一章   1




 痛みで目を覚ました。
 現実なのか、まだ眠りの中なのか曖昧な状態を何度も経験しており、今もどちらなのか分からなくなりそうだった。
(……生きている……のか?)
 うめき声が口から零れる。
 すると誰かが腕を取って、何かを突き刺しているのを感じた。そうするとしばらく後にゆったりと痛みが引いていった。
 虚ろな意識の中で、何を打たれているのだろうかと思った。
 敗戦した国核の身に打つものなんて、きっとまともなものではないだろう。麻薬の類だろうか。
(このまま理性を失って、発狂して死んでいくのか)
 そんなことをぼんやりと思っていると案の定痛みは引いていった。
 だがこの時は眠気が薄く、そろそろ薬に耐性がついてしまったのかと思った。
 鮮明になっていく視界の中で全く知らない部屋が見えた。
 しっかりとした作りの綺麗な部屋だ。丁寧に作られたと思われる装飾が所々に配置されている。だが決して華美ではなく、落ち着いた雰囲気の空間だ。
(……檻じゃないのか……)
 ここはどこだろう。
 牢獄に入れられてもおかしくない立場にいるはずなのに。
「……お目覚めですか?」
 ベッドの傍らに男が立っていた。
 心配そうな表情を浮かべている。年は二十歳頃だ。顔の作りは整っており、優しげな容貌だ。
 髪の色は金色というより柔らかな黄色。瞳の色も黄緑寄りの翠だ。
 あの人ではない。
 そう分かって、安堵しているような一層心が渇いていくような、相反する気持ちが沸いてくる。
「ここは、どこですか」
 声は掠れていた。
 喋るのはとても久しぶりのような気がした。
 何日寝込んでいたのか記憶してもいないのだ。
 身体は動かすことが出来ずに、ただ男を見上げた。
「何故、生きているのですか」
 どうして殺されていないのか。
 戦に負けた国核は殺されるのが自然だ。そうして国を奪われていく。
 そのための戦だったはずだ。
 なのにどうしてまだ生きているのか。ベッドに寝かされるなんて、なぜそんな待遇を受けているのか。
「ここはエルベリル。そしてこの部屋はエルベリルの部屋から通じている特別な部屋。人からは隠されている、秘められた場所です」
(当然だ…)
 隠されていなければならない。
 ケイガの国核を生かしているなんて知られれば国内から非難の声が挙がる。早く殺せと急かされることだろう。
「公開処刑ですか……?」
 まだ生かしているということは、これから公の場で首でも斬るのだろうか。
 そうして自分の国が勝ったことを周囲に知らしめるのだろうか。
 だから生かされているのか。
「いえ、エルベリルは貴方様を殺すつもりはないと仰っております」
 その言葉にとっさに何かを告げようとして、大きく吸い込んだ息に肺がきしんだ。
「っ…!」
 激痛が走り、息が止まる。
 うずくまることも出来ず、ただ呼吸を整えようとするだけで精一杯だった。
 痛い。とにかく、全身が痛みで悲鳴を上げていた。
「落ち着いて下さい。安静にしていなければどうなるか分からないと言われています」
 安静にしろなんて、無茶な話だ。
 敵国に捕らわれた国核に、心静かにすることなんて出来はしない。今頃自国はどうなっているのか、自分はどうなるのか、それを考えると心臓が止まってしまいそうだというのに。
「国を、どうするつもりか」
 丁寧に話すことも止め、目の前の男を睨み付けた。
 自国は、ケイガにはまだ次の国核の兆しがないのだ。
 国核は現国核の血筋から出ることが大半だ。
 大抵は国核の子どもたち、兄弟から出てくる。国核は人間が決められるものではなく、それはまるで神か何かが決めるかのようにある日突然現れる。
 国核には、国核だけが発することの出来る「声」がある。
 それは人間が発せられる音とは到底思えず、だが他のどんな生き物の鳴き声とも似ていない、特別な響きだ。
 人によってはそれを最上の笛の音色といい、ある者はそれは風の声だといい、ある者は神の鳥の声だと言っている。
 心地よく、耳に澄んだ音であることは違いがない。
 その音を、国核は突然発することが出来る。
 多くは五歳から十五歳までの間に喉を震わせる。それを「さえずり」と呼んだ。
 その「さえずり」をすることで、国核であることが決められる。
 そしてその「さえずり」は国核と同じ血を継ぐ者たちの心臓を震わせ、その者が国核であることを否応なく認めさせるものになる。
 この喉が七つでさえずった時も、自分が国核であることを感じたものだ。
 それはもう頭で考えられる段階を飛び越えて精神に直接納得をさせるものだ。
 偽装は許されなかった。
 ケイガにはまだ次の国核のさえずりがない。だからここでエルベリルに首を斬られれば、ケイガは終わる。
「それはエルベリルからお話があると思われます。お呼びしますのでお待ち下さい」
(あの人が来る)
 どくりどくりと心臓が鳴った。
 戦場で刀を交わし、殺し合ったあの人が。この首に刃を突き付けて自分のものになれと言ったあの人が。
「くれぐれも動かれませんように。お怪我に触ります」
 男は逃げ出されることを心配したようだが、生憎身体は動けそうもなかった。だから黙ってそれを聞いているしかなかった。
 男が出ていって、耳を澄ます。離れていく足音。その他に人の気配はなかった。
 それが少しすると、足音が三つに増えて戻ってきた。
 ドアを開いてまず一番に入ってきたのは、鮮やかな金色の髪をした男だった。
 白を基調とした軍服を着ている。
 その服を以前見たのは決戦の直前の会議だ。公式の場であったので、勲章などが多く飾っている重々しい服だったのだが、今はそれとは違い身軽な様だ。
「おはようクオン」
 翠の瞳が細められる。
 なんて懐かしい名前だろう。
 前国核である父から国核を引き継いでからその名前を口にする者はほとんどいなくなった。時折気の置けない仲の親友が口にするけれど。目の前の男が、その名前を口にしたのは。
(あれは)
 思い出そうとして眩暈を感じた。
 なんて長い年月が経ったのか。そしてその年月を得てもなお、忘れずにいたことか。
 胸がきしんで、潰されそうだった。
「何故……殺さないのですか」
 どうしてそこに立ち、微笑んでいるのか。会いたかったというような顔でいるのか。
 もっと早く、あの戦場で何故殺さなかったのか。
「あの国が欲しいのではないのですか。私を殺さなければ、民は、あの国は手に入りませんよ」
 きしむ肺も構わず続けた。
 戦場で聞いた言葉など意識から放り出した。あんなものを真に受けてはいけない。信じてはいけない。
 あんなものはあってはならないことだから。
 聞いてはならないことだったのだから。
「ケイガの民はまた武器を持って戦になる。私を殺さなければ、戦は終わらない」
 望みを完全に立たなければケイガはまた立ち上がる。誇りのために、自分たちのために、また戦うだろう。
 そうした精神を良しとしている国なのだ。
「そして私を、国核を真に殺すのは同じ国核である貴方の役割でしょう」
 だというのにどうして何もせずにいるのか。
 何故だと突き付ければ、男はいつの間にかベッドの傍らにあった椅子に腰を掛けた。
 表情は揺るがない。
「君が欲しかったから戦をしたんだよ。国は二の次だ」
 がりっと爪で心臓を引っ掻かれたようだった。
 生々しく引きちぎれられる心。
「君が手に入るならケイガに戦を仕掛けようとは思わなかった。でもそれは出来なかった」
 当然だ。当たり前のことではないか。
 国核を国から切り離すなんて出来るはずがない。国核は国そのものだ。それを引き剥がす時は、死ぬ時だ。
「そんなことのために……そんな理由であの戦を」
「そうだよ」
 悪びれた様子など欠片もなく、罪悪感などあるはずもなく。エルベリルは頷く。
 国核であるはずなのに、国を背負っているはずなのに。どうしてそんな身勝手なことが言えるのだろう。出来るのだろう。
「君を手に入れるための戦。君を国から、ケイガから切り離すための戦だ」
 ケイガとは私の名前だ!そう叫んでやりたかった。
 だが逆上する身体の血が、激痛を走らせては声を止めてくる。
「そのために多くの犠牲を払ったのか…!」
 目の前で力尽きる民の姿を、首を失った民の姿を、血塗れでケイガを呼んで死んでいく民の姿を、この目に焼き付けている。
 全て愛おしい民たちだ。
 ケイガを支え、慕ってくれたかけがえのない民たちだ。
 その命が失われた理由が、そんなものだなんて。
「それは国核のすることではない!私欲にかられるなんて!」
 痛みに苛まれながら叫んだ。
 叫ばずにいられなかった。
「自分の欲のために皆が死んでいったとは思わないのか!」
「いったね。多くのものが死んだよ」
 男は平然と、口にする。何の感慨もないかのように。
 命になど価値はないと言うように。
「エルベリル!貴方は国核だろう!」
 何故国を思わない、民を思わない。そんな風に、一人で生きてきたかのような顔をするのだ。
 足元には多くの人がおり、その人々が自分を生かしてくれているのだと、何故思わない。
「…知ってるとは思うけど。僕の名前はラルって言うんだけどね」
 やや気に触ったようにそうラルは言った。
 だがエルベリルであることに変わりはないはずだ。この男は国核なのだから。
「私欲に駆られた愚行のように君は言うけれど、僕の国を豊かにするためでもあったんだよ」
 エルベリルは二、三年前から水などが不足して作物が枯れていったと聞く。
 川が細くなったそうだ。
 確かにここ数年雨は少なくなったけれど、ケイガには豊かな川があり水不足だという認識はあっても警戒するほどではなかった。
 だがエルベリルにとっては危機的に状況だったのだろう。
 その水を目指して、きっとエルベリルはケイガを支配していく。
 エルベリルが豊かになればなるほど、ケイガは痩せていくことだろう。
 それが負けるということだ。
 込み上げる憤怒を押し殺す。ここで怒り狂ったところで動けない身体に遮られるだけだ。
「……私を殺さずに、どうなさるおつもりか」
 国核が生きたままでケイガは吸収出来ない。領土は広げられない。
 豊かさを搾取するのだろうが、それだけで果たしてエルベリルの人々は納得するのか。
「君はここにいて。もう僕のものだ」
 ようやく聞いて欲しいことを口にしてくれた。そんな顔でラルが言う。
 クオンがこの台詞を出すのをずっと待っていたようだ。
「奴隷ですか」
 嘲笑を混ぜるようにそう言った。
「そんなものにはしないよ。言っただろう?」
 聞いていない。そんなものは知らない。
 そう突っぱねたかった。
 だがこの耳は、この鼓膜は確かにあの時そう受け止めていた。
 奴隷なんかにしないよと、笑みを帯びたあの声を。
「信じられるはずがない」
 あんな言葉。
 奴隷だと言われたほうがずっと信憑性があるものだ。
「まぁそうかも知れないね」
 ラルは冷たく払いのけるクオンを気にした様子もなく、話を続けた。
「君を束縛はする。他の誰にも渡すつもりはないし。ケイガに返すつもりもない。でも何かを強制するってことは極力ないように努力する」
(努力だって?)
 こんなにも優位に立っているラルがそんなことを口にすると、白々しく感じてしまう。
 口だけのものでしかないのだろうと。
「服従は必要ない。君を僕より下に扱うつもりもない。我が儘もきくよ」
 そこまで口にして、ラルはふっと笑みを深くした。
「叶えられる範囲で」
 その一言がどれだけ残酷な制限であるのか自覚しているはずだ。
 そしてクオンにとってこれほど屈辱的なこともないということも。



next 



TOP