序 1 炎の矢が幾つも放たれてくる。 大地を焼き尽くそうとしている戦場。 それをかいくぐるようにして駆けていた。 剣、槍、斧、様々な武器を持った者が私に襲いかかってくる。 だがその全てが私よりずっと遅く、どう動いてくるのか手に取るように分かった。 だから何の迷いもなく斬り捨て、死体を転がしてはただ足を進めた。 私が求める者は、辿り着くのはこんなところではない。 焼けた灰が視界に舞っている。 人々の断末魔の叫びを背後で聞きながら、振り返ることもなくただ前を睨み付けた。 ちらりと、その色が目に入った瞬間、私の頭の中はそれだけになった。 だが視界の端に赤い髪をした男が入り込んで来ては邪魔をしようとした。 これじゃない。 そう思った時にはすでに刃はその男が振り下ろそうとしていた剣をはね除け、男よりも強い力で押し返していた。 体勢を取り直そうとしていた男の剣を弾いて空に飛ばす。 おまえの相手などしている時ではない。 殺気の籠もった眼差しをぶつけると、声がした。 「おまえは邪魔だから下がっていろ」 どこか嬉々として聞こえる声は、目指していた先にいる男のものだった。 人々が殺し合っているというよりどこまでも澄んだ空の下で、日の光を浴びてその髪はきらきらと輝いていた。 陽光によく似た、金色の髪。長く伸びたその髪は雄々しき生き物の尾のようだ。 この世を支え、慈しんでいる植物よりも尊い色をした翠の瞳。 「相手をするのは僕だ。僕だけだ」 そう言ってその男は笑んだ。 剣を二本抜き、構えている。 この男が珍しい両手使いだということは聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。 片方の剣はもう一方に比べて刃渡りが少しばかり短い。 そういう特徴なのだろう。 私の周囲を囲んでいた敵も距離を開け始める。 単身で乗り込んできた敵国の国核を集団で殺しにかかっても、片っ端から死体が増えていくだけだと知っているのだろう。 国核を殺せるのは国核だけ。 元々持っている能力が他の人間とは大きく異なるのだから、仕方がない。 私は男が剣を持ったことを確認すると無言で地を蹴った。 もう加減をする必要はない。 これは殺し合いだ。 ここに来るまでは全力を尽くさずとも敵を殺せた。けれどこの相手は無理だ。 全力を尽くしても勝てるかどうか、分からない。 男は襲いかかった私に、笑みを消さず応戦した。 力の限り振り下ろした刃は片手だけで受け止められるものではない。二本の剣を交差させ、ようやく防げるものだ。それをぶつかる前から察したのだから、この男はやはり馬鹿ではない。 間近で睨み付けた男の瞳はやはり歓喜に浸っているかのようだった。嬉しそうに微笑んで、輝いている。 どうしてそんな瞳が出来るのか私には分からない。 殺し合いが楽しいとでも言うのだろうか。 争いが面白いとでも言うのだろうか。 こんな馬鹿げた、こんな痛ましい、愚かしいことが楽しいとでも。 苛立ちを覚えて剣を跳ね返す。 私は刃を切り返して男を斬ろうとする。けれどそれより早く男の片方の剣が私の顔面をかすめた。微かな傷が頬に付く。 だがそれで怯むようなことはしない。 むしろ距離をするよりも相手の元に飛び込み、姿勢を僅かに低くした。 剣が振り回せる合間の隙をつくようにして潜り込み、後ろへ下がろうとした男より一歩早く踏み込んではその肩に刃を突き刺す。 掌に、柄を通して肉を裂く感覚が伝わってくる。 震えてしまいそうになるほど、おぞましい感覚が。 もう片方の剣が私の胴体を断とうとするのを感じ、すぐさま刃を引き抜いた。 溢れる血が微かに私の手元を濡らす。 するりと男の元から逃れると、肩をやられて力が入らなくなったと思われる側の手から男は剣を捨てた。 だが苦しげな表情はない。 笑みは浮かべられたままだ。 しかも殺気が満ちてぎらぎらと必死になっている様はない。 まだ余裕があるようにすら見える。 片方の腕を駄目にされ、それでもまだ勝てる自信があるというのか。 姿勢を立て直して刃を構え直し、踏み込むと男は両手で剣を構えた。 私の刃を防いだ力は、予想以上に強いものだった。予測を僅かに越えた力に私は押され、跳ね返される。刃を引き戻す合間を男が見逃すはずがない。 身をよじるようにして逃れると、左の腕を斜めに切られる。 痛みはなかった。ただ熱さが腕に走る。 「…っ」 眉を寄せ、己の不甲斐なさを噛む。 しかしそれで逃げてはいられない。 男の笑みを消そうとするかのように、男の瞳を閉ざそうとするかのように、私は無我夢中で刃を振り下ろした。 頭上から、跳ね返されれば斜め下から、あらゆる方向から切り込んでいく。けれど男はそれに引かなかった。 悔しいことにこの男の両手で構えられている剣は、私の刃を受け止められるようだった。力はあちらの方が強いのだ。 だからこの男は二本の剣を操っていたのだ。 片手だけでも、大抵の相手は容易に相手が出来るだけの力を持っているから。 その分私は速さがある。 男に細かな傷が付いていく。 刃が押し切られたと思わせ、その切り返しで少しずつ男を削っていたのだ。 そして私の速さに少しずつ遅れを見せ始めていた男の、完全な隙が、生まれた。 たった一瞬。 剣は私の横にあり、腕も身体もそちらに力を流していた。けれど私の刀はすでに狙い定めた場所に向かい始めており、男は視線だけしか付いてこられないようだった。 首が、狙っていた首が取れる。 そう思った。 だがその首に切っ先を向けた瞬間に迷いが生まれた。 殺してしまう。 それが望みだ。 国核として最も望んでいることがそれだ。 我が国に侵略してきた愚かな者を斬り殺し、死体にして送り返す。それがやるべきこと。 けれどこの男は。 この人は。 迷いが身体を遅らせたのか、止めたのか、刃が男の首を刈り取る前に男の剣が同じように私の首にかかりそうになっていた。 とっさにそれを避ける。その際、刃は男の首筋に傷を作る程度の働きしか出来なかった。 己の愚かさに叱責をする隙もなく、ただ奥歯を噛み締める。 してその迷いを消し去るより先に。 男は私の首ではなく腹にその剣を埋めた。 首を取られると思ったのだ。私がそうしたように確実に仕留めに来るのだと。 だが男は初めから胴体を狙ったようで、頭を守った私の動きを読んだように、微かに逃げ遅れた身体の方を貫いた。 「……っ……」 言葉にはならない。 ただ腹に異物が刺さり、そこから熱さが広がっていく。 どくりどくりと心臓から送れ出された血が全てそこに集中していくようだった。 それで終わりだと男は思ったかも知れない。 けれど私はその腹に刺さった剣を手で抜き、素早く男から距離を取った。まだだ、まだ何も終わっていない。 まだこの身体は動く。この目は閉ざされていない。 刃を構える私に、男は更に愉快そうに笑った。 剣が鳴る。 硬質の音を立てて、力がせめぎ合う。 目の前にいる、太陽に似た色の髪が風になびいては、素早く剣を切り返す。 動くたびに血が流れていくのを感じていた。だが止める間はない。 血の臭いが鼻につき、とろりと命が流れていく。 右から、斜めから、刃を翻しても受け止められる。 歯を食いしばっても、地を踏みしめても。 力が奪われていく。 腹から深く失っていく血。視界は狭く、鼓動は大きく、一歩ずつ死に近付いていた。 だが一瞬でも隙を見せれば、今はまだちらついているだけの死が一気に襲いかかってくるのだ。 目の前にいる者は肩から血を流し、だが痛む様子もなく私を斬りつけていた。 光を受けているかのように双眸は輝いていた。 生き生きと、戦こそ己の価値であるかのように。 私も同じような目をしているのだろうか。この戦いこそが生きている証拠だというような、そんな眼差しでいるだろうか。 「くっ」 最期になる。 そう思い、残された力を全て振り絞り刃を振り下ろした。 だがそれは男にいとも容易くぶち当てられ、私の力はそこで尽きた。 腕を斬られ、伝う血が私の指まで濡らし、ただでさえ気力を失いかけていた手が緩まる。 それを見逃すような男ではなかった。 大きく剣を払いのけ、私の刃を飛ばしてしまう。 抵抗したが、僅かな妨げにしかならず、私の武器はすぐ手前に落ちた。 からんと、あまりにも軽い音を立てる私の支え。 命が潰えることが、決まった音だった。 かくんと膝は折れ、私は地に足を付く。けれど諦めるわけにはいかない。私は、私以外の命をも背負っているのだから。 とっさに柄に手を伸ばすが、その前に男の剣が地を刺した。 私が伸ばした指の、すぐ側で。 「負けだよ」 よく通る声が、乱れた呼吸と共に聞こえてくる。 理解したくもない言葉だ。 「君の、負けだ」 彼は懐から短いナイフを取り出して私の首もとに突き付けた。皮膚に冷たい感触が与えられる。 そのまま手前に引けば、鮮やかな色が視界を染めることだろう。 私は男を睨み付けた。まだ終わっていない。まだ。 「ね、僕のものになってよ」 まるで子どもがおもちゃを欲しがるように、男は言う。 その声は小さかった。周囲にはざわめきや歓声が渦を巻いており非常に騒がしい。だからこの声は届かない。 私にしか聞こえない。 あまりにも簡単に口にするから、私は耳を疑った。どうしてそんなことを言うのか。 ここは戦場で、私は敵で、今から殺されようとしているのに。どうしてそんな、殺意以外の感情で私を見つめるのか。 「君が欲しい。君の全てが欲しいんだ」 冗談だったら良かった。 戯れを口にしながら、手に持っているナイフを手前に引いてくれたなら。殺してくれたなら分かった。 だが男の目は痛いほど本気で、そして笑い飛ばすことを決して許さなかった。 「君だけが欲しい。だから、戦った」 止めてくれ。 それ以上何も言わないでくれ。 そう声もなく懇願した。そんなことは聞きたくない。傷付くだけだと知っていることを、耳になんてしたくない。 「臣下たちから、民から、国から君を奪った。そして、ようやく」 君をさらけ出すことが出来た。 そう彼は笑った。 私と大差ない傷を負っているというのに、そこにあるのは喜びだけだ。 「僕だけのものになって」 受け入れられるはずがない。 男のものになんてなれるはずがない。私は、国であり、王であり、私はこの地そのものだ。 誰かのものになる時は、死ぬ時だ。そう決められていた。 決められていたはずなのだ。 首を振る。それ以外出来ることなんてない。 「殺して下さい。負けることは死ぬことだ」 私はまだ負けていない。 そう告げると、男は目を細めた。 「君が手に入らないなら。君の臣下は全て殺す。民も一人残らず皆殺しにして、国は燃やし尽くす。一つの草も残らぬように、壊し尽くす」 「貴方は国が欲しいのではなかったのですか!」 血を吐くような思いで叫ぶ。 「君が手に入らない国などいらない」 そんなものは無駄だ。 男はそう口にした。 その決意が揺らぐことはないと言うように、眼差しをそらすことがない。 突き付けるような瞳だ。 出血以外の衝撃で、視界が暗く染まっていく。 「それでは、君が戦った意味がないだろう?」 だから頷いて。 そう優しく男は囁いた。 首筋にナイフを突き付けて。 私の部下たちを何人も殺し。この土地を赤く染めて、多くのものを壊し、殺し、奪ったその手で、その目で、その口で。 私が欲しいと囁く。 「僕のものになって」 男は私の額に触れた。 暖かい指。撫でるような動き。 温度が染み込んできては私の心臓から血を流させる。 頭を垂れろと促す。 「貴方に隷属しろと。平伏して服従せよと…」 「奴隷になんてしない。我が儘を言えばいい。聞くよ。叶えるかどうかは分からないけど」 そして決して逃しはしない。 男の声が低くなる。 脅しだ。 どれだけの言葉を投げても、首に鎖を付けて逃す気はないのだと示している。 所有物にするのだと。 「ただ僕は君を僕のものにして大切にしたいだけだ。愛しいだけなんだよ」 嘘だ。そうせせら笑ってしまいたい。 世迷い言をと斬り捨ててしまいたい。そうすれば私は自分を捨てることなくいられた。 国で、いられた。 けれど。 「……っ」 殺してくれと、私は願った。 このまま殺してくれ。心が動かない内に。国として生きている間に。 殺してくれ。 けれど遠くから聞こえる悲鳴が、濃すぎる血の臭いが私の頭を動かした。 この国の、私の国の民はまだ生きている。 死んでいった者たちは数え切れないほどいる。だが生きている者たちはそれ以上いるのだ。 その人々の命を、このまま捨てることは出来ない。 たとえそれが国としての終わりを告げることであっても。この国がなくなってしまうことであっても。 民を皆殺しには出来ない。 ゆっくりと下がる頭。 その中で、ぷつりと私の中で保ち続けた糸が切れた。 ずっと、抱え続けた秘め事が。 死ぬまで、死んでも出してはならないと感じていた思いが溢れていく。 「…もっと、もっと違う形で…」 剣を交わすのではなく。命を奪い合うまではなく。血を流し合うのではなく。憎み合うのではなく。殺し合うのではなく。 「貴方に逢いたかった…!」 血を吐きながら、私は告げた。 涙は落ちない。流れるのはただ苦しみばかりだった。 もっと早く、逢っていれば。 違う形で逢っていれば。 もし、ずっと近くで逢っていたのなら。 きっと私たちは違う道を選ぶことが出来た。 こうして何人もの死体に囲まれて、多くの命を踏みにじって、憎しみに捕らわれることもなくいられた。 きっと微笑むことが出来た。 「出逢わずにいたより、ずっといいよ」 男は悲しみを滲ませることもなく。そう言った。 これでも幸せなのだと言うように。 その声に私は目を閉じた。 鼓動が止まってしまえばいい。 罪を重ねる前に、命が潰れればいい。 そう願った。 next |