一章   4




 しっかりとした作りの椅子に身体を投げ出すようにして座った。
 微かに椅子がきしんだようだったが、それはまさにこの身体を現しているようだった。
 朝、目が覚めてからやることが山積みになっている生活。身体はとうに悲鳴を上げている。無理もない。本来ならまだベッドにいるべき状態だと、ハウには言われているのだ。
 医者が言う以上従うべきなのだが、ラルはじっとはしていられなかった。
 自分がベッドで横になっている間に、次々と決まっていく事柄があるのだ。その事柄の中には、決して譲れないものが幾つも含まれることだろう。
 それを黙って見ていることなど出来るはずがない。
 なのでラルは行われている会議全てに出席をし、己の意見を完全に通してきた。
 細々とした物事も全てだ。
 今までなら小さなことなら他の人間に丸投げするのが常だった。国を一つ動かす上で決めなければならないことは多すぎるのだ。
 けれど今はその多すぎること全てを請け負っていた。
 何かも戦に絡んでいるからだ。刃を交え、多くのものを犠牲にしてようやく手に入れた彼に繋がるものばかりだからだ。
 気を抜くことは出来ない。
 いつどんなことが、彼の身に降りかかる厄災になるか分からない。
 万全を尽くすためにも、今は働かなければならないのだ。
 血を吐いたとしても。
 しかしこれほど根を詰めて働くと、動きたくても身体が言うことをきかなくなってくる。
 こうしている間も、瞼が降りてくる。
 もう目を閉じて眠ってしまえと言われているのだ。
 だが椅子で眠ると余計疲れてしまう上に、頭の中で処理しきれていないものがすぐ近くのテーブルに広げられている。
(あー、ゆっくりしたい)
 本音が零れてしまいそうだ。
 すぐさま彼の部屋に行って、彼の存在を確かめて、安堵した後に眠りたい。そして丸一日くらい彼と一緒にいたい。
 たとえそれで彼の態度が頑なで冷たいものであっても構わない。
 罵声を浴びせられても平気だ。
 だってその間、彼はこちらを見つめてくれている。
(側にいれば、彼は僕を見てくれる)
 まるで惹き付けているような気がして、眼差しを向けられているという事実だけで口元が緩む。
 目が合う。
 触れられる。
 たったそれだけのことを叶えるために、どれほど膨大な時間と労力を要したことか。
(過去のことを考えても仕方がない)
 もう終わったことはどうしようもない。
 これからのことを考えていけばいいのだ。
 幸い彼は生きたままここにいる。
 ならば後はどうとでもなるのだ。彼がいてくれるのなら、どんなことがあっても目を閉じることなく生きていける。
 そう思っていると、控えめなノックが聞こえてきた。
「どうぞ」
 怠く答えると「失礼します」と声がしてドアが開かれた。
 そこにいたのはネフィだ。
 彼の側に置いて、世話を任せている。
 この国にとっても、ケイガにとっても、非常な重要な意味を担っている彼の世話をする人間は信頼のおけるものである必要があった。
 決してラルを裏切らない者。
 その筆頭に置けるであろう人はネフィではなかった。
 兄であるジェダだ。
 ラルが座っている椅子のすぐ横に立って、書類に目を通している男は物心ついた時からラルと共にいる。
 そして子どもの頃からずっとラルに仕えることを誓約している相手だ。
 その契約は破られることが許されず、もし破った場合はどんな理由があったとしても殺される。
 たとえ契約相手のラルが死んでいたとしても、エルベリルという国がそれを執行するのだ。破棄されることは許されないとしている。
 エルベリルがエルベリルで有り続けるための誇りを持って、その契約は絶対であると決められているからだ。
 その契約を交わしている上に、ジェダがラルを裏切って良いことは何もない。
 己の全てをラルの上にかけている男だ。
 そのジェダをこの上なく慕っているのがネフィだった。
 二人は腹違いで、ネフィが十近くになるまで二人は会ったことがなかったらしい。そして初めてみた弟の姿にジェダは驚いたと言っていた。
 ネフィの生活は酷く貧しく、また荒れたものだったらしい。
 ジェダの父親の愛人であった、ネフィの母親はある時失踪してそのまま行方が分からなくなっていたのだが、街の片隅で非常に苦しい暮らしをしていたそうだ。
 城の中で豊かな日々を送っていたジェダには想像も出来ないような。
 そこから連れ出してくれた兄を、ネフィは敬愛しているようだった。
 自分が生きているのはジェダがいたおかげだ。ジェダのためなら命を棄てることなど厭わない。
 ネフィは笑顔でそう告げる。
 そのジェダを従えているラルに対しても忠誠を誓っている。
 もしその忠誠に違えることがあれば、ラルはジェダを殺すと言っている。
 ネフィにとっては何より恐ろしい脅迫だったようで、その時顔が青ざめていたのを覚えている。
 そんな反応を見て、ネフィに彼の世話をさせることを決めた。
 ジェダにはいつも手足のように動いて貰っているので、今側から離れられるととても仕事がし辛い。それに身の回りの雑用が得手な男ではなかったのだ。
 表情も決して豊富とは言えないので、様々なことを考慮してネフィに付き添いを命じている。
「クオンはどう?」
 ネフィには毎夜、その日の彼の様子を報告させている。
 容態、表情、行動。気になることがあれば細かに告げること。
 本来ならラルがずっと側にいたいほどなのだ。
「大人しく眠っておられることが多いです。食事も少しずつ食べられるようになりました。欲しいものは今のところないとのことです」
「そう」
 ネフィの報告はいつも通りだった。
 ラルよりも酷い怪我をしているクオンはまだベッドから降りられないようだった。無理もないだろう。死ぬかも知れないというほどの大けがだった。
 いくら常人とは比べものにならないほど頑丈で、回復力の強い国核であっても限度があるだろう。
 しばらくはゆっくりして貰おう。
 ここに運んできた当初は痛み止めの注射を打ち、眠らせるだけで精一杯だった。
 激痛で呻くクオンの姿は痛ましいものだった。ラルが傷付け、殺そうとしたのだがあの姿は精神的に随分辛かった。
 それが食事を取るようになったのだから、安堵の息もついてしまう。
「ラル様。お顔の色がよろしくありません」
 ネフィはそう言って表情を曇らせた。
 その気遣い柔らかな声音をもって告げられる。普段はこれがクオンに向けられていることだろう。
「これだけ働いて良いはずもない」
 それに比べて兄であるジェダの淡々としていること。やっぱりこの男にクオンは任せられない。ケイガから連れてこられて、閉じ込められているクオンにジェダの冷淡な声は厳しいだろう。
 幼い頃から一緒にいるラルには、とうに慣れたものだが。
「まあそうだろうね。そうとも。働き過ぎだとも」
 そう言っては口元を歪めた。そしてテーブルの上にある紙を睨み付ける。
「ましてこんなのが今来たら、気分もいいわけないよね」
 睨むその先にはケイガの紋章が刻まれた封筒。そして流暢な文字で綴られた手紙がある。
 今日の午後。日が暮れる頃になってラルの元に届けられた文書だ。
 それは現在ケイガを支えているという上層部と、クオンの妹からだった。
 内容の半分以上がクオンのことに関することで埋まっている。
 今クオンはどうしているのか。公開処刑をしないと言っていたが本当か。もし前言を撤回し殺すのであればその死体を返して頂きたい。宣言通りに殺さないというのであればなんとかクオンを返して頂けないか。人質が欲しいというのであれば代わりの者を用意する。クオンはケイガにとっての要であり、クオンという国核なしに国は成り立たない。
 どうしてもクオンを返せないというのであれば、ケイガからそちら人を送るのを許して欲しい。クオンはケイガで生まれ育っている。エルベリルで一人暮らすのは不憫で仕方がない。
 そして出来ることならクオンからケイガに文書を送ることを認めて下さらないだろうか。この国はクオンの存在を確かめずに、曖昧なままでは戦から立ち上がることも出来ない。
 そう切実な言葉で書かれてあった。
 それが文書の前半だ。
 後半はこちらから出した条件に対する確認と問いかけだ。内容の良さに戸惑っているのを感じたが、そんなことはどうでもいい。
 というより前半の願いに神経が逆撫でされ、条件を厳しくしてケイガを潰してやろうかとすら思ってしまう。
「必死な内容ですね」
 ジェダにも文書を渡して目を通させている。文書から伝わってくる切望は、ジェダにもしっかり理解出来ただろう。
 ラルはその文書を掴んでネフィに突き付けた。機密にするべきものなのだが、ネフィはクオンの世話を任せる前はジェダと同じように仕事の手伝いをして貰っていたので内情はよく理解していることだろう。
「クオンに関する願いは全て拒否する」
「全て、ですか」
 ジェダが確認を取るので、はっきりと頷いた。
「全部だよ。何一つ頷いてやるものなんてない。大体僕はあの国からクオンを切り離すために戦までやったんだ」
 戦が無駄であったとは言わない。だがこれほど事を急いて戦を望んだ理由はたった一つだった。
 クオンが欲しい。
 初めて逢った時からずっとそれだけが願いだった。
 だがその願いは容易に叶えられるものではなかった。クオンはケイガの国核だったし、ラルはエルベリルの国核になった。国核を無理矢理もぎ取るなんて芸当が許されるはずがない。
 これが国核でなかったのなら、ラルは何としてでもとうにクオンを自分の手元に置いただろう。たとえ国核直属の家族であっても、片腕であっても、どんな手段を使っても奪った。
 しかし国核だったのだ。最も奪えない、宿命の者。
 残酷な現実の前で膝を折り、諦めた方が楽であることは理解していた。その方が穏便にいくのだと。だがラルは穏便な生活も、人々に讃えられる国核である必要も感じなかった。
 本当に欲しい者一つ手にいられないで、何のために生きているのか。
 自分は国核だ。だが国核である前に生き物であり、一つのものに渇望する命だ。
 その飢えを無視することは、死ぬことと等しいと感じた。
 だから戦なんて手まで使ってクオンを手に入れた。
 罵りも侮蔑も憎しみも怖くなかった。何も恐れることはなかった。
 手を伸ばすことを諦めることだけが、恐れだ。
「非常に慕われていた国核ですね。この国は元々国核に対する崇拝が強いとは聞いてましたが」
 ネフィは読み終わると感心したようにそう言った。
「厄介な国だ。忌々しいね」
 クオンが崇拝に足る国核であったことは、人格の面からすれば喜ばしいことだろう。けれどラルの個人的な気持ちからすると。
 ケイガの民の崇拝は全て目障りだ。
「その崇拝のせいで、僕はクオンを手に入れるのに苦労した。そしてクオンはここにいるのにまだ終わらない」
 彼はケイガを思い続ける。心を痛めつづめる。崇拝された分だけ、あの国を慈しむ。忘れずにいる。
 いつまでも国核であることに捕らわれて、ラルだけのクオンになってくれない。
「たとえ国を潰して、ケイガの民一人残さず殺しても、クオンは罪悪感に捕らわれるんだろうね」
「国核としての責任をクオン様はご存じですから」
「貴方とは違って」
 ネフィの台詞に続けて毒を口にするジェダを鼻で笑った。
「こんな呪いをかけられた上に責任を感じて国の繁栄につとめるなんて、そんな自虐的な趣味は僕にはないんだ」
 国核の継承は呪いだ。
 誇りを持つことでも、恩寵でも何でもない。これは、戦い続ける国々にかけられた呪いだ。
 クオンはそれを甘んじて受け、国に隷属していたようだが。
(まっぴらごめんだね)
 エルベリルが自分を国核に選び、国のために働けと命じるのであれば。反対に国を利用して己の望みを叶えてやる。
 隷属するだけの国核ではない。
(こんなこと言えば、君はまた怒鳴りそうだ)
 国核失格だと言われるかも知れない。だがそうして感情をむき出しにしているクオンを見るのは楽しかった。生々しい彼の感情は、何であったとしても見てみたいのだ。感じていたい。
 怒りであっても、彼の心の叫びだと思うと心地よかった。
(早く、全てから隔離したい)
 他の些末なことから全て切り離して、ラルだけがクオンの世界の全てになれば良い。いや、そうするのだ。
 そのために動いているのだから。
 願いは少しずつ近付いている。
 そう思うと身体の痛みと怠さが少しだけ遠のいていくようだった。



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