一章 5 ベッドから降りる際、足がぐらついた。 けれど膝を折ることもなく一歩踏み出すことが出来たのを確認して、そのまま歩くことにした。 ずっとベッドの上で横たわっていた身体は歩くことに酷く抵抗があるようだった。 全身は一度収まっていた痛みをぶり返してくる。 数日間歩かなかっただけでこれほど身体が重くなるとは。 (こんなに長時間寝込んだことがなかったから分からなかった) 「クオン様っ」 ネフィはベッドから降りて歩き始めたクオンに驚いたようだった。 寝室に入って来ると慌てて駆け寄ってくる。 手には何やら水の入ったグラスがあったけれど、それを近くのテーブルに置くとクオンの身体を支えてくれる。 「どうなさったんですか」 さっきまで、朝まで大人しく寝ていたのだ。 けれど唐突に歩き始めたことに動揺しているようだ。 「身体が動くようになってきたから、歩こうと思って」 筋力は放置しておけばどんどん劣っていく。 このままではろくに剣も振るえなくなるだろう。 ラルはそれを願っているのかも知れないが、けれど一人で満足に歩けないようでは人として困る。 「ですがハウ先生はまだ駄目だと」 毎日訪れる医師はまだ安静にしていなさいと言っていた。 危機的状況はとうに回避出来ているのだ。 いつまでも眠っていて良いものではない。 ケイガにいた時は日々忙殺されていたので、時間の有り余っている日々というのが居心地が悪くて仕方がないというのもある。 「だが身体は動けるようになってる。いつまでも寝付いていられない」 「しかし」 ネフィはいい顔をしなかった。 けれどその腕はクオンの腕をしっかりと支えてくれる。ゆっくりとしか歩けないこの足を気遣うようにして、歩調を合わせてくれた。 こうしているとネフィはクオンより少しばかり背が高いようだった。だがラルよりかは低いだろう。 (私が低いのかも知れない) クオンはケイガでもやや低い身長だった。国核は、身体が最も優れている、これで良いと思われる年齢で成長を止めるのだが、クオンの場合はそれが人より早かった。その分身軽で素早さがある。 「この部屋は寝室だけ?」 クオンはずっとベッドの上にいたので、ベッドから眺める光景以外を知らない。 人々はドアの向こうからやってくるが、その向こうに何があるのか分からないのだ。 寝室には一通りのものがあり、風呂まで付いていたのでここで生活が出来ていた。 食事はネフィが運んできていたので、おそらく城で作られているものなのだろう。 「いえ、続きで部屋がいくつかあります。ご覧になられますか?」 「いいの?」 クオンはここに閉じ込められている人間だ。 動きは制限されているはずだが。 「貴方の部屋です」 ネフィはもちろんという顔で頷いた。 そして寝室のドアにゆっくり近付き開けてくれる。この寝室には鍵がかかっていない。だがその前段階で多くの扉が鎮座していると聞いている。 扉の向こうには大きな窓から陽光が差し込んでいる穏やかな光景があった。 ケイガで暮らしていた時の自分の部屋より、随分前に亡くなった母親の部屋を思い出す。 落ち着いた色調の家具に、白いテーブル、椅子、広々とした空間には鉢植えの植物まである。 「物がまだ少ないですが、クオン様の意向を取り入れていこうと思いまして」 ネフィはそう言うけれど、クオンはあまりごちゃこぢゃとした部屋が好きではないのでこれで十分だった。 ただ一つだけ言うとすれば。 「本が……欲しいかなと思うけど」 今でも寝てばかりで時間があまっているのだ。 このままでは頭が呆けてしまうのではないかと恐れている。 「あります。あのドアの向こうは書斎になっておりまして。壁一面に本が並んでます。そして向こう側にはキッチンがありまして。軽いものなら僕が作ります。味にはあまり自信がありませんが」 ネフィはそう言って苦笑した。 (ここは小さな城か) なるほど。とこの部屋の趣旨を理解する。 この部屋だけで、暮らせるように作られているのだ。 ここから出ていく必要がないように、ここだけである程度満たされるように作られている。 柔らかな、牢獄だ。 クオンはろくに動けなくなっていた足を懸命に動かしながら、窓の外を見た。 ベッドからでも窓の外は見られたのだが、ここから見る景色は今までの想像を超えていた。 「……ここは、エルベリルの部屋だと聞いてるけど」 「はい。その通りです」 「でも……それならあれは何?」 窓の外に広がっているのは森のようだった。 広場のようにあまり華やかではない空間が少し広がっているかと思えば、その先には背の高い木々が植わっている。 これではまるで森の中に立てられた小さな家のようだ。 「ここは外壁の内側です。木々の背が高いのでまるで森のように見えるも知れませんが。エルベリルの城の中です」 城の中に庭があるのは珍しくない。 だがクオンが知っている庭というのは木々があったとしてもそう高くないものであり、花や実を付ける物を主として植えている。それに何より木々よりも多いのが小さな草花たちだった。 「この空間はラル様が子どもの頃から欲しがっていた隠れ家のようなものです。華美なものは嫌がられたので、素っ気ないものになっていますが」 昔はよくここで遊んでおられたそうですよ。とネフィが語る。 小さなラルがここを走り回っていた。 きらきらとした金色の髪をした子どもの笑顔を思い出すと、やるせなさが込み上げてきた。 どういう感情であるのかは分からない。ただ胸が締め付けられた。 「あの人が国核では、貴方も大変だ」 込み上げてくるものが何であるのか考えたくなくて、口からは皮肉のようなことが出てきていた。 「面白いですよ」 ネフィは他国の国核を丸投げされたというのに、笑みを浮かべながらそんなことを言う。面白いだなんて、度胸があるのか、楽天家なのか。 「兄も楽しんでいるようです」 「お兄さんがいるのか」 ネフィの口から兄弟の事を聞いたのは初めてだった。 「ラル様の後ろにいつもいるのがうちの兄です」 そう言われ、なるほどと内心納得した。 そういえばラルの後ろに控えているジェダという男は、ネフィにどことなく似ている。 だが今まで兄弟だとは思わなかった。その理由は目の色だ。 ネフィは翠の中に黄色がやんわりと混じっている。黄緑に近いような色だ。けれどジェダの瞳は黄色のない翠。 おそらく片親が違うのだろう。 「そういえば顔立ちが似ている」 「腹違いなので、兄弟と言っても半分ですが」 ラルの近くに控えられるほどなのだ。ネフィもジェダもある程度地位のある者なのだろう。ならば母親が違う兄弟というのも珍しくない。 「クオン様にもご兄弟がいらっしゃいますね」 「妹が一人。六つも年が離れているけど」 父は母以外の女性を自分の妻にすることを厭った。 なので妹とは完全に血が繋がっている。そして二人だけの兄弟だ。 母は身体の弱い人だったので、妹を生んだ時にはかなり身体に負担がかかったようで、もう兄弟は望めないだろうと言われた。 「兄弟は年が離れている方が可愛いらしいですね」 「そうかも知れない」 自分より小さなものは守らなければいけないと思った。それにたった二人だけの兄妹だ。 まるで自分の身を分けてきたかのように思った。 そしていつも自分に伸ばされてきた小さな手をそっと包み込むと笑ってくれて。 (セキエ……) たった一人の妹。 今はどうしているだろう。 いつの間にか泣かなくなって、強がりばかり言うようになって。 それでも今は。 (隠れて泣いてるかも知れない) この目の届かないところで。一人。 沈んでいく気持ちを笑うかのように、足音が聞こえてきた。 壁づたいに歩いていたので、ドアが開かれた時入ってきた人の身体は目の前にあった。 ラルはクオンを見ると驚いたようで翠の瞳を見開いたが、すぐに不機嫌そうに表情を変えた。 「何を?」 ラルはクオンではなく、クオンを支えているネフィに向かって問いかける。その声はやや低く、冷たさが混じっているように聞こえた。 「動けるようになったので歩いていたのです。寝たきりになるなんてごめんですので」 ネフィが答えるより先にそう言った。 ベッドに縫いつけられるなんてまっぴらだと言いたかったのだ。 たとえラルにとってはその方が都合が良いとしても。 「そう。回復が早いね」 ラルはそう言いながらも、クオンの身体に触れた。 どうするつもりかと思っていると、ネフィからクオンの体重を受け取っているようだった。 ネフィが支えていた腕を、今度はラルが掴む。 エルベリル自らがクオンを支えるなんて、そんな雑用をする必要はないだろう。 あまりに意外で断る間を逃してしまった。 ネフィはそのことに違和感はないようで、すんなりと従っている。 それはラルに続いて部屋に入ってきたジェダも同じようだった。 「あの……」 「いいから」 惑うクオンに構うことはなく、ラルは椅子にクオンを促す。 そしてクオンが腰を下ろすと浮かんでいた不機嫌さは消えていた。代わりに淡い笑みがいつも通りに浮かんでいる。 訳の分からない人だ。 (どうしたのだろう……相変わらずよく分からない) ラルの言動の大半は、クオンには理解出来ない。 ネフィは紅茶を入れてくると二人が向かい合っているテーブルに静かに置く。そして二人から少しばかり離れた場所に立っていたジェダの傍らに並んだ。 そうしていると確かに似通った所が幾つもあった。 しかし二人から受ける印象は大きく異なっており。ジェダは淡々としてやや冷たい感じだが、ネフィは微笑みを浮かべてとても穏和な人柄に思えた。 兄弟でこうも感じる雰囲気が異なるとは。 「先日、ケイガから文書が届いてね」 ラルは紅茶を片手に世間話でも始めるようにそう切り出した。だがクオンからしてみれば重大なことだ。 ケイガの文書と言われるくらいなので、あの国の正式な声明だろう。 だがケイガそのものであるクオンがここにいる以上は、正確な文書とは言えないのだが。そんなことにこだわる者はもうどこにもいないだろう。 「内容は、君を返して欲しいとのことだ」 ラルはうっすらと笑んだ。けれどその瞳は刃のように鋭いものだ。 どこか怒気すら含んでいるように見えて、真っ正面にいたクオンの背筋がぞわりと粟立つ。 ラルはその要求が許せないのだろう。 無理もない。 わざわざこんなところを用意して、丁重に扱っているクオンを返せと言われているのだ。戦に負けたくせに何を望んでいるのかと、思っていることだろう。 「君に会いたいと。死体であっても何であっても構わない。そう切々と書かれてあったよ」 僕が殺すと思っているんだろうね。とラルは嘲るように告げる。 それが国核の本来の役割なのだ。 ラルが特殊なだけで、きっとケイガの人々はいつクオンが殺されることかと恐れていることだろう。 国核が死ねば、国核と僅かでも血が繋がっている者たちの間でさえずりと喪失感が走る。クオンも父が亡くなった時に耳のすぐ近くでさえずりが聞こえ、心臓が引き抜かれるような喪失感を味わったものだ。 その瞬間をケイガの民は、セキエは恐怖しているのだ。 「絶対に返さない」 ラルはそう呟いた。 その視線はクオンから外されており、ふてくされたように横目で窓の外を見ていた。 ケイガを睨み付けているかのようだった。 next |