一章 7 この国に来てから、眠る時間は大抵決まっていた。 ケイガにいる時はその日の予定によって異なっていたものだが、エルベリルでクオンに用事などあるはずがない。 ただ毎日が過ぎていくだけだ。 これからずっとこうして、単調な日々に押し潰されるのかと思うとぞっとした。 自国にいる際には日々忙しく働いていたせいだろう。 時間がないと言いながらも動き回っていた毎日は充実したものだった。 今のように、途方もない空しさに襲われることもなかった。 だが文句は言えない。 所詮生かされている存在だ。 夜が深まり、世界が静まり返る頃。ネフィを自室に戻した。 生活を共にしている人はクオンの部屋の一つを自分のものにしているらしい。 だがまだどこにあるのか、クオンは知らない。 歩けるようになったとはいえ、まだ自由にならない身体だ。 ゆったりとしか動いていない。 大きな物音がすればすぐさま反応出来るようにしています。とネフィは言っていたので、そう遠くない部屋にいるのだろう。 一人になったとはいえ、やることもない。 柔らかな光を放ち、夜を照らしてくれている螢石にそっと光を遮断する器をかぶせて部屋を暗くし、ベッドに潜り込んだ。 螢石は自ら光を発する不思議な鉱石だ。 元々光を吸収することの出来る鉱石だったらしいが、それに魔法使いたちが細工をして四六時中何の作用もせずに光を発することの出来る鉱石に変えたらしい。 国々の情勢に関わることを厭った魔法使いたちが、自分たちの力を人々に貢献してくれるのは鉱石に関することくらいになってしまった。 昔は違っていたらしいが。 現在では政治に関わることは一切しない。また国々に対して何かしらの力を与えた魔法使いは同胞によって殺されることが決められているらしい。 彼らにも彼らの流儀があるのだろう。 ただ魔法使いたちは特定の国に深く関わることは避けるけれども、新しい国核が誕生した際にはその姿を見せる。 クオンが新しくケイガになった時にも、男の魔法使いがどこからか現れたものだ。 国の情勢に関わるつもりはない。けれど世界の流れがどうなっているのかは、知る必要がある。 彼はそんなことを言っていた。 魔法使いたちに関しては謎が多い。おそらく彼らのこと正確に把握しているのは、彼ら本人たちのみだろう。 それにしても、エルベリルの螢石はとても白い色で発光していた。 ケイガの螢石は淡いクリーム色をしていたのだが。 国で取れた鉱石を魔法使いたちが回収して、そこからこの螢石を作り出しているので、自国の色というものが出るのだろう。 あの優しい色の螢石が見たいわけではない。ただ、ここはもうケイガとは離れた場所なのだと思ったのだ。 捕らわれているのだと、思ったのだ。 ベッドに入り目を閉じていると、音が聞こえた。 小さな音ではあったが、眠っていてもおそらく目覚めただろう。ここに来てから物音には酷く敏感になっている。 完全に弛緩することが出来ずにいるのだ。いつ殺されてもおかしくないと思っているせいだろう。 誰かと思っていた。 ネフィであったのなら歩調が少し異なる。 もう少し遅く、音も小さい。 ならば、来る人はあの人しかいないだろう。 起きて待つべきかと思ったけれど、何の用件なのか気になった。 深夜になってから突然訪れることなんて今までなかったのだ。 ふと気になって、クオンはそのまま目を閉じた。 眠っていると知れば帰ってしまうかも知れないとは思ったが。それならばそれでいい。 さっきまで国のことを考えてしまっていたこの心では、ラルとまともに話せる自信がなかった。 (まともに話せる自信なんて、いつもないか……) いつだってあの人の前にいると精神が掻き乱されるのだ。 冷静さを奪われていく。 ドアは遠慮がちに一つだけノックされた。 無言でいるとゆっくりとドアが開かれる。 ラルは扉を開けて、そこで立ち止まったらしい。しばらく音がなかった。 だが立ち去ることはしないようで、ドアを閉めるとベッドに近付いてくる。 一歩一歩、距離が縮まる。 何も声を掛けてこない人は、そのままクオンのすぐ近くに立つと身じろぎをした音が聞こえてきた。 首でも絞めるのだろうか。 そんな想像をしてしまう。 (でもここで首を絞めてきたのなら、きっと私は何の抵抗もしない) ただうっすらと目を開けることくらいだろう。 戦場で殺さなかった代わりに、今ここで、その手で殺すのだなと思うだけだ。 最後にその瞳を、その翠を見つめて、きっと。 (これでいいのだと諦められる) 生き残っていても、苦しいだけだ。 しかしクオンの想像とは違い、ラルの手はクオンの額にかかっていた黒髪を払いのけた。 優しい、壊れ物にでも触れるかのような手つきだ。 その感触に心臓が締め付けられる。 (どうして…!) 何故そんな優しさで触れてくるのか。 まるで労るように、慈しむように撫でるのか。 そんなものを与えて良い相手でないことくらい分かっているだろうに。 首を絞められるよりも苦しい仕草に、クオンはまぶたを上げた。 月の光が照らす、薄暗い部屋の中で真剣な表情をした男が自分を見下ろしていた。 その瞳は憂いの色が濃く、見ているこちらの心まで掻きむしるようだった。 ラルのそんな表情は初めてみる。 ケイガの文書に関して周囲から何かしら責められているのだろうか。 怒鳴り声を上げて突入してくる者もいるくらいだ。 反発は強かったに違いない。 クオンが目覚めたことにも驚かず、今度は頬を撫でてくる。 まるで存在を確かめているかのようだ。 払いのけることも、かと言って受け止めることも出来ず、ただクオンは困惑の眼差しを返していた。 「ずっと」 ラルは夜の中にひっそりと響く声を発した。 昼間は自信にあふれ、力強いばかりの声だというのに。 そんな声しか持っていないと思っていたのに。 「こうして触れたかった」 染み込んでくるような響き。 だがクオンの中に入り込んできてもそれは痛みにしか変わらない。 「あの時からずっと、望んでいたのはそれだけだった」 言わないでくれ。 クオンはそう願った。 だがラルの言葉を止めることが出来ない。 その音は痛いくせに。苦しいくせに。 この喉を締め付けるくせに。 どうしようもなく優しいのだ。 「他の何を捨てても、構わないほどに」 ラルの言葉を嘘だと、偽りだと捨てられれば良かった。 けれど現にラルは、エルベリルであるにも関わらずケイガをいらないような扱いまでしている。 欲しかったのはクオンなのだから、国ではないのだから。 国など目に入らないようだった。 それは自国に対しても同じで、エルベリルという自分の国に対してもクオン以下の目で見ている節がある。 国核としてそれは許されないことだ。 けれどラルの望みが今告げたことであるのなら。それ以外欲しいものがないと言うのであれば。 ラルの言動は分からないことではない。 けれど、それは。 (私たちは……大きくなってしまった) もしあの時、出会ったばかりの頃に手を取り合って逃げたあの時に。 そのまま二人で逃げ切ることが出来たのなら、もっと違った未来があっただろうか。 クオンはケイガを背負い、ラルはエルベリルを背負い。 国同士として対峙する以外の道があっただろうか。 (けれど、あの時私はすでにさえずりを終えていた) ケイガとエルベリルの決別を決めた、あの会議。 七つだったクオンはすでにさえずりを響かせてしまっていた。ケイガを継ぐことが決まっていた。 そしてその次期国核の目から見て、ラルはすでに特別に感じられたのだ。 綺麗だと、不思議な子だと思うのと同時に。 (この子は国核になるだろうと思った。感じていた) そう、国核は宿命だ。 生まれた時にはすでに決まっている。たとえどんな生き方をしていても、どんな出会いをしていたとしても。 とうに決められていた。 (どこにも逃げられない。今も、たとえ過去であっても) だからラルはこの方法を取った。 多くの犠牲を払い、多く傷を付け。憎しみを生むことになっても。 クオンを手にするために、戦を勃発させた。 「私にそんな価値はありません」 失われていった命を、殺されていった無念を思うと、ラルの気持ちに頷くことなど到底出来はしない。 喜ぶことなど出来るはずがない。 たとえこの身体の芯が震えていても。 クオンの足元には、クオンの心臓には。 自分を慕って死んでいった人々の死がある。 「欲しいと思う気持ちは、価値なんて求めはしないよ」 そんな問題じゃない。 ラルはそう告げる。 どんな言葉で自分を宥めようとしても無理なのだと、突き付けるようだった。 「この欲は、この願いは心臓に埋め込まれたものだ」 それは死ぬまで止められないということだ。 殺すまで、殺されるまで。 (終わらない) 見つめ合った視線を更にきつく結びつけるかのように、ラルは顔を寄せてきた。 何をするつもりなのか。察しは付いた。 それを受け入れるべきではないことも。 だからクオンはとっさに手を伸ばしてラルの身体を押し返そうとした。 けれどその手は頬を撫でていた手に捕まって、唇は重ねられた。 あったかく、柔らかく、そしてどこまでも。 痛い感触。 口付けは親愛の形なのだと、子どもの頃に教えられた。 好きな人と口付けると、幸せな気持ちになれる大切なことなのだと。 けれどクオンは泣きたいくらい苦しくて、鼓動が叫んでいた。 (殺して欲しい) お互い、目を閉じることはなかった。 目を閉じてしまえばその瞬間に、世界が崩壊するのではないかと思った。 この人の手はクオンの部下を殺し、この人の瞳は自国の滅びを眺め、この人の口が戦を望んだ。 クオンから多くのものを奪った。蹂躙した。 大切な人々は無惨にも切り裂かれ、塵のように放置され、焼き払われ。何の尊厳もなく、捨てられた。 それぞれ必死に一生を生きてきた、大切な命たちが。まるで屑のように扱われた。 同じようにクオンも殺してくれれば良いのに。 そうすればこの心は何も思わず。 躊躇いもなくこの男を憎んで、死んでいった。 こんな熱に躊躇うこともなく。こんな。 (世界が死ぬことまでも、願うことはなかった……) いっそ全てが死に絶えればいいと願うこともなかった。 |