは彼女の元には通わなかった。
「彼女には、別に思い人がいたのだよ」
 そう告げて、クオンは自分に嫌悪を覚えた。
(本当は、私の元に来てから出来た相手だが)
 ネフィにはまるでクオンの元に来る前からそんな相手がいたような言い方をしている。
 自分の元に送られた愛人の処遇は、自分でも酷いものだと自覚しているから。そんな誤解を招く表現をしたのだ。
「それでも愛人になさったのですか?」
 ネフィは意外だというような顔をした。
 予想通りの捉え方をされ、クオンは自責の念が生まれる。
「……断りきれなかった相手、なんだ」
 本当なら父親との関係にわだかまりが残ろうと、溝が深まろうと断るべきことだったのだろう。
 人の気持ちを振り回し、人生を狂わせることだったのだから。
 けれどクオンはそれが出来なかった。
 国核としての立場、そして仮であっても愛人がいるということで人の目を眩ませたかったのだ。
(自分が本当に求めるものを隠したかった)
「しかし、国核の愛人でありながら誰かと密通するようなことがあれば。追い出せるのではないですか?それとも彼女は相手の方とはお会いしておられないのですか?」
 ネフィに問われ、クオンは彼女のことを思い出す。
 そういえば彼女の元に出入りしようとしている男がいると聞いたことはあった。
 けれどそれに構うことはなかった。
「私には、彼女には何もしてあげられなかったから。貴方の好きなようにして欲しいと言ってある」
 遠回しに、興味がないのだと言ったようなものだ。
 残酷な言葉を彼女はどんな顔で聞いていただろう。思い出せない。
「そうですか。クオン様も御子様はよろしいのですか?」
 子どもという単語を聞くたびに、想像がつかないと思うのだ。
 なんて自分と遠い響きなのだろうかと。
「私にも妹がいる。それに父親になれるだけの自信もない」
 手元にいる愛人にも目を向けられないというのに、誰と子をなすというのか。そして成したとして、果たしてその子とちゃんと向き合えるだろうか。
 クオンと妹であるセキエは父に可愛がられた育てられた。だが可愛がられない子どもがどれだけ悲愴な存在であるのかは知っている。
 そんな子どもを増やすことになるではないかと。恐ろしいのだ。
 人を傷付けて、悲しませることしか出来ないのではないかと。ならば初めから子どもなど望まなければ良いのだ。
 欲しくないものを生み出しても悲しい結末があるだけだ。
「周りは納得されなかったのでは?」
 ネフィの主人であるラルも同じ道を辿っているだけあり、クオンがどんなことを言われていたのかは分かるだろう。
 気の毒そうな声で言われた。
「私には荷が重いと言っておいた。国のことだけで精一杯だと」
 それは本心でもある。
 自分の立場、自分の今後を思うより国のために力を尽くしたかった。
 クオンはそのために生きている存在だからだ。
「潔癖で知られていましたよ。国そのものになろうとしてる国核だと」
 ネフィの言ったことに、クオンは自嘲が込み上げた。
 ケイガにいる時に言われたのであれば、それで良いのだと微笑んだことだろう。
 むしろ誇らしいとすら思ったかも知れない。
 自分の在り方は正しいのだと確認出来たことだろう。
(だが今となっては皮肉だ)
 どれほど国のことを思ったとしても、今のクオンはケイガの枷だ。
 いっそなくなってしまった方が民のためかも知れない、愚かしく、重い枷。
 身を粉にしたとしても負けてしまっては意味がないのだ。
 国を奪われた国核など、お笑いではないか。
「選べなかっただけだ」
 ぽつりと、本音が零れた。
 ネフィは首を傾げて続きを待っていたが、クオンはそれ以上口を開かなかった。
(初めからケイガという国を与えられていた…だから国核でいられた)
 それは選ぶことの出来ない事実だったから、受け止められた。
 けれど妻や子どもなんて、自分で選ばなければならないことは手を伸ばせなかった。
 愛する存在を作ることを拒んだのだ。
 あの人に届くはずがないと分かっていたのに。
 決して、幸せなど望めるはずのない相手だと理解していたのに。それでも欲しい人はたった一人だったから。
 だから他のものを欲しがれなかった。
 素振りすら出来なかった。
 偽りを見せるようで、心が耐えられなかった。
 望めないのであれば、せめて何も取らず、捕らわれずにいたい。
(強情を貫いて、儚い夢ばかり抱いて)
 しかしそれでもクオンは生きて行けたはずだ。
 国核の顔をしたままいられたはずだったのだ。
(けれど、手が届いてしまった……)
 触れることが出来た。
(許されない形で、認めてはならない有様で)
 靴音が聞こえてくる。
 ドアに手を掛ける気配を感じて、クオンは顔を上げた。
 開かれる扉、入ってくる金色の髪。長いそれは一つにくくられている。生気に満ちた翠の瞳がクオンを真っ先に見付けてくれる。
(こんな近くに、来てしまった)
 そしてそれはなんて愚かしい関係なのだろうか。
 


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