一章   6




 ラルが睨んでいるその国は、クオンにとっては愛おしさが募る場所だ。
 たとえもう戻れないとしても。
 その視線を先を自然と追ってしまう。
 だがそれを咎めるようにラルは眼差しを戻してきては、話を続けた。
「もう一つ、文書には主となる質問があり、条件の確認だったけど。こちらはうちが出した条件の良さに怪訝に思っているみたいだね」
 無理もないだろう。
 敗戦国の待遇としては良すぎる。何か裏があるのではないかと思うのが当然の心理だろう。
「まぁそう思いたくなるのも仕方がないのかも知れないね。戦人の処理をするつもりもないから」
 この言葉にはクオンも目を見開く。
「本当に……?」
 この人は本当にそんなことを言っているのだろうか。
 戦を起こしたこと自体は褒められることではなく。また敗戦国の中で戦で主力となった者は危険因子として、処分されることが多い。
 反乱を起こされた際に面倒になるからだ。
 大抵国核の側近が殺される。通例としては二、三人ほどで留めるのが礼儀とされているのだが。
 酷い国は何十人と殺していく。
 エルベリルも以前の戦では四人ほど処刑していたことを知っているので。クオンもそれは覚悟していた。
 それはケイガに今いるクオンの側近も分かっていたことだろう。
 しかし全く誰も殺さないということは。
 戦の責任を誰にもとらさないということだろう。
(これはもう……敗戦国の扱いじゃない)
 ケイガとしてはありがたい状況だ。
 願ってもないことだろう。
 領土は守られる。戦友は生かされる。名前も残され、ケイガは消滅しない。
 けれどこれでは何のための戦であったのかと、エルベリルの中からは声が挙がるに決まっている。
 本当にこれで良いのかと、クオンは疑問の目で見つめざる得なかった。
「こちら側の返答としては国核を返すつもりは毛頭ない。支配条件が甘過ぎるというのなら厳しいものを用意するということ」
 ラルはさして興味もなさそうに語っていく。
「そもそも経済状況の協定をメインにしたかったしね。領土うんぬんは今はあまり考えていない。うちもそろそろあちこちが飢えている」
 水が足りないと聞いていたが、深刻な状況になりつつあるようだ。
 国の在り方などを議論するよりまずは食料の確保をしたいというのだろう。
 その確保の仕方がどういうものなのかは語りはしないが。
 どんなものであったとしてもケイガに異論は許されない。
 これほど支配条件で良いものを出しているのだから、食料関係くらい黙っていろと言われてもじっと耐えることしか出来ないだろう。
 それが今のエルベリルの目的なのかも知れないが。
「戦人の処刑自体、僕は興味が元々ない」
 ラルは素っ気ない態度だった。エルベリルが一つ前に行っていた戦はまだ前国核が健在だった。その国核は戦人の処刑を強く希望していたらしい。
 だがラルに関してはそんな噂は届いてこなかった。
 そういう性格なのかも知れない。
「それに君と共に肩を並べるようにして国を動かしていた君の叔父は、殺してあるしね」
 戦人の処刑がない。
 釈然としないながらも安堵していたクオンの耳に入ってきたその言葉、その事実は呼吸を凍らせた。
 最後にあの人を見たのは戦場だ。
 共にずっと戦ってきた。
 前国核である父に血杯を受け、ずっと片腕として動いていた叔父。
 父が亡くなった後もクオンを助けるようにしてよく働いてくれた。よく助けてくれた。
 若輩だったクオンに様々なことを教えてくれ、大人として、国核としての生き方を指導してくれた。
 まるで兄のような存在だった、あの叔父が。
(……殺された……)
 戦に出れば誰が殺されてもおかしくない。
 それは殺し、殺される場なのだから。
 けれど頭ではそう思っていても精神はそれを拒否してしまうのだ。あれほど柔和な日々を共に過ごしていたあの人が死んでしまうなんて有り得ないと。どこかでそう信じている。
 何の根拠もなく、思っている。
(あの人がもういないなんて……)
 戦人の処刑は仕方のないことだ、なんて冷静ぶって考えていたはずなのに。いざ叔父が殺されていたと知っただけで、頭の中から鼓動が聞こえてくるほど動揺している。
 きっと顔からは血の気が引いていることだろう。
 ラルの視線を痛いほど感じたが、表情を繕う余裕がなかった。
(処刑はしないと言ったけれど、もう必要がないからだ…)
 国を主に動かしていたのはクオンと叔父だった。
 その周囲の人々も国のことをよく考えて、勤めてくれていたが。最終的には二人の判断によってのみ国が支えられていた。
 その二つがなくなっている今のケイガに、戦人を処刑してもしなくても、さした大差がないと思われたのだろう。
 ただ戦で戦友を殺されたエルベリルの人々に遺恨が残るだろう。
 その遺恨をラルはどう処理するのはか知らないが。
(…負けたのだ。ケイガは屈したのだ)
 今更のようにそう呟きたくなった。
 とうに分かり切ったことだ。
 しかしそれでもどうしようもない喪失感は、そうとしか言いようがなかった。
「君がいる限り反乱が起こってもすぐに納められるだろうからね。今いる民はみんな残しておくよ」
 ラルは優しげにそう言った。
 温情をひけらかしている。
 しかし悲しいことにそれは事実だ。国核を人質に取られれば、国の人々は反乱を止めるだろう。
 国核を崇め奉る意識が浸透しているのがあの国だ。
 だからクオンは、国核はその意識に反することなく、民の心を踏みにじることなく生きるようにと言われている。民を裏切ることがないうようにと。
 それだというのに。
(なんてざまだ)
 かつてこれほどの生き恥をさらし、民を過酷な目に遭わせたケイガがいるだろうか。
 こんな愚かなケイガがいただろうか。
(私など死んだほうがずっと良い)
 その方がずっと良いのだ。民の足かせになるような国核など必要ではない。
 拳を握り悲鳴を上げそうになり唇を噛み締める。
 己の命をこれほど疎んだことはなかった。
「クオン。唇が切れるよ」
 そう指摘されても口を開く気にはならなかった。
 するとラルは目を細めて手を伸ばしてきた。
 その指で何をするつもりなのかと動きを視線で辿っていると、どこかから怒鳴り声がした。
 少し遠いところから届いてきているのだが。声がよほど大きいのだろう。
 随分響いている。
 男の声は随分憤っているようで「ラル!てめぇ出てこい!」とエルベリルを本名で怒鳴りつけている。
 国核に対してそんな態度をとるものがいるなんて、あまりにも驚きだった。
 ドアの向こうに目をやり、クオンは瞬きをする。
 不敬罪に問われるのではないだろうか。
 男は鍵を持っていないようで、どこかでドアを叩いている音はするけれどここまでは来ない。
 しかしこの前段階として、向こう側はラルの部屋だと聞いている。
 その部屋には鍵で入れるのだから、親しい間柄の人間ではあるのだろう。
 ジェダが面倒だというように溜息をついた。
「丸め込んできますよ」
 やれやれと言いたげにそう告げては部屋から出ていく。
 それに対してラルは「うん」と頷いただけだった。
 ジェダに色々と丸投げをしているらしい。
「もめているようですね」
 クオンは白々しいと自覚しながらもそう言った。
 国内でもめていないはずがない。
 本来こんな流れは容認出来るものではないのだ。たとえ国核が決めたとしても、納得出来ないと声を上げるものは少なくないはずだ。
「そうだね」
 ラルは他人事のようにさらりと言った。
 他人が何を言っていようとも、きっと関係がないと思っているのだ。
 なんて傲慢な態度だろう。
「良いのですか?」
 国の中から声を荒らげられて。国核としての素質を問われているのではないのか。
 在り方を責められているのではないのか。
 それなのにこんなところで泰然としていて良いのか。
「良いも何も」
 くつりと笑ってラルは紅茶に再び口を付けた。
 優雅な時間のように装っている。
 向かい合っているクオンの心の中は嵐のようであり、この部屋の外では罵声が飛んでいたというのに。
 この人には届かない。
「全ては計画通りだよ。それとも君はもっと凄惨なほうが良かった?」
 クオンがはいと言えば、今まで出してきたケイガへの条件を一変させるのだろうか。
 そんな簡単な問題ではないだろうに。
 しかし確かめる度胸はなく、クオンは小さく「いえ」と否定するだけで精一杯だった。
「歩けるようになってもここから外にはまだ出ないほうがいい。敵は多いからね」
 クオンにとって、この国の人間は全て敵だろう。
 戦が終わったとしても、国核は敵の象徴としてしか見えないことだろう。
 殺されるべき存在。
 きっとエルベリルの民たちはそう思っている。
「ここに来るまでは僕の部屋を通り、幾つかのドアがあるから。来られる人間は僕とジェダ、ネフィだけだと思うけど」
 それでも用心をすることにこしたことはないと言いたいのだろう。
「ハウ先生もここには来られない」
 ラルを子どもの頃からずっと看てきており、もしラルに何かがあればその命をもって償う。
 それがエルベリルの国核血族専属の医師たちが強制される契約らしい。
 その分医師と契約している者とには信頼関係が生まれているようだが。
 ハウ医師であってもここに来ることを許しはしないようだった。
 反面、ジェダとネフィがラルから得ている信頼度の高さが窺える。
「それにしても」
 ラルは紅茶をソーサーに戻しては口元を歪めた。
 笑みのように見えるけれど、その瞳は全く緩められていない。
「君は本当に人望があったんだね」
「ケイガですから」
 民が慕ってくれるのはケイガであるからだ。国そのものであるからだ。
 クオンの人柄が問題ではない。
 そうは言うけれど、ラルは首を振った。
「いや、君は僕とは違ってとても慕われていたよ。文書からでも君のことを懇願するものがぎっしり書かれていた」
 どんな内容のものであるのか。この目で見たいと思った。
 きっとクオンの片腕を勤めてくれていた者か、妹であるセキエが書いたことだろう。
 あの二人はクオンにとてもよくしてくれていたから。
「……必要とされていただけです。国にとって国核というのはなくてはならないものだったので」
「そう。必要とされていた」
 君は国核だから。とラルは告げた。
 まるで責めているかのような響きだ。
 国核になったのはクオンの願いだったわけでもないのに。
「だから君を切り離すのにこれだけの時間がかかった」
 ラルは過ぎていった時の重みを感じているかのように言う。
 初めてあった時から、約二十年の歳月が流れていった。
 同じ人をずっと二十年も思い続けるなんて、執着するなんて正気ではない。
 この人はどこかが壊れている。
 だからあんな戦を仕掛けてきた。そして国はいらないなんてことを平然と言うのだ。
 本当に欲しかったのはそんなものではないなんてことを。
(……では私は、この人を忘れずにいた私は何なのだろう)
 この人が二十年クオンを欲しがっていたとすれば。
 二十年前に出会った、あの時を忘れることも出来ずにずっと金色に捕らわれていた自分は。
 一体何なのだろう。



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