那智の車に戻り、ドアをばたんと閉めると深く息を吐いた。 この助手席に座るのは慣れたもので、シートベルトを締めると後は那智に全て投げ出していた。 運転手が席に落ち着き、エンジンをかけると低い振動音がする。 「ラブホどこだっけ?」 「行くか馬鹿」 こちらを見てそんなことをほざいた那智を睨み付ける。 「たまには新鮮な気持ちになるのも良くない?」 「嫌だ」 見笠もいらないことを言ってくれたものだ。 期待の眼差しが非常に鬱陶しい。 すげなく却下して顔を逸らしてやった。 まだごねるつもりなら車から出てもいい。 ここから徒歩で歩いてもそう時間はかからない。 「家が一番落ち着く」 こういう行為は新鮮が加わるといいと聞くけれど、興味はなかった。 飽きている、マンネリで嫌になってきているというのならともかく。そんな感覚は全くないのだから必要ない。 それに新しい場所というのは精神が落ち着かないのだ。 いくら那智が近くにいたとしても、そんな場所で服を脱いで自身を開くのは抵抗感がある。 「落ち着かないのがいいんじゃない?」 「断る」 那智もそんな迷い事を思うらしい。 どいつもこいつも研究熱心なことだ。 落ち着いていつも状態でいいじゃないか。安定しているものほど心地よいものはない。 皓弥はいつもそう思うのだが。どうも他人様はそうでないらしい。 しかしこれ以上食い下がられるのは面倒なので「しつこい」と言ったら那智は諦めたように車を滑り出した。 方向はもちろん自宅に決まっている。 「皓弥は家が好きだね」 「安心する」 分かり切っていることを言われ、即答した。 昔からそうだ。自宅というのはどこよりも落ち着く。だから旅行がしたいと思ったことがない。 何も知らない、馴染んでいないところに出向いて、しかも寝起きするなんて。ずっと周囲を警戒していなければならない。そんな神経を使うことはしたくない。 「それは良かった」 皓弥の家は何も皓弥一人のものではない。隣に座っている那智の家でもある。 二人で暮らしている空間が何より安心すると言われれば、悪い気はしないらしい。那智の口元は緩んでいた。 過ぎていく街灯の光。車道は他に車もなく、スムーズに流れていく。 那智の運転は安定感がある。スピードを出しすぎることも、危ういところもない。十八になったと同時に免許を取ったそうで、運転は慣れているらしい。 「那智」 「ん?」 名前を呼ぶとすぐさま応じる柔らかな声。他の誰に向けられているものより、優しい温度を持っている響きだ。 「見笠に、勝手に付き合ってることバラして悪かった」 許可を取ることもなく、那智と付き合っていることを見笠に告げた。 付き合っていること自体後ろめたさなんて、那智にもないだろうけれど。一応訊いておくべきだったと思ったのだ。 二人で、付き合っているのだから。 一人きりでいる時に聞かれたならともかく、那智は隣にいたのに。 「謝ることじゃない。俺は誰に言ってくれてもいいんだから」 (そう言うだろうと思った) だってあの時那智は微笑んでいたから。 嫌なら止めていただろう。 「俺は別に誰にも言ってないけど。それは教えてやる義理がないだけで、隠さなきゃいけないなんてかけらも思ってない」 教えてやる義理って何だろうと思ったけれど。皓弥が思っている「別に他人には関係ないし」という感覚と似たようなものだろう。 「むしろ俺は誇りたいよ」 主は刀にとって誇り。主を持てた自分は幸せだと、那智は何の照れもなく言う。 人に誇ってもらう価値なんて皓弥は自身に見いだせない。大切にして貰っているけれど、それが許される人間であるかどうかだって分からない。ただ、那智はそうして皓弥に語っている時は嬉しそうなのだ。 自分にとってもありがたいことで、那智にとっても嬉しいことなら何も止める必要はない。 だからこうして生活しているけれど。 「おまえは…何て言うか」 背筋がざわざわしてくる。 「恥ずかしい奴だよな」 時々無性に聞いている方が落ち着かなくなってくる。 居心地の悪さを自分は感じているのに、言っている本人は平然としているなんてどうしてだと不思議なくらいだ。 「幸せが過ぎると羞恥も薄くなるんだよ」 「またそんなことをさらりと言う」 もうなんなんだよ、と言いつつ皓弥は窓の外だけを見つめた。 隣にいる男が機嫌良さそうに笑んでいることが用意に想像出来て、とてもではないが視線は合わせられなかった。 「ちょっといいか?」 講義が終わり、人々が教室から出ていく。 比較的小さな部類に入る教室だったので、あっという間に人の流れは途切れて閑散とし始める。 立ち上がり、鞄を肩に掛けていた三村にそう声を掛ける。 すると改めてどうしたのかという顔をされた。 無理もないだろう。 皓弥は大抵物事の確信から話題に入る。 この後用事があるとすれば、あれがあるから時間をくれ、というような言い方をするのだ。 しかしこの時はそれを濁した。 正直、どう言っていいのか分からなかっただけだが。 「いいけど」 見笠は本日も見事に欠席。そして皓弥はこの後講義がなくて帰宅予定。三村は次の時間は空きという、話をするには絶好の機会だった。 だから今しかないと、講義の真っ最中から考えていた。 「どっか行く?図書館?」 皓弥がよく本を借りていることを知っているだけに、三村は無難な場所を口にした。けれどそれは受け入れられない。 図書館は静かすぎるからだ。話し声を他人にあまり聞かれたくない。 「そんなに長い内容じゃないから。歩きながら話す」 歩いていた方が、じっとしている時より他人に聞かれる内容が薄い。 落ち着かない状態ではあるけれど、あの話をしている時はどんなところにいたって落ち着ける自信がなかった。 「あんまり聞かれたいような内容じゃないけど」 「なら、階段で下りる?」 この教室があるのが十階だ。さすがにこの高さになると階段で上がってくるような人は、遅刻間際にしかいない。 まして次の講義が始まっている中、空いているだろうエレベータではなく階段で上がってくる物好きなんてそんなにいないだろう。よほどの健康マニアか。 この若さで健康にそこまで気を使う大学生はいないと信じたい。 「そうだな」 ゆったりと人の波に逆らって歩く。 「今日も見笠来なかったな。あいつ留年するんじゃないだろうな」 三村は欠席した人のことを苦笑いで語った。何気ない会話なのだが、皓弥の心を僅かに乱してくる。 「あのさ」 階段を下り始め、次の講義が始まったらしい時間になると人の通りが全くなくなった。それを確かめてから、皓弥は口を開いた。 「俺」 何かの決意を感じたのか、三村は足を止めて、一段上にいる皓弥をちらりと見上げた。 「え、とな」 「どうしたんだよ」 なかなかきっかけを出せない皓弥に、三村は笑った。困り果てている表情でもしているのか、どこか楽しげな目をされた。 「那智…いるだろ」 「どうかした?那智さん」 「いや、どうかしたわけじゃないんだが。その」 口ごもる皓弥に三村はうん、と相づちをうってくれる。早く喋れと言わずに待っていてくれる事がありがたい。 「付き合って……るんだ」 そこの部分だけ声量が落ちた。だがそれは仕方がないと思って欲しい。前振りもなくいきなりこんなことを告白してしまう迷いというのは、それは巨大なものなのだ。 どんな反応をされるのか。内心怯えに近いものを持っていた。 「なんで今?」 皓弥の怯えとは正反対に、三村は首を傾げただけだった。表情に変化なんてない。 「驚かないのな」 そのことに皓弥の方が驚いてしまう。そんなにも平然と受け止められると、どうしていいものか対処に困る。 「人嫌いの皓弥が誰かと同居して、しかも懐くなんて。いつかそういうことになると思ってた。那智さんだって隠す気ないみたいだし」 ああやっぱりあいつによるところがでかいなと改めて那智の態度を思ってしまう。 「俺に知って欲しい気持ちにでもなった?」 こんな唐突な告白の理由を三村は思い付かないらしい。無理もないだろう。 皓弥自身にだってこの事実を話すきっかけがなさすぎて悩んだほどなのだ。 「聞きたいことがあったから」 「何?」 本来の目的は、那智と付き合っていることを話すためじゃない。それは前段階だ。 「付き合ってるんだろ?」 三村が抱いてるその隠し事が、重くなっているのならば吐き出して欲しい。 それは重くなるべきものじゃない。 少なくとも、三村と自分の間では。 「最近引っ越しをした。遅刻常習犯と」 あえて名前は出さなかった。だってもしも階段を駆け下りてくる奴がいないとは限らない。そんな人間に、見笠と付き合ってるんだろ?と言った台詞を聞かれたら、そしてそいつが見笠の知り合いだったら笑えない状況になる。 確立は限りなくゼロに近いが、ゼロそのものではない。ならば用心するに越したことはないのだ。 「なんで?」 三村がようやく目を見開いた。 「この前あいつん家の近くに、那智の用事で行ったら。おまえらが手繋いで歩いてたから。友達って雰囲気じゃなかった」 見笠に伝えたのと同じ理由を口にする。 三村は瞬きをして、複雑そうな表情を見せた。 「なんで黙ってんだろうって考えたら。俺だって自分のこと話してないと思って」 そして、黙っておこうと初めは思ったのだ。 お互い暗黙の了解でもいいのではないかと。けれどそれを気にしている人がいるなら。 もし、心苦しいと思っているのなら。 ぶっちゃけてしまえばいいのだ。 「自分は何も言ってないのに、おまえになんで言ってくれないんだよって言うのは、おかしいだろ」 「でも、気軽に言えることじゃないしな」 皓弥の迷いを三村はすくいあげる。 お互い慎重派なのだ。 臆病だとも言い換えられる。 傷付くのは嫌だ。傷付けるのも嫌だ。穏便に、何もなく静かにいきたい。 似たもの同士だからこそ上手くやってこれた。そしてこうしている今も、互いの迷いや決意がなんとなく察せられた。 「いつから付き合ってんだよ」 皓弥はまた階段を下りながらそう尋ねた。 もう深刻な空気はなしだと、そう伝えたかった。だからからかうように口にする。 「三ヶ月くらい前」 皓弥の意図を感じ取ったのか、三村はいつものように軽く答えてくれる。 気の置けない仲の、いつもの馴染んだ雰囲気が一気に戻ってくる。 「おまえ男いけたのか?」 「興味なかった。でも向こうが土下座してきたから」 「土下座!?」 俺様ぶっているところのある、あの見笠が土下座したということに皓弥は声を上げた。 想像出来ない。ふんぞり返って気怠そうにしている印象ばかりなのに。 「ちょっと考えられないだろ」 三村は皓弥の驚き方に笑った。 「出来ねぇよ!」 「俺も目を疑った。でもそこまでするならと思って頷いたけど」 (それは、なんていうか、すげぇな) 恋愛というのはものすごいものだ。自分でもある程度感じ取っていたことだが。見笠が土下座するのだから。人は変わるものだ。 感慨深い。 「それで、皓弥は?那智さんとは本当に親戚?いつ告られた?まさか皓弥から告ったとか?」 三村は今まで黙っていた分、元を取ろうとしているかのように矢継ぎ早に質問をしてくる。 そんな勢い、これまで感じさせなかったのにどういうことか。訊きたくても黙っていたということだろうか。 「……訊きすぎだろ」 その勢いに押されてしまう。こうして誰かに自分の恋愛事情に関して訊かれたことがないので、不思議な気持ちだった。 「次の講義までは後一時間二十分ってところか」 三村は携帯を取り出して時間を確認していた。 嫌な予感がして、皓弥は階段をゆったり下りようなんて提案をしたことを後悔してしまう。 「じゃ、じっくりいこうか」 「や、俺もう帰るから」 「自分から話振ったんだろ?ちゃんと責任持って付き合えよ」 三村はとてもいい笑顔で皓弥の腕を掴んだ。好奇心できらきらとしているその顔に、心底うんざりしてしまう。 だがそれも悪くないような気がして、血迷っているなと自分自身に呆れてしまった。 |