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 目を閉じた彼は意識を失ったのか、ぐったりとして動かなくなった。
 だが乱れているとはいえ、呼吸をしていることを確認して僕は彼の身体を抱き上げた。
 僕より一つ年上である彼の身体は僕より一回りほど小さい。
 国核である彼は最も体力、能力共に優れている時期で成長を一時的に止めているはずだ。
 国核というのは常に最高の状態でいることが決められている。
 常人よりもゆったりと年を取り、常人が寿命と思われる年頃でも全く老いている様子を見せることはない。
 だが寿命自体は常人と大差はなく、ふっと唐突に掻き消えるように亡くなるらしいが。
 彼は今にも消えてしまいそうだ。
 国核はただの人とは比べ者にならないほど強く、生命力に溢れているそうだが。
 それでも人であることには変わりがない。
 ここで彼に死なれるわけにはいかないのだ。
 まだ彼は、僕を見てくれているのだから。
 その眼差しは僕を射抜いてくれているのだから。
 抱き上げ、僕は敵国に、ケイガたちに背を向けた。
 国核である彼を追ってきた人々が怒鳴る声が聞こえてくる。
 何をするのかと。
 ケイガをさらうつもりかと。
 僕はその台詞に笑ってしまった。そうまだ彼はケイガだ。敵国を背負っている国核だ。けれどそれももうすぐ、終わる。
「退け!虫けらどもが!」
 笑みを混ぜた声はよく響いた。
 ケイガの民たちがたじろいでは足を留める。けれど僕を睨み付けるその力だけは変わりがない。
 今にも噛みつこうとしている犬のようだ。
「退けば殺すのだろう!我がケイガを!」
 茶色の髪をした男がそう叫んだ。苦しげだ。
 無理もないだろう。自分が崇め、敬ってきたたった一人の主君を奪われてしまうのだ。
 だが僕は、もうおまえのケイガではなくなるのだよと笑ってやりたかった。
「誰が殺すものか」
 国核を手に入れた他国の国核は、それを殺して国を乗っ取る。
 侵略とはそうして行われてきた。
 他の誰が国核を殺しても駄目なのだ。国核を殺すのは国核だけと決められている。だから僕が、彼を殺してケイガを自分のものにするのだと奴らは決めつけている。
 戦とはそういう目的で行われているものだからだろう。
 だが僕の思惑はそこじゃない。
 そんなものじゃない。欲しかったのは、国なんかじゃない。
 誰しもが勘違いをしている。
 勝手に想像して、安易な考えに捕らわれている。
 嘲笑いながら、僕は陣営に戻った。追ってくる者がいれば国核の首をここで取るかも知れないと言えば、誰もが立ちすくんだ。
 彼らにとって一番大切なのは、この腕に抱かれている存在なのだ。
 それが羨ましいような、忌々しいような複雑な気持ちだった。
 自国に戻るとまず彼に医師を付けた。
 僕が幼児の時から僕専属で付いている医師は、僕を見るなり最初に治療をするべきは僕の方だと主張したが彼を優先させた。
 彼の方が重体だ。
 剣を交えた時は殺そうかと思っていたのだから当然のことだろう。
 僕を見ることのない君なら、殺そう。殺すことで永遠に誰のものにもならないようにしようと思っていた。だが彼は。
 未だに僕を見つめていた。
 思い出すだけで歓喜に打ち震えてしまう。
 死にかけている国核を殺すのはただの人でも容易い。そしてこの国には彼を殺そうとしている者が多い。だから僕は目の前で彼の治療をさせた。
 医師のことは信用している。
 僕の一生を共にすると契約されている医師だ。けれど完全に信用するには、僕は臆病だった。
 だからずっと見つめていた。
 僕の治療は医師の助手や片腕たちがやってくれた。
  「エルベリル、どうぞお休み下さい」
 自国の名で僕を呼ぶ、医師の助手たちに首を振った。
 休めるはずもない。
 彼がここにいるのに安穏として睡眠など取れるはずがない。
 だがふらつく身体を見とがめられ、片腕たちに自室へと放り込まれた。その間彼の面倒は看ていると生まれた時から共にいた片腕に言われ、注意しろと何度も念を押して部屋のベッドに転がった。
 気を失ったように眠ったようで、次に気が付いたのは自室に誰かが入ってくる音だった。
 目を覚ますと赤い髪をした男が怒りを露わにして僕を見下ろしていた。
「どうしてケイガを殺さない!治療するなんて何考えてる!」
 戦場で彼に優秀な部下を殺され、友人を斬り捨てられた男が叫ぶ。
 僕の部屋に無断で入ってこられるほど付き合いは親しい男だ。
 なんせ幼なじみで信用もしている。けれど僕の、彼に対する思いを理解してくれることなかった。だから彼に近付けることは避けていた。
 その不満もあるのだろう。
 怒りはとても強いようだった。
「国核であるおまえがあのケイガを殺さなければ!ケイガをこの国のものに出来ないだろう!」
 国というものは、侵略をして国を率いている者たちを殺しただけでは他国に吸収されることはない。
 国核という国の象徴であり、国そのものと言われている王を、他国の国核を殺して始めて国が揺らぐのだ。
 それが決まりだった。
 この決まりに従わず、その国を滅ぼしたところで他国に鼻で笑われる。そしてこのしくみを作った集団に侮辱と共に制裁を受けると聞いている。
「ケイガの次の国核が出るぞ!そしてらまた戦だ!何のためにおまえはこの戦を開始したんだ!?」
 赤い髪を振り乱すようにして怒鳴ってくる男の声がうるさい。
 どうしてこうもこの男は感情的なのか。
 戦で活躍する軍人であることはよく知っているのだが。もう少し冷静になることを覚えるべきだろうに。
「ラル!」
 聞いているのかと男が叫ぶ。
 国核になってから呼ばれることが極端に減った名前まで出してきて。
「今、北の国の動きが怪しいのは知ってるだろ」
「リシアか」
 自国とはケイガを挟んで反対側に位置するその国は以前からケイガを狙って小さな戦を起こしていた。
 そのたびに納め、宥めてきたらしいが。
 僕との戦をきっかけにどう動くか分かったものではない。
 今ケイガは酷く弱っている。この国も戦で打撃を受けているのは間違いない。その隙にリシアが領土を広めようとしてくるかも知れない。
「ケイガを吸収して、うちの色に染め直して支配しようとすると膨大な労力が必要になる。あの国は、誇り高いからな」
 ケイガは自国を誇り、自国を守ることに全勢力を注いでいるという噂を聞いている。
 国核を崇拝し、誇りを汚されることがあるならば命をかけて戦う。
 その民たちが、敗戦したとはいえ国を変えようと、蹂躙しようとしている者たちに抵抗せずにいるだろうか。
 そんなことは考えがたい。
 ある意味戦の時より厳しい争いを要求されるだろう。
 その争いを乗り越えるだけの労力はすさまじいものだ。その力をそそぎ込んでいる間にリシアに攻め込まれると。
 下手をするとこの国自体も傾きかねない。
「支配に力を裂くとリシアに食われかねない。国核を手に入れて戦に勝ったとはいえ、あの国を吸収するのはかなり骨が折れる」
「だからって放置しておくつもりか!」
「しばらくは属国という形で支配するよ」
 属国という単語に男はきつい眦を更に釣り上げる。
「何のための戦だ!領土を広めるためのものじゃないのか!」
 そう言われ笑いそうになるのを堪えた。ここで笑ってしまうのはさすがに非情だろう。
 この国は先代の時にも領土を広げ、僕の代でもまた国を広げてしまったのにまだ小さいとでも思っているのだろうか。
「国を豊かにするためだよ」
 ケイガは豊かな国だ。
 領土自体はさして大きくはないが、鉱石がよく出ている。水も豊かで、作物も豊富に取れるらしい。
 あまりにも恵まれている環境であるため周囲から狙われているけれど、山が境になっている上にあの国は国核を頂点として団結が固い。
 攻め入るのが困難と言われていたのだ。
 だが数年前の地震で僕の国との境になっていた山の一部が崩れここからは攻めやすくなった。
 その上自国がここ二、三年は川が痩せてしまったため。
『あの国の豊かさが必要になった』
 僕は周囲にはそんなことを吹き込んでいた。
 実際は全く別のことを思っていたが。
「……本当にそれが目的か」
 ようやく冷静になったんだ。
 僕は男の声が低くなったのを聞いてそんなことを思った。
 この男は知っている。分かっている。
 僕がずっと欲しがっていたものが何なのか。
「あれが、あの国核が欲しかったんじゃないのか」
 叱責しようとする口調に僕は微笑んだ。
「今更そんなこと」
 分かり切っているだろうと少し馬鹿にするように言った。
 すると男は表情を元に戻す。
「おまえはそれでも国核か!!」
 よく響く声だ。
 耳が痛くなってくる。
 そんなに怒鳴っていて疲れないのだろうか。
 戦が終わってまだそんなに時間が経っていない。この男だって帰還して一日経っているか経っていないかぐらいだろうに。元気が有り余っているようだ。
 何か雑用でも押し付けてやろうか。
「僕がここの国核だよ。間違いなく」
 それが疎ましくて仕方のない輩もいるようだが。
 こればかりは変えられない。
 国核が誰であるのか決めるのは、人間ではないのだから。それはあらかじめ決められた、そう、愚かしい言い方をするのであれば、運命のようなものだ。
「おまえの言ってることは誰も納得しないぞ!」
「納得なんてしてもらう必要がない」
 そんな言葉は必要ない。
 本音を言うなら同調なんて価値のないものだと思っている。
 そんなものを貰って何になる。
 もう自分の中で決まっていることを他人が何をどう言ったところで変えるつもりなどないのだ。
「身勝手過ぎる!国核としての自覚がない!おまえは昔っからそうだ!何でも自分で勝手に決めて押し切って!周りに迷惑ばっかりだ!」
「迷惑なら逃げればいいだろ」
 素っ気なくそう言うと男は悔しげに僕を睨み付けて「もういい!」と言い残して部屋を出ていった。
 怒りにまかせるようにしてドアを叩き付けていく。
 迷惑だ、我が儘だと言いながら僕に付いてきてくれた幼なじみ。感謝している。大切だと思っている。だが彼のことに関しては決して譲らない。
 僕は痛みを訴える身体を無視してベッドから降りた。
 肩も首筋も酷く痛んでいる。きっと今も血を流していることだろう。
 けれど彼の付けた傷だ。
 激痛となって走っていても構わない。この痛みがずっと続いたとしても。
 よろける足を叱咤しながら彼へと続く道を歩く。
 彼への部屋に行くには僕の部屋を通らなければ行けないようにしている。彼の命を取られないように、この城の奥、人の手の届かない場所に位置させた。
 通路を通り、頑丈な扉を開ける。そこにはごく小さな城があった。城の中の城。
 そこが彼の部屋だ。
 扉を開けると片腕がそれを見咎めた。部屋に戻れというような目をしたが、僕を止めようとはしない。
 止めたところで無駄だと分かっているからだろう。
 彼はベッドの上で目を閉じていた。
 長い黒髪は白いシーツの上では綺麗なコントラストを描いていた。
 近寄って、頬に触れる。
 あたたかい。
 呼吸をしていることも伝わってきて、僕は深く息を吐いた。
「クオン……」
 初めて彼を見てから約二十年の時が流れた。
 協議会という名前の、決裂が明らかにされていた国同士の会議の最中に。幼かった彼と出会ったのだ。
 透き通った真冬の空のような瞳で僕を見てくれた。そして二人で手を繋いで抜け出した。
 あのままどこかに逃げ去っていたのならどれほど幸せだったことだろうと、何度も悔やんだ。
「クオン」
 早く目を覚まして、声を聞かせて。
 僕を、見て。
 それだけが僕の望みだ。
 抱き続けた願いだ。
 その心をくれとは言わない。君の心は君だけのものだから。
 けれどその身体は、その存在は、僕のものだ。
 それだけで、この渇望は潤う。







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