掌を合わせ、刀の柄を引き抜いた。 それだけなのに身体を抱き締められた気がした。 ぬくもりに包まれ、手を握られ、熱を分け合うかのような錯覚。 一瞬声を上げそうになる。 だが集中力が散った一瞬を見計らって襲いかかってくる鬼の姿に、意識は急激に冴える。 刀身を夜の下に晒し、皓弥は人の形をかろうじてとどめた鬼を真横に斬った。 抵抗なくすっぱりと斬られ、呆気なく鬼は地面に崩れた。 断末魔の叫びを上げる間もなかった。 血が飛ぶが、それは皓弥にかかる前に灰へと変わっていく。 死体も灰に変化していく様をちらと確信した後、すぐに手の中に収まっている刀の柄を見下ろした。 重みを感じさせない。あれほど切れ味の良い刃物だというのに、まるで羽のように軽かった。 そして掌にぴったりと吸い付くかのように密着してくる。離れがたいと告げているかのようだ。 その感覚は掌だけでなく全身に感じられることだった。 刀の、那智の気配が肌に触れているかのように近い。 出逢って、この刀を抜いた時からその軽さや切れ味、心地良さというものはあったのだが。 ここまで強く意識させられることはなかった。まるで睦み合いたいと囁かれているかのような甘さが刀から伝わってくる。 (抱かれてからだ…) 那智に初めて抱かれてから、こんな甘さを感じるようになった。 そしてそれは、時折いっそう強くなる。 今日がそうだ。 (昨日のせいか……ここまで分かりやすいと、何だかな…) 那智と身体を重ねた次の日に、これほど嬉々とした感情を教えられるということは。 刀自身である那智が、この気持ちを抱いているということだろうか。 (…近すぎる) この身体と融合したい。そう願うような密着具合に苦いものが込み上げてくる。 もう、那智とどう距離を測って良いのか皓弥には分からなかった。 距離なんていらない。そう那智なら言うだろう。だがその言葉通りにすることは、出来なかった。 (そこまで依存出来ない) もう十分過ぎるほど頼っているのだ。これ以上頼れば、もっと弱くなってしまう。自分を保てなくなるくらいに。 「最近、刀握ると複雑そうな顔するね」 いつの間にか隣に立っていた那智が、苦笑していた。 「なんで?」 疑問を投げかけられるが、素直に思っていることを言う気にならず「別に」と素っ気なく返した。 この男は甘やかすのが上手い。一度弱音を吐けば、それを綺麗に包み込んでは溶かしてしまう。 それはとても楽で、気持ち良い。だからこそ、その優しさを期待すれば何度でも弱音を吐き続ける。自分を甘やかしながら。 (弱くないなんて言わないけど。自分を甘やかす気はない) たった一人で生きていけると断言する無知も、鈍さも、強さももうない。だがそれは甘えても良いという理由にはならない。 まだ、一人でも立っていられる。そう信じていたかった。 「別にって顔じゃないけど」 何かあるでしょ。という那智の唇を奪うようにしてキスをした。 掴んでいた刀の柄が煙のように掻き消える。 「帰るぞ」 「つれないなぁ」 触れるだけのキスを、たった一瞬しただけで離れていく皓弥に那智は不服そうな声を上げた。 だが皓弥はきびすを返して、帰路に就く。 那智にキスを任せれば舌を入れてしつこく続けるのだ。夜中とはいえ、世間の真ん中でそんなディープなキスをしたくはない。 だからといって自らキスを仕掛けるようになった自分に、皓弥は変化を感じていた。 近すぎる存在。それを受け入れている自分。 誰かをこんなに身近に感じて安心するようになるなんて、信じられなかった。 喜びよりも先に、戸惑いのほうが濃い。 (こんなはずじゃなかったのに) 後悔ではない。何も悔やむことなどない。だが、確実に不安定さを覚えていた。 母以外の人間を信用してはいけない。 小学校五年の時に、否応なく知った。 犬や猫、小動物は、小さな皓弥を襲ってくることがあった。 鬼という、異形のものになって。 だから動物はあまり好きになれなかった。いつ姿を変えるか分からないからだ。 だが、その時皓弥を襲ったのは小動物などではなかった。 二本の足で歩く、二十ほどの男だった。 道で擦れ違っても気にも止めないような顔だった。その口から黒い牙が生えていなければ、その指が掌まで裂けては鋭い爪を持っていなければ、その瞳が臙脂でなければ、鬼でなければ、皓弥はそんな男のことなど一生記憶に留めなかった。 だが彼はそのいびつな姿で、幼い皓弥の身体に覆い被さろうとした。首に牙を立てようとした。 驚く間もなかった。だが身体は反射的に動いてくれた。野良犬などに襲われた時と同じように。 鞄からいつでも取り出せるようしている短刀を握っては、無意識の内に鬼の首に深く突き刺した。 そしてすぐに引く、すると血が水道から飛び出る水のように勢い良く溢れてきた。 視界は真っ赤に染まった。だがそれだけで止めてはいけない。喉を貫かれ、もがこうとした鬼の首を、今度は横に切り裂いた。 母からは、襲われた時には首か胸、腹を狙えと何度も教えられていた。そして一番近かったのが首だったのだ。 確実に仕留めなければ、次には襲われてしまう。 恐ろしいほど真剣に母は繰り返して皓弥に言い聞かせた。だからだろう、身体は従順にその指示に従った。 おびただしい血を流しながら喉を押さえる鬼から逃れ、皓弥は少し距離を置いた場所で立ち尽くした。 苦しみ、もがきながら倒れる鬼。 アスファルトに爪を立て呻くが、その身体は流した血から、首、胸、と黒く変色しては姿をどろどろに溶かしていく。 ゲル状に姿をよどませては、陰から現れた小さな虫のような鬼に喰われていく。 鬼になった野良犬や野良猫と同じような最期。だが少し前までは人間のような形をしていた。 握っているという感覚が分からなくなるほど短刀を強く握りしめ、皓弥は声を上げずに泣いた。 呆然としながら瞬きもせずにその鬼が消えるのを見つめ続け、言いようのない恐怖に震えた。 人も鬼になる。そう母は言っていた。 そうなんだ、と衝撃を受けながらも皓弥は分かったと頷いた。 この事態は全く想像していなかったわけじゃない。考えていなかったわけじゃない。 鬼を始末した。襲われたから仕方なく斬った。 そう言い訳が出来たはずだった。現にそれまで、そうやって鬼を斬った。 だがもう、そんな言葉は出てこなかった。 言えることはただ一つ、受けた衝撃もまた一つだった。 ――人を殺した。 小さな手に、その重みは到底受けとめられるものではなかった。 服を黒く汚した液体は家に帰って手で洗っても落ちることはなく、皓弥は帰ってきた母に数時間前に自分がしたことを話した。 もう涙は出なかった。現実味はひどく薄まり、ただ恐怖だけが残っていた。 人はみんな、ああなってしまうのだという恐ろしさだけが皓弥を支配した。 母は皓弥の話を聞いて、泣きながら皓弥を抱き締めた。 よくやった、とも。無事で良かった。とも言わなかった。ただ泣きながら、強く抱き締めては、何度も頭を撫でてくれた。 謝っているみたいだ。皓弥はそう思って、ただされるままになっていた。 こんな怖さを母も味わっているのだろうか。 そう思うだけで、抱き締めてくれている腕がとても近く、そして哀れに思えた。 もう誰も信じられない、母しか必要と思えない。 他人はいつ鬼になるのか分からない。だから仲良くしてはいけない。 鬼になった時に、辛いだけだから。 その日から、皓弥は人と親しくするのを止めようとした。 だが人恋しさは消えず、寄ってる人を拒むことも出来ず、少数の友人と気の置けない付き合いをした。 それでも、一定の距離を保つことは欠かさなかった。というより、もう深く近寄ることが出来なくなっていた。 人が怖くなっていたのだ。 悲しいこととは思わなかった。こういう血に生まれた以上諦めるしかない。 そしていつか一人で生きていくのだろう。自分のことを全てさらけ出すこともなく、隠しながら。寄り添うだけで誰かと痛みを分け合うことも、支え合うことも出来ずに終わるのだろう。 そう、思っていた。 目を開ける。力無く投げ出されたような自分の腕が見えた。 その先には少し離れて窓がある。カーテンを引いておらず、月の光が零れていていた。 青みを帯びた世界の中、皓弥はまどろみからゆっくり覚醒した。 小さな頃の夢を見ていた気がする。亡くなった母に抱き締められた夢だ。 この世で唯一、全てを許せる人だった。鬼が欲しがる血のことも、人に怯えなければいけないことも、母は知っていた。痛みも苦しみも分け合えた。 あの人だけは、皓弥を分かってくれていた。 だがその人は鬼に喰い殺された。 もう誰も信じられない。気持ちを預けることも、心をさらけ出すこともない。はずだった。 (はずだったのに…) くらりと思いが揺れた。 寝返りをうつと、那智が目を閉じて眠っていた。 成り行きで同じベッドに寝るようになったが、毎日身体を開いているわけではなかった。せいぜい一週間に一、二回程度だ。 「予想を裏切らぬ淡泊さだねぇ」と那智は苦笑していたが、それが淡泊なのか、普通なのか、皓弥は知らないし興味もなかった。 那智が強く求めるから、あげられるものならやってもいいか、と思った。だがそう頻繁に欲しがられても体力が持たない。その上羞恥を掻き立てられることなので、進んでやろうという気にならないのだ。 この頻度は譲歩の現れだ。 寝息を立てる那智は、皓弥を腕に抱いている。 何が面白いのか、この男は皓弥を抱いて寝たがるのだ。皓弥が近くにいると嬉しい、と何とも理解しがたい理由を付けながら。 寝にくいと最初は文句を言っていたが、最近では諦めた。 夏になり、暑いと言う皓弥にわざわざクーラーの設定温度を下げるほどのこだわりだ。 (なんで。そこまでこだわるんだよ) 主だからなんて理由は、皓弥には分からない。 だからだろうか、不安が足下からじわりと込み上げてくる瞬間があるのは。 目を開ければ微笑んでくる那智は、目を閉じていると冴えた月のような印象を受ける。 銀の三日月のような、鋭さがあった。 その鋭利さが、皓弥に向けられることはない。 なるべく腕を動かさないように、ベッドの中から抜け出す。 髪が肩から流れ落ちた。 皓弥が起きるとすぐに目を覚ます男は、今夜に限ってはよく寝ているようだった。 じっと顔を見下ろし瞼が開かれないことを確認すると、皓弥は窓の枠に寄りかかった。 空調が働いている微かな音。 部屋の中は淡い光に照らされている。 ここに引っ越してきてから随分日が経った。 新しいベッド、本棚、部屋、同居人。それらはもうすでに馴染んでしまった。 前にいた空間をはっきりと思い出せなくなるまでに。 だが母の位牌を置いている和室に入るたびに、失われた存在の大きさを噛み締めた。 どうしたの。そう笑いかけてくれる声を、未だに望んでしまう。 貴方だけが、この痛みを分かってくれていた。支え合うことが出来た。そう訴えたくなる。 (でも、それこそ笑われそうだ) 何言ってるの。もう支えてくれる人がいるじゃないの。 母の面影は、そう微笑んでいる。皓弥の勝手な想像だ。だが予測できる言葉はそれだけだった。 (でも嫌なんだ…) 近すぎる距離が怖い。 自分を壊していく那智が、中に入って変えてしまう存在が、怖かった。 必死で作り上げてきた他人との距離を、あっさりと那智は超えてしまう。壁などないというように、するりと入り込んでくる。 嫌じゃないことが、嫌だった。怖くないことが、怖かった。 「俺は…こんなに近すぎるとどうしていいか分からないのに」 そんな戸惑いを那智は察しているはずだ。皓弥のことに関しては妙に鋭いのだから。 「なんで」 声は、唐突に凛と響いた。 目を閉じたままだった那智は、ゆっくりと瞼を上げる。 起きたらしい。 「どうしてそんな顔してるの。嘆くような」 那智は苦笑しながら、ゆっくり起きあがった。 ベッドから出ては、皓弥に近寄る。 「近すぎるのが怖い?」 月光のほのかな青さに照らされながら、二人は向かい合う。 ベッドの中ではあれだけ側にいても平気で眠っていたというのに。いざこうしてみるとどうしても那智と距離を取りたくなる。 縮まる距離の分、寄りかかってしまうのではないか。そんな心配がよぎる。 「嫌なんだよ。近すぎるのが」 「なんで?」 十pほど背の高い那智から見下ろされて、皓弥は目を伏せる。 責められているわけではない。ただ問われているだけだというのに、口は重くなる。 「離れるのが嫌になるから?」 聞かないでくれないか。 那智の言葉に、そんな願いが零れて落ちる気がした。 真実だった。 離れるのが怖いのだ。那智と離れて生きていくことを、考えるだけでも怖くなるのだ。 それなのに、これ以上近くなって、依存して、全て分け合っているという錯覚を起こすほど、那智を受け入れてしまったら。 いなくなった時に、どうすればいい。 そして、他の誰も信じないと決めた、あの決意はどこに。 「俺は離れないよ。皓弥を置いてどこにもいかない。鬼に喰われることもない。言っただろ?」 「聞いたよ」 「それでもまだ不安?」 「…おまえに対して不安なんじゃない…俺は」 皓弥は背を丸め、深く息を吐いた。弱音を吐くという合図を出すかのように。 一つに纏めずに垂らしたままの髪が、さらりと乱れる。 亡くなった時の母より長くなってしまった髪に、痛みがじくりと広がった。 「俺が変わってしまうことが不安なんだよ…」 「変わりたくないの?」 「弱くなっていく。おまえに頼ってどんどん一人でいられなくなる」 「一人でいられなくなればいい。俺がずっと側にいるから」 「でも俺は…」 那智が側にいる。そのことに甘えていたくない。守られていたくない。 誰かの腕の中で生きていく人間ではない。そんなものになれはしない。最期は一人で生きて、闘って、死んでいくのだ。 幼い頃に決めていたビジョンが、足下から縛り付けてくる。 「俺は側にいる。でも皓弥をぎゅっと抱き締めて動けなくしているわけじゃない。俺は皓弥の背中を守るから、だから皓弥は前を向いて望むことをすればいい。立ち向かっていけばいい」 やらなければいけないと決めたことがあるんだろう? 頭上から囁くような声が降ってくる。母を殺した鬼を殺すのだ、そう告げた自分の声が蘇る。 「俺を受け入れて、溶けるくらいに側にいさせて。離れる時なんて考えなくていい。そんな時は来ないから」 那智が髪をすいていく。頬を掠める指先に、ぞくりとした疼きが生まれいく。 陥落させられる。この男が触れると、甘さが込み上げてくるのだ。 迷いすら包み込むほどの甘さ。 「人を求めることは、弱さじゃないよ。皓弥の背中を頂戴」 「…こうやって…おまえは俺から不安まで奪っていくんだな」 「そうだよ。俺は何もかも奪われたんだから。ちょっとは取り返さないと割に合わない」 「奪った覚えなんかない」 出逢った時から、那智はこんな調子だった。 あからさまな好意をぶつけてきては皓弥を翻弄して、抱き締めて、包み込んでは懐柔してしまった。 奪われたのはむしろ自分だけじゃないか。そんなことを思ってしまう。 「生まれた時から、皓弥は俺から何もかも奪っていったんだよ。幸せも悲しみも、何もかも。だから、俺は皓弥から全てもらっているんだよ」 「…やれるもんなんか、そんなにない」 「そうかな。幸せとか、喜びとかは、いつだってもらってるけど」 こつんと額を合わせてきては、那智は小さく笑う。嬉しそうに。 皓弥はちらりと上目でその表情を見て、諦めたように苦笑した。何を言っても、弱音でさえも、那智にかかればこんな風に変えられてしまう。対抗する術すらもう思いつかない。 なくなってしまった距離を感じながら、月の光を宿した那智をじっと見つめた。 この眼差しを失わずにいる間は、後ろを振り返ることはないだろう。 願いを叶えるために、がむしゃらに走ればいい。 迷いはこの瞳が消してくれる。 「離れたと思ったら、見捨てるからな」 「大丈夫。いつだってぴったりくっついてるから」 まるで身体の一部のように。そう囁いてくる男はもうすでに皓弥がそう感じていることを知っているだろうか。 薄々察知してはいるだろう。勘は鋭い。 だがまだ口に出してやる気にはならなかった。もう少し、強がっていてもいいだろう。 認めるのは、少し癪だから。 |