一章   2




 まるで囲われている愛人のような扱いをする。
 それに甘んじろというラルを睨み付けた。
 国核として一国を背負い、その責務を果たしてきたクオンにとってそれは酷い侮辱にしか聞こえなかった。
「死んだ方がましですね」
 ここで首を斬られたほうがましだ。
 それならばまだこの誇りは保たれる。
 国核として死ぬことが出来る。けれどこのまま生きていれば、その誇りは地に落ちることだろう。
 ラルはクオンが突き付けた言葉に笑みを深くした。
「でも君が死ぬようなことがあれば、僕はケイガの民を一人残らず殺してしまうよ?」
 残虐極まりないことを涼しげに言いながら、ラルは足を組み直した。
 クオンの脳裏に嬉々として生活を送っている民たちの姿が蘇ってくる。
 彼らが、戦場では必死になって国を守っていた彼らが、一人残さず殺される。
「君が自らを傷付けても同じことをする。君が自分で傷を付けた分だけ、民を殺していく」
 己の身体は、己の存在は国そのものだと思っていた。
 国核になった時から自分はケイガという存在であり、国そのものなのだと。
 けれどこんな形で、そんな方法で知らしめられるなんて想像もしていなかった。
「確か君には妹がいたね。とても仲が良いって聞いているけど」
「あの子に何かするつもりなら、私は貴方を決して許さない」
 ラルが最後まで口にする前に遮る。
 その先は聞きたくない。きっとおぞましいことを言うつもりだ。
 たった一人の血を分けた妹に関することなど想像もしたくない。
 あの子が傷付くところを考えただけでも、目の前にいる男の首に噛みつきたくなった。
「君が変な気を起こさなければ何もしないよ」
 その台詞はクオンの耳には軽く聞こえてくる。情のない響きで言い付けた男の言葉を信じろという方が無理だろう。
「貴方が、貴方の部下が、エルベリルの人間が。あの子に危害を加えるようなことがあれば私はどんな手段も厭わない」
 こんな動かなくなった身体と、監禁されている状態でそんなことを言っても嗤われるかも知れない。だがクオンの中には殺気がふつりと沸いていた。
 今すぐにでもこの身体を無理矢理動かして、ラルに襲いかかるだけの気力は奮い立たせられる。
「…分かった。命じておくよ」
 ラルは笑みを消した。そうして静かに頷く。
 ようやく真摯な態度をとったように、クオンの目に見えた。
「君がここにいてくれれば、誰にも何もしないよ」
 そんな必要もない。とラルはそのことに関してはあまり興味がなさそうに言った。
「人質ですか」
 クオンはそう言いながら、そんなことはおかしいだろうと思っていた。
 殺すべき国核を殺すことを厭い。その命が落とされないように条件を付けるなんて。
 国核とは言え、一つの命には変わりがない。その一つの命と国全体を天秤にかけるなんて。その上たった一つの命の方を重く見るなど。
(正気の沙汰じゃない)
「おかしいとは思わないのですか」
 その執着は、そのやり方は異常だと自覚はないのだろうか。
 きっと周囲はおかしいと言っているはずだ。
 今はラルの後ろに控えている男二人も、心の中ではこれが不自然であると理解しているはずだ。
「おかしい、ねぇ……」
 ラルは苦笑を浮かべた。
 含みのある言い方に、クオンはぐっと身構えた。何を言うつもりなのかと。
「では正常とは何だろう。正しさで何が得られるの?」
 穏やかであるとすら言えるような響きだった。
 だが告げられた内容には、答える言葉がなかった。
 正しさで得られるものは何であるのか。
 クオンは己が正しいと思う道を歩んできた。進んできた。だがその先に待っていた現実がこれだ。
 戦を起こし、敵国に負け、檻の中に放り込まれている。
「その中に君は含まれていない。君が手に入らないのなら、そんなものはいらないよ」
 本当に欲しいものが得られないのなら、正しさも何も要らない。
 そうして全てを断ち切れたなら、思うように生きていけたのならどれだけ自由なのだろう。
 どれだけ、身軽だろう。
 だがクオンはそれが出来なかった。正しさに捕らわれた。捕らわれていたかった。
 そうすることで周囲は、人々は安心を手に入れていたから。
「……いつか、エルベリルは、この国は壊れる。国核がこれでは…」
 皮肉を口にする。
 負け惜しみだと思われても良かった。それが本心だったからだ。
 私欲に駆られた国核を持った国がどうなるのか、前例は幾つもあるのだ。
 そしてそれはどれも同じ道を辿っている。
 エルベリルもそう遠くない未来、その道を辿ることだろう。
「いつかなんて時は存在しないんだよ」
 ラルはそんな皮肉にも笑みを浮かべた。
 稚い子どもが他愛もない事を口にしたように。優しく言い聞かせているようだった。
 その優しさが今は背筋が粟立つほどに歪だ。
「あるのは今だけだ」
 この時だけだ。
 声音を荒らげたわけではない。だがその声は突き刺さってくるようだった。
 きっとラルはそう強く思っているのだろう。刻みつけるように。だからクオンの中にまで傷を付けていくのだ。
(この時だけ。今だけ…)
 それは何故か奇妙なまでに蠱惑的に聞こえた。
 どんな魅力があるのか分からず、ただ震え始める何かに怯える。
 ラルは身体を傾けてはその手を伸ばしてきた。
 骨の目立つその指が、頬に触れる。
 乾いている指の感触。
 体温がこの肌に伝わってくる。
 クオンを殺そうとしていた手。今は殺したくないと言う手。
 ケイガを搾取する、クオンを優しく撫でる指。
 この人は。
 この手は。
(なんて残酷なのか)
「今日は目覚めたばかりで気が立っているんだろうね。落ち着くまで動いてはいけないよ」
 どうしてそんな慈しむように告げるのか。
 何故そんな包み込むように。
 いっそ殺して欲しいと願っているのに。
 何故。
 悲鳴を上げてしまいそうだった。だがラルの眼差しが、そんなことすら許してくれない。
 目を背けることも、この指を払いのけることも許してくれない。
「何でもネフィに申し付けて。僕が子どもの頃から側にいる者だ。信用出来る」
 クオンが目を開いた時に側にいた男が頭を下げた。
 ネフィという名前らしい。
「申し付ければ、僕のところまでちゃんと届くから」
 そう言ってラルは指を外した。
 離れていくその体温が、その瞬間がゆったりと感じられた。
 そこだけ時が流れを変えてしまったかのようだ。
 まるで引き留めようとしているかのような錯覚を覚えてしまう。
 そんなことがあるはずがないのに。
「それじゃ、明日もまた来るから」
 おやすみ。そう言い残してラルはここに来る時も共に来ていた男と一緒に部屋を出ていった。
 遠ざかる足音に、溜息をついた。
 身体が痛い。だが本当はもっと別の部分が痛いような気がした。



 真冬の雪がちらつく、寒々しい光景の中で光のようにその子は現れた。
 金色の髪はきらきらとしていて、とても綺麗だった。
 ケイガではその色の髪はあまりおらず、珍しくてじっと見つめてしまった。
 その子の瞳はとても生き生きとした翠で、笑うとさらに輝いた。
 鮮明に覚えている遠い記憶。
 その思い出だけはこの心の中に刻まれて忘れられない。
(いっそ忘れてしまった方が幸せだったはずなのに)
「これでいいと思っているのか?」
 硬い口調でクオンはそう問うた。
 クオンの世話をしてくれているのはネフィという一人の男だった。他に人はいない。
 敵国の国核を世話するのに人数は割けないということだろう。
 だがそのネフィという男はよく働いた。
 聞くところによると以前はラルの身の回りの世話をよくしていたらしい。手際も良く、人の望みを敏感に察知してくれる。
 まだ出会って数日しか経っていないというのにその察しの良さには感心してしまう。
「僕はエルベリルに従うまでです」
 穏和な物腰の人はやはりやんわりとした響きでそう言った。
 この人がもし女であったのなら、きっと結婚したいと切望する男は多かっただろうと思われるほど穏やかな態度だ。
 まめまめしく働き、見目も良い優しげな人。クオンが尋ねたことに関する答えも、己の立場をわきまえている。
「国が傾く。あの人は危険だ……」
 自分のことしか考えていない国核ほど恐ろしいものはない。
 欲に目が眩んで国を振り回して、疲弊させるのだ。
「そんなことはありません。エルベリルは栄え始めていますよ」
 元々はこの国もさして大きくはなかったのだ。
 ケイガと同じくらいの領土だった。
 だが少しずつ周囲を飲み込み始めた。
「主に、戦によってですが」
 ネフィはそう継ぎ足す。
 そう、エルベリルは戦に長けている国だった。
 特に先代と現国核は戦によって急激に領土を広げてきた。
 いずれケイガにもやってくるだろうと思われていたが。予想よりずっと早い段階で手を出された。
 戦のことを思い出すと自然に眉が寄る。
 ケイガは今どうなっていることだろう。
 きっといつ国核が殺されるかと戦々恐々としていることだろう。そしてエルベリルからどんな要求を出されるか、領土の吸収はいつになるのか。
 戦の代償としてどれだけの戦人が殺されることか。その中に誰が入るのか。
 きっと怯えている。
 ずっと共に暮らしてきた人々の顔が思い浮かんでは、一刻も早く国に帰りたいと願う。
 だがそれが受け入れられることは決してない。
「ケイガのことはラル様がもうじきお話になられると思います」
 ネフィは自国の国核を国名で呼ばなかった。
 ラルの後ろによく控えている男もそうだ。
 身近にいる者たちはエルベリルではなく、ラルと呼ぶように言われているのかも知れない。
 ケイガのことに関して他人から情報を貰わなければならないなんて。
 負け戦の結果は全て皮肉にしか聞こえてこない。
「今はまだ結論が出ていないそうです」
 おそらく国の会議でケイガの今後について話し合われていることだろうが、ラルの言っていたことでは誰も納得しない。
 国核を生かしたまま属国にするなんて生やさしい態度では何のための戦だったのか分からない。
 侵略しなければ、支配しなければ、その豊かさを奪い尽くさなければ戦の痛手は癒えないのだ。
 ケイガを守ると言うことはエルベリルの傷と疲労を残したままになる。
 今エルベリルの民たちは戦の傷を癒したいと思っているだろうに。
(あの人は国核としての在り方を問いつめられるだろう)
 こちらに向かってくる人の音を感じながら目を伏せた。
 たとえどんな結論をラルが持ってきたとしても。
 ケイガは、この身の行く末は。
 闇へと落ちることだろう。



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