与える熱 6



 卑屈と思えるほど自分に自信がない要に、深川もじれったさを抱えていたのかも知れない。
 俺がそうであったみたいに。
「要はずっと自分を抑えてきた。母親が亡くなってから、父親と二人暮らし。仕事で家にいない父親に寂しいと訴えても困らせるだけ」
 深川は淡々と語る。
 俺は母親と二人暮らしせいか、親を困らせた時のいいようのない罪悪感はよく分かる。
 願いを叶えて欲しいだけだ。きいて欲しいだけだ。
 困ったり、怒ったりして欲しいわけじゃない。
 子どもの頃はそう思っていた。
 叶えられないとは、信じたくなかった。
「寂しがっても誰かが側にいてくれるわけじゃない。なら寂しがるだけ辛くなるだけ。誰かを欲しがっても苦しくなるだけ。自分が傷付くだけ」
 他人のことを語っているというのに、深川の説明は実に分かり易い。感情移入しやすかった。
 それは俺の側に思い当たる節があるだけじゃなくて、深川も同じような環境で育ったからじゃないだろうか。
 だから要を放っておけないのかも知れない。
「いい子にしてなきゃみんなが困る。だからじっと我慢して、我慢して」
 あいつは求めることを止めてしまった。
 俺は片親だが、とても要のように我慢ばかり出来ない。
 性格の違いがここで大きく出たらしい。あいつももっと我が儘を覚えていたら良かったのに。
「家事をすると帰宅した父親が喜ぶから家事ばかり上手くなって。勉強と運動が駄目だから更に料理だけが得意みたいなことになって」
 要は料理を褒めると本当に嬉しそうな顔をする。
 他のことに関して褒めても「こんなことないよ」と戸惑いながら拒むのに、料理だけはすんなり頷いた。
 唯一自他共に認める長所なんだろう。
 父親のために覚えた。人の邪魔にならないようにしてきたことだけが、要に小さな自信を与えた。
 邪魔にならないためには、それをするのが一番だと勘違いさせるみたいに。
「要はそうして我慢することばかり覚えた。そして今も、そのままだ」
 子どもの頃なら、まだ限られた狭い世界は視野にいるなら健気な子だと言えたかも知れない。
 けどあいつはもう高校生で、家庭内以外の価値観だって持ってもいい年だ。
 我慢することだけじゃなくもっと他のことを学びたいと思っても当然なはずだ。
 それをいつまでも小さな中に捕らわれ続けて、そこでじっとしてる。
「あいつはあほか」
 誰もそんな小さな中にいろと言ってないのに。自分で入って出てこないなんて。
 外にはもっと色々なことが要を待っているのに。どんなおまえでもいいと言ってる人がいるのに。
「僕は手を伸ばしてもいいって言ったんだ。我慢するだけじゃなくて、手を伸ばしてもいいって」
 深川の言葉に、俺は昨夜の光景を思い出した。
 俺に真っ直ぐ伸ばされた腕。
 抱き返すための腕じゃなくて、欲しがるような腕に思えた
 俺を欲しがっていると感じた。特別な瞬間だった。
「自信を持ってもいいんだって」
 溜息が微かに混じった声に、俺は肩をすくめる。
 深川もそれを要に理解して欲しいのだろう。心底願っているように見えた。
 苦労なんて深川には似合わないが、要のことに関してだけで苦労をしているようだ。
「でも要はそれを理解しようとしない。欲しがられていることを感じようとしない」
 要は、俺の言葉をすんなりと飲み込めていないように感じていた。
 頑なだ。
 どうして聞かないのか。分かろうとしないのか。俺には理解出来なかった。
 弱気で、怖がりで、だからこそ人から手を伸ばされれば嬉しいんじゃないかって俺は思った。
「自分をいらない子のように思ってる」
 いらないはずがないだろ。
 俺は心の中でそう言いたかった。
 だが深川に言っても仕方がない。こいつだってきっと同じことを思っている。
 だから歯がゆくて苦そうに喋っているんだ。
「誰もそんなこと思ってないのに」
 けれど、要は子どもの頃にそう思ったんだろう。感じたんだろう。
 俺も母親の重荷にならないようにしてきたように。
 けどそんな時期はもう終わった。
「だから俺と付き合ってるのが不思議なのか」
 いらない子なのに、どうして俺は付き合ってくれているんだろう。そんな疑問を持っているから「もっと似合う子が」なんて言い出す。
 俺は通じない気持ちに苛々してしまう。
「僕が友達でいるのも奇跡みたいに思ってるかもな」
 深川は苦笑しているが、実際要が言い出しそうな台詞だ。
「お前みたいな毒舌。あいつくらい天然じゃねぇと友達やってらんねぇだろ」
 口悪く告げると深川は嫌味の一つでも言うかと思った。
 だがふっと力を抜くように笑っただけだった。
 それは頷いてるのと同じように見えた。
「要は自分が特別だと思われてるって感じられてない。僕も教えてやりたいけど、僕には他に特別な人がいる。絶対的に特別な存在が」
 特別だと言った深川にはちらりと深い思いが感じられた。
 その特別っていうのは軽はずみに口に出せるようにものではないんだろう。
 誰だなんて訊くなと無言で伝えられ、俺は黙っていた。
「健太だって彼女がいる。だから数寄屋が教えてやってよ。自分も誰かにとって特別な、必要とされてる存在なんだって」
 かけがえのない人間なんだということを、要にも実感して欲しい。
 いらないなんて、誰も思っていない。いなきゃ困るんだってことを、分かって欲しい。
「だって数寄屋はそう思われたいんだろ?」
 この気持ちを見透かしているような深川に、多少面白くないものがある。俺が要に振り回されているのを冷静に眺められている気分だ。
 だが言われたことは決して嫌なものではなかった。
 まあな、という曖昧な返事をすると深川はいつものように意味ありげな視線で小さく笑った。



 要が俺の部屋に来て飯を作る日常が戻ってきた。
 って言っても離れていた時間は五日間なので、戻ってきたというのも奇妙なものだが。
 飯を終えて、要は流しで洗い物をしていた。
 食事を作らせて洗い物までさせているなんて酷いと自分でも思うんだが、以前洗い物は自分でやると自主的に動いた時には皿を割ったのだ。
 要がやった方が早くて、なおかつ的確だった。
 普段は不器用だってのに、どうして家事になると器用になるのかあいつの構造は全くの謎だ。
 俺が唯一勝てない分類だ。
 水音が聞こえる中、俺は小柄な要の背後に立った。
 俺が特別背が高いわけじゃない。要が小さいだけだろう。
 覗き込むと丁度洗い物が終わったところだった。手についた泡を流している様に、腕の中にすっぽり入るんじゃないかと思ってしまった。
 そしてつい腕を伸ばして、要を抱き込んだ。
「す、数寄屋!?」
 唐突な行動に要が声を上擦らせた。
 顔だけで振り返って俺を見上げる。
 前髪はまだピンで留められているから瞳がはっきりと見えた。視線が合うと俯いて、身体を強張らせた。
「な、なんで…?」
 どうしてと問われても、さして理由なんてない。つい手が伸びたのだ。
「そうしたかったから」
 素直に答えると「え…ど…どうして?」と心底不思議がっている声が聞こえてくる。
 それに俺はひっかかりを覚えた。
 仮にも付き合っている人が後ろから抱き締めて来ても、そこまで追求するだろうか。
 なんとなく抱き締めたかったという理由だけで納得するものではないのか。
 確かにスキンシップが過剰な付き合いはしていないが、ここまで怪訝に思われると本当に付き合っているのか尋ねたくなる。
「別におかしなことじゃないだろ。好きで付き合ってんだから、不意に抱き締めたいって思ってもおかしくない」
 なんでこんなことまで説明が必要なんだ。と軽く頭痛を覚える。
 何でもかんでも一から教えなきゃいけないもんなんだろうか。同い年だっていうのにすげぇ小さな子を相手にしているような気分になる。
 ロリコンの趣味はないから、勘弁して欲しい。
「おかしくないも、のかな…」
 そういうものなのかな。と要は小声で呟く。
 そもそも要には、恋人同士の付き合いというもの自体知らないのかも知れない。
 だからいちいち戸惑っているのか。
「そういうもんだ。欲しかったら手を伸ばすのが自然だし。伸ばしてもいいだろ。付き合ってんだから」
 どうしてこうも付き合っていることを繰り返さなきゃいけないのか。
 身体の方は納得してんだから頭でも理解して欲しい。
「我慢することなんて何もない。おまえは俺のもんだし。その逆もアリだ」
 俺がおまえのものだと素面で言うには多少の気恥ずかしさがあった。
 以前の俺なら絶対に言わない数々をすでに説明として口にしているので、今更の羞恥ではあったが。
「分かったか」
 さらさらとした髪を持つ人を見下ろす。
 身体は強張ったままで、聞いているのかいないのか。
 返事を要求しようかと思っていると、抱き締めていた腕に要の手が触れた。
 そして少しだけ握る。
 小さな反応だ。
 だが前にはなかった動きだった。
 欲しがってもいい。そう言った俺に対する返事らしい。
 どこまでも消極的な、慎ましい主張に口元が緩んだ。
 こいつが俺を、自分のものだと自覚する日はいつくるだろう。
 その分ではとても先になりそうだが、いつかは来るような気がした。
 一つずつ、要のペースでゆっくり知っていけばいい。
 自分は特別だっていうことを。




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