最も古い記憶は、小さな刀を持っている手だった。 そして、それを見た母親は微笑んでいた。 『刀になったのね』 カチリ。とその言葉で世界が回り始めた。 そして、母親と自分が違う生き物だということを感じた。 同じものを持っている。だが確実に異なる生き物なのだと。 近くにいた父親に関しては、自分と明らかに違う生き物としか思えず、親しみがかけらも沸いてこなかった。 今まで同じ空間で生活をしてきたというおぼろげな感覚は、疑問しか生み出さない。 どうして同じように暮らしていたのだろう。こんなにも違うのに。 変だな。そう思っていると母親が手をそっと包んできた。 柔らかな掌。違う生き物だが、この人と一緒にいるのはおかしくない気がした。 『お祖父ちゃんに会いに行こっか』 『うん』 お祖父ちゃん。その言葉に強く惹かれた。 会いたい。この人たちよりも、お祖父ちゃんと母親が呼んだ生き物に会いたい。 はっきりしない記憶で蘇る顔は、やはり母親よりずっと親しみを覚えた。 父親という人に、母親は『刀を本家に連れていきます』と言った。父親は表情を歪めて『本当に、この子は刀なのかい。僕たちの子でなくなるのかい?』と訴えるように言っていた。 僕たちの子。おかしいな、どうしてだろう。 刀を握りしめて、父親を見上げた。違う生き物なのに、そこにあるおもちゃとあまり変わりないような生き物なのに、どうして自分に関して泣きそうな顔をするのか分からなかった。 何か、特別な関わりでもあるのだろうか。 だがそんなことはどうでもいいことだった。お祖父ちゃんという生き物に早く会いたい。 母親の服の裾を引っ張った。すると母親は『行こう』と何処か誇らしげな笑みをくれた。 それに、強く頷いた。 母親が運転する車に乗り、辿り着いた大きな家は見覚えがあった。 きっと前に来たことがあるのだろう。 だが新鮮に感じる。変わったところは見えないのに、まるで空気が違うかのようだった。 門をくぐり、庭にまわった。母親と手を繋いで歩いたが、縁側に背の高い和服を着た男を見ると自然と手が放れた。 白髪の目立つ髪のわりに、顔立ちは老人といった風でもない。 何より威圧感を持つ雰囲気と瞳に、意識が奪われた。 自分よりずっと強い、同じ生き物だ。 心臓がどくんどくんと脈打った。触ってみたい。声を聞いてみたい。この生き物は自分と同じなのだ。 「お祖父ちゃん。那智が」 「言わずとも、見れば分かる」 難しい顔で立っていた祖父は、手を差し伸べてくれた。 近寄り、背伸びをしてその手を取るとひょいと身体を持ち上げられる。 「ようやく、那智が生まれたな」 すでに生まれてから五年経っていた。だがその意味は分かる。 そう、自分という生き物はあの刀を生み出した瞬間に、初めてこの世に生まれたことになる生き物なのだ。 「おか…あさん」 さっきまでするりと出てきていた言葉が引っかかった。祖父のほうが、母親よりずっと近いと感じたせいだろうか。 「なぁに?」 「僕、おじーちゃんとくらしたい」 五歳児の言った言葉に、母親はくすりと笑った。予想していたかのように。 「そう言ってますが」 「かまわんよ」 祖父はあっさりとそれを承諾した。 今からこの生き物と一緒に暮らせる。そう思うと嬉しくなった祖父にぎゅっとしがみついた。 「那智、健やかに育て。主の為に」 「あるじ…」 カチリ。その単語にまた一つ何かが動き出した。 主の為に。 それは何より大切なことのように思えた。 真夜中、煙草をくわえながら、那智は人気のない道を歩いていた。 夏に入り、生暖かい風がまとわりついてくる。 視界の先には山道に座り込んで何やら食べている人影があった。 街灯から少し離れているため、一体何を食べているのか遠目では分からない。 しかし漂ってくる血の匂いが、何よりはっきり状況を教えてくれる。 一歩近付くごとに、しゃがんでいるものが異形であることが分かった。一見人間のようだが爪は異様に伸び、口は裂けていた。犬の牙に似た歯が人の手首を噛み砕いた。 那智が近寄るのも気が付かないということは、よほど夢中になっているのだろう。 (浅ましいな) 食欲を満たすために、人を殺してその場で食っている。獣じみた姿で。 人間から鬼という生き物に変わってしまい、知性なども捨ててしまったかのようだ。 込み上げてくる不快感に、くわえていた煙草を手に取りそのまま捨てた。 さっさと始末してしまおう。 両手を合わせると掌を何か堅い物が押した。そのまま両手を離すと、間に柄が現れる。 柄を握ると、じわりと飢餓感が押し寄せてきた。 喰いたい。あの鬼を斬り喰らいたい。口の中は、記憶している甘みを欲して喉が渇き始めた。 どんな食事を、どれほど取ったとしても。この飢えは消えない。鬼を斬った時にだけ満たされるのだ。 (俺も大差ないか) 顎まで血で汚した鬼の姿と、自分の姿が重なって苦笑した。 欲望のまま、他の生き物を喰らい殺すのは鬼と同じだ。 そう、人間などより鬼の方が近いのだろう。 人混みの中にいても、自分一人が違う生き物だった。 どんな人間を見ても何も感じない。みんな似たようなものに思えた。時折視線を惹くものがあれば、それは鬼だ。 食べ物として、認識する鬼。 那智の世界は常にそうだった。 ただ二人、春奈と祖父を覗いては。 (つまらない…) 世界はあまりにもつまらない。 那智の関心を強く惹きつけるものなどない。まるでストーリーのないモノクロ映画のようだ。 淡々と流れていく。心に何も残すことはなく。 いっそ終わってしまえばいいのに。 だがそれもまた、くだらないことのように思えた。 「そんなに、何が欲しかったんだ」 那智が声をかけると、鬼は弾けるように顔を上げた。ぎらぎらとした目が、驚愕に見開かれる。 瞳孔が真横に細い。口からは血と荒い息が吐かれた。 人間であったはずなのに、これほど姿を変えるほどこの生き物は何がしたかったのだろう。 那智には理解出来ない衝動だ。 どうしても手に入れたい。自分を犠牲にしてでもやり遂げたい。そんな感情を持ったことがないからだろう。 「何が」 問い掛けながら、那智は逃げようとした鬼に刀を振り下ろした。 音もなく、鬼の身体は斜めに斬り離される。悲鳴を上げる間もなかっただろう。 さらりと灰になり始めた死体を見下ろし、上着のポケットから煙草を取り出す。 ジッポで火をつけ、煙を吸い込むと苦みが広がる。だが鬼を喰らった甘みと混ざることはなかった。 「…なんで生きてんだろーな…」 夜空には厚い雲が広がっている。雨が降るかも知れない。 人間でも、鬼でもない。全く別の生き物として生まれて落ちたくせに、見た目は人間と変わりがなく、また人間の中で暮らしている。 周囲は那智を自分たちと同じ人間だとしか思えない。だがこちらにしてみれば、同じと思われること自体苦笑するような事態だ。 苛立ちはしない。だが諦めが積もれば、いい加減怠くもなってくる。 こんな世の中は嫌だ。なんて青臭いことを叫ぶ気にもならなければ、もう死にたいなんて楽観する気持ちも持っていない。 ただ怠い。 「分からないねぇ…」 苦笑すると、鬼が数体近付いてくるのが感じられた。 気持ちが否応なく高揚してくる。刀が微かに震えては、斬ろうと誘ってくるようだ。 鬼を喰らって、人の中に混じって生きることに、何の意味があるのだろう。 主。 祖父がひどく優しい声で口にする言葉だ。普段はぶっきらぼうで淡々としているような祖父が、深い感慨を滲ませる唯一の。 それが、那智にもいるという。 この世の何処かに存在して、刀を求めているという。その人間のために那智が生きている。 (だが人間だろう?) 自分と異なる生き物だ。それなのに、那智を欲しがったりするのだろうか。人間は自分と違うものを嫌うのに。 (いらないと言われれば、俺はその時どうするだろう) 主のためだけに。と言われ育てられたというのに。その主という人間に「いらない」と言われれば、その時一体何を思うだろう。 空洞ばかりを抱えた心に、微かな痛みが走った。 存在意義が欲しいのだろうか。そう考えて、唇が歪んだ。 他人がいなければ、生きていることすら感じられない生き物。 じゃり、と砂を踏む音がして那智は刀を構えた。 唸り声が聞こえてくる。 「羨ましいよ、あんたらが」 鬼になれるほどの強い感情を抱くことの出来る生き物であるってことが。 だが言った次の瞬間には、心にもない言葉だ。と笑った。 空は泣き出した。家に帰る頃には号泣で、車から下りれば玄関に付くまでに肩くらいはびっしょり濡れるだろう、と予測出来た。 走ればいい。そう分かっていたが、那智は歩いて玄関に向かった。 満たされた感覚がある。口の中には甘さがまだ残っていた。 だが、那智を包んでいるのは空しさだ。 激しい雨音に聴覚を支配され、溜息をつく声も聞こえない。 怠い。そう思いながら庭を回ると、ふと灯りが見えた。 祖父の部屋だ。午前二時を過ぎたというのにまだ眠っていないらしい。 何故かふらり、と足が向かった。 そこだけ暖かさを感じたせいかも知れない。 縁側につくと、声もかけていないというのに障子が開かれた。 しっかりと浴衣を着込んだ祖父が、渋い顔で出てきた。寝ていたわけではないらしい。 「何をしている」 「老人は早寝早起きじゃないのか」 「誰が老人だ」 「どう見たって老人だろ」 那智はそう揶揄したが、祖父に老人という単語は確かに似合わなかった。生気が満ちているからだ。枯れた様子が何処にもない。 刀の特徴らしい。主を守るために、年を取ってもなかなか老いない。体力の低下も著しくないらしい。 つくづく、刀は主のために存在している生き物であると知らされる。 「しけた面だ」 祖父は縁側から那智を見下ろした。雨にずぶぬれになっている孫に、上がれとも言わずに。 「なぁ、ジジイ」 「なんだくそガキ」 那智が家族の名称で呼ぶのは祖父一人だけだった。同じ血が繋がっていると感じるのは祖父だけだからだ。そしてその親近感を祖父も感じているらしい。容赦なく「ガキ」呼ばわりしてくる。 何も知らない者にしてみれば、仲が悪いのかと思われそうだが。二人にしてみればこれが一種の愛情だった。 「主は本当に存在してるのか?」 子どもの頃は無邪気に何度も尋ねた。 自分にはあらかじめ決められた命より大切な者がいるのだと、それは人間には持ち得ない特別なことだと教えられ、嬉しくなって確認していた。 だが今は、すがるような気持ちが込み上げてきた。 「ああ。だからおまえが生まれた」 刀は主を守るため、主より多少早く生まれる。刀が生まれたということは、すぐに主が生まれてくるということだった。 「間違いということはないのか?」 「有り得ない。かつて一度も刀だけが生まれたという歴史はない」 「その歴史、改竄されているってことは」 「無意味だ。後世に残しておきたくないことが、蓮城にあるとは思えない。真実のみを伝える。それが主の為だ」 取り繕うという意識すらないだろうな。儂もおまえもそういう人間だろう? その問いに那智は頷いた。誰が何と思おうと知ったことではない。真実だけ残れば、後は受け取る側が判断すればいい。 「だが、それは俺とジジイの感覚だろ」 「二人いればそれで蓮城の特徴は掴める。ここは遺伝するものが酷く濃い。おまえも、父親の遺伝子を受け継いでるというのに、春奈の遺伝しか感じられない」 母親の遺伝というが、母親はいつも「お祖父ちゃんにそっくりねぇ」と笑っている。 刀は、刀に似るのかも知れない。 「…いるのか。俺に」 「いる。儂にもかつていたように」 「俺だけが、出来損ないってことはないのか」 「一体、おまえはそんなにも何が不安だ」 髪先から滴る雫が、地面に落ちるのを眺めながら那智は目を伏せた。まつげにも、雨が宿る。 何が不安だ。そう尋ねられても、答える言葉は出てこない。 ただ、空しいのだ。空虚なものが喉元まで迫り上がってくる。それなのに、苦しいとも悲しいとも感じられない。 感じるもの、受けるもの、全てが曖昧で不確定なのだ。 「不安じゃない、分からないだけだ…。それに、主って言っても人間に変わりはないだろう?判別付かないんじゃないのか?」 人間など基本的にみんな同じようにしか見えない。 犬や猫のようなものだ。種類、毛並みの違いは分かっても、似たような姿であるなら見分けが付かない。 「一目見れば、声を聞けば必ず分かる。主の為に生まれてきた生き物だ。親を忘れても、主を忘れることはない」 「んじゃ、人間である主に刀は受け入れられるのか?同じ人間じゃないのに」 那智が尋ねると、祖父はふと笑った。だだをこねる子どもを見るように。 「拒絶されるかどうかは、主が決めることだ。儂は何とも言えんな」 冷たく突き放すような言葉だが。声は何処か柔らかかった。 「分からないのは、何故生きているか。ということか」 「…そんなもんじゃない。ただ…不鮮明だ。人も、鬼も、自然も、無機物も。何もかもが不鮮明ではっきりしない」 薄い一枚の膜が張られた世界にいるようだった。 触れるもの、聞くもの、見るもの。全てが何かに混ざったような感覚だった。そしてまた、感情も膜に包まれて曖昧になっている。 「そんな中で主っていう単語だけがぼんやり浮かんでくる。ちらついて、気になって仕方ないのに、何処にいるのか本当にいるのかも分からない」 ずっと那智の中でひっかかっているのだ。主というものだけが。何一つ分からないというのに意識から離れようとしない。呪縛にも感じられる感覚だ。 「空しいか、もどかしいか、苦しいか」 祖父の問いに、那智は苦笑した。 それのどれもだった。 「主がそれを払拭するだろう。主に逢って、おまえは初めて生きているということを知る」 「生きている…」 ああ。と頷く祖父を見て、那智は祖父もまた同じ気持ちを味わったことを知った。 遠くを見る目をして、微笑んだからだ。 「ジジイは…主を一目見て分かったのか?主が、何を変えてくれた?」 「一目見て分かった。こいつが儂の全てなのだと。そして生きてきたことを初めて良かったと感じたさ。主が儂の世界であり、幸いであり、命そのものだった。あれだけが、儂を生かしている」 かつて主を持っていた刀は、言葉では伝えきれないと言うように切なげな笑みで語った。声から、溢れるような情を感じて那智は目を閉じた。 亡くなってもなお、祖父をここまで惹きつける存在がどんなものなのか、知りたい。 そして自分にもいるという主という存在が知りたい。 「那智、おまえは幸せ者だ。おまえには生きている意味が決められている。生きていく理由が用意されている。人間にはそんなものはない。見つけることが叶わず、迷い続け、空しさを抱いて果てる者は数知れない」 儂もまた、幸せ者だ。と祖父は雨音の中でぽつりと零した。 主が死ねば刀も死ぬ。そう言われている関係の中で、主を失っても未だ激痛を味わいながら生きている刀はやはり何処か幸せそうに、寂しげな声で呟いた。 「あらかじめ決められるということは、苦痛でもあるんじゃないのか?何かに自分のことを決められるなんて」 本来の性分では許せないことだ。 那智は目を開け、射るような眼差しで似たような性分の祖父を見た。 「主に逢った後、その問いを自分に投げかけてみるがいい。答えはそこにある」 「また主か…何もかも主なんだな」 「ああ。おまえの世界は主が持っているのだから」 では、今見ている、感じている世界は何なのだろう。まがい物なのだろうか。 那智は降り続ける雨の中、濡れているのに気持ち悪いとも、いっそ清々しいとも思えない世界にただ立ち尽くしていた。 上滑りするこの感情が、明確になるだろうか。 モノクロのような映像が、色彩を帯びることはあるだろうか。 生きていると感じられる瞬間が、本当に来るのだろうか。 「…逢いたい…」 小さな子どもの頃なら言えていたのに、年を得るごとに言えなくなった言葉。 数年ぶりに口にすると、心臓が震えるように締め付けられる。 (なるほど、な…) 逢いたいと口にしただけで、平淡な感情がくらりと揺れた。 ここまで明確だと、返って泣きたくなる。 主のための身体。主のための感情。主のための、命。 「逢いたい」 切ないという痛みが走る。それが嬉しかった。少しだけ世界がはっきりしたように思えたからだ。 いつになってもいい。探し出す。 誰であろうと、どんな人間であろうと。 痛みに奮い立つ心を抱えて、那智は笑みを浮かべた。 これほど心が動くのは、未だかつてなかっただろう。 雨の音がほんの少しだけ、近くで聞こえた。 |