柔らかな響き 5


 頭を撫でられてる。
 額にかかっていた髪をかき上げられてる。
 乾いた感触が気持ちよくて、僕は意識がふわふわするのを止められなかった。
 眠気が波みたいに押し寄せてくる。
「おい」
 声も優しい。
 よく聞く投げるみたいな言い方じゃなくて、掌みたいに撫でる感じだった。
「遅刻するぞ」
「ぅあ…」
 遅刻。の単語に僕は目を開けた。
 数寄屋の顔がアップで目に飛び込んできて、心臓がびくんと跳ねる。
 少し脱色している髪が、ひょんと所々跳ねている。
 寝癖なのだろう。
 ということは。
「…朝…?」
 声が妙な感じだった。かすれているみたいな。
 ひっかかてるみたいだけど、寝起きだからかも知れない。
「ああ。しかもすでに七時を軽く回ってる」
「え…ああっ!」
 僕はがばっという表現がぴったりの勢いで起きあがった。
 七時なら御飯を作って、早めに食べれば間に合う。
 急いで支度しなきゃ、と思ったけど立つ以前の問題で、腰が上がらなかった。
 ぎしぎしときしむような感覚に僕は布団の端を握りしめた。
 思い出したくない声とか、言葉とか、音とか、映像とかがやけに生々しく蘇ってきて。
(恥ずかしくて…き、消えたいかも…)
 小さくなっている僕の頭をぽんと軽く叩き、数寄屋は「大丈夫かよ」と気遣ってくれた。
「昨日はやり過ぎたからな。最多だったんじゃねぇか?」
 最多って…と呆然とする僕の腰を、数寄屋の手がさすった。
「ひゃあ!」
「まだ敏感なのか?」
 妙な声を上げて背をしならせる僕を、数寄屋は興味深そうに見ている。
 一晩寝ても感覚って残ってんのかよ。と前に一度聞かれたことがあるので気になっているのかも知れない。
「…重い、感じかな…」
 腰よりも別の場所に違和感があるけど。言えない。口が裂けても。
「それより、御飯作らないと」
 ずるずるといったように立ち上がる。
 今日体育がなくて良かった。あったら使い物にならない。
 ただでさえ運動出来ないのに。
「トーストでいいなら、今すぐ出来る」
 数寄屋は親指で机の上を指した。
 トースターと食パンの袋が一つ。
 マーガリンも置いてある。
「数寄屋は、和食が好きじゃなかった?」
 寝起きでちょっとぼーっとしてる頭でそう言われたことを思い出した。
 だから数寄屋と食べる時、僕は和食中心に御飯を作ってる。
「そうだけどな。今日はおまえがなかなか起きてこないから」
「起こせばいいのに…」
「あんだけ啼かしておいて、起こせねぇだろ」
 数寄屋が苦笑した。
 あんだけ、と言われて声の調子がおかしい理由がわかった。
 ものすごく恥ずかしいけど。
「学校行けるか?」
「行く、よ。うん…」
 四つん這いで机まで歩いた僕が言うと「大丈夫かよ」と半ば呆れたような顔をされた。
「休んでもいいんじゃねぇの?おまえ一回も休んでねぇだろ」
「そうだけど…」
 こんな理由で休むのが、なんだか恥ずかしい。
 袋から食パンを取り出して、二枚ほどトースターに入れる。
「飲み物どうする?お湯沸かそうか?」
「牛乳でいい。おまえは立ち上がるな」
 と数寄屋は言って冷蔵庫から牛乳を取り出して来た。
 二つのグラスと一緒に。
「こうやって朝飯食うのは初めてか」
 机を挟んで向かい合う光景は何度も目にしたけど、眩しいくらいの朝日に照らされるのは初めてだった。
「大体昼まで寝てたからな」
 それは夏休みだったから…と僕は呟いた。
 僕は毎朝7時前には目を覚ます。
 父さんの弁当やらを作ったりするから。
 でも数寄屋の部屋に泊まった時はいつも日が高く昇りきるまでぐったり寝ている。
 それも空腹で目を覚ますっていうパターンだった。
「数寄屋は…大丈夫なの?」
 僕は起きたばっかりだっていうのに怠くて仕方ないんだけど。
 朝の弱い数寄屋はいつも不機嫌そうな上に怠そうだから、疲れていても分からなかった。
「あ?あー、全然」
「そうなんだ…」
 この人って疲れないんだろうか。
 時々不思議に思う。
「おまえは体力なさ過ぎ。運動しろ運動」
「神経切れてるから…」
「だからって持久力がないにもほどがあるだろ」
 はぁ。と僕はこくんと頷く。
「まぁ…。おまえがいきなり筋肉付け始めたら嫌だけどな」
「嫌?」
 運動しろっていうなら、筋肉だって付くんじゃないのかな。と首を傾げると数寄屋はグラスに注いだ牛乳に口を付けた。
 んく、と喉仏が動くのに僕は目を奪われた。
 上下するそれを、薄暗い中で何度も見つめた気がした。
(あ…朝から何を…)
 ほてる身体を感じて俯いた。
「筋肉なんざ付いたら抱き心地が悪くなりそうだからな」
「朝なのに…」
 なんでこうも夜の話ばかりしているのだろう。
 頭が重くなる。
 チン、というトースターの音だけが爽やかだった。
「朝だからだろうが」
「それはどうかと…」
 きつね色に焼けたトーストにマーガリンを塗って、数寄屋に手渡す。
 自分の分より先にやるくせがついてる。
「そういや」
 トーストにかぶりつきながら数寄屋が思い出したように口を開いた。
「一緒に登校すんのか?」
「え?」
 ブルーベリージャムを付けて食べることの多い僕は、マーガリンだけのトーストにちょっと物足りなさを感じていたときだった。
「時間差で部屋を出るような余裕はないだろ。おまえが嫌だって言うなら俺は遅刻してくけど」
「嫌じゃないけど…」
 僕は上目で数寄屋を見た。
(数寄屋は嫌じゃないのかな?)
 学校では接点がほとんどない。
 会話することも、ほとんどない。
 ただのクラスメイト。名前を知っているかどうかもわからないような関係だと、周囲は思っているだろう。
(僕と数寄屋じゃ、全然タイプ違うし…)
 以前はごくたまに数寄屋から声をかけられるたびに、周りが違和感を覚えているような視線を向けてきていた。
 最近はそれも薄れてきたとはいえ。
(一緒に登校するような感じじゃないと思うんだけど…)
 人は何と言うだろうかと思うと、少しためらう。
「数寄屋は、いいの?他の人が見たらなんでって言うと思うけど…」
「別に。他の奴が何言ってても俺の知ったことじゃないしな」
 そうだろうなぁ。と僕は納得してしまった。
 数寄屋は人の目なんて気にしない。
 自分は自分。他人は他人。
 どんな目で見られても、自分がいいと信じたことなら曲げない。
 強い人だった。
(そんな人がなんで僕を強いなんて言うのか、わかんないんだけど…)
「おまえがいいなら、それでいいし」
「へ?」
「おまえが気にしないなら、一緒に登校するって言ってんだよ」
 同じことを繰り返させるな、と言うように少し苛立った声。
 あ、ごめん、と言いかけて僕は慌ててそれを飲み込む。
 些細なことで謝ると、さらに数寄屋は苛々するから。
「他の奴の言うことなんて、どうでもいいって…」
 言ったのに。と僕はトーストを囓りながら呟いた。
「おまえ以外の他人の話だ。おまえが嫌ならしない」
 僕はトーストを囓ったまま、深く俯いた。
 それは、ものすごく大切にされているってことなんじゃ。
 腕の中にふんわり包まれているみたいに、大事にされているってことなんじゃないのか。
 そう思うと顔が熱くなった。
 くすぐったいのに、切なくて。口元が緩むのを抑えるのが大変だった。
「学校で話かけるのも、必要最低限に留めてるだろ。おまえが気にしてるから」
 数寄屋は一枚食べ終わったのか、またトースターの扉を開けたようだった。
 キィ、ときしむ音がする。
「僕は数寄屋が嫌なのかと…」
「なんで嫌がるんだよ」
「だって…接点とか全然ないし」
「はぁ?接点?おまえ何言ってんの?」
 これで接点ないとか言ってたら完璧馬鹿だぞ?と呆れた声が降ってくる。
 そうじゃなくて、と言い直そうと思ったけど止めておいた。
 きっと数寄屋は「他の奴なんか知らねぇって言ってんだろ」って言うから。
「要って言いそうになるのも、わざわざ言い直してるしな。おまえが気にしないってなら、名前で呼ぶぞ?面倒だから」
「それは、駄目だって!」
 僕にしてみればとんでもないことだった。
 がばっと顔を上げると、数寄屋は目を見開いた。
 でもすぐに意地悪そうに唇の端を上げて見せる。
「顔真っ赤だな。名前で呼ばれんのそんなに嫌か?」
「嫌ってわけじゃないけど……でも…」
 西岡と言われると大丈夫なのに、要と言われた瞬間。数寄屋が間近に感じられるのだ。
 肌が触れているみたいに。
 それはきっと、二人きりで、特に抱き合っているときによくその名前を呼ばれるからだろうけど。
(わたわたするから、外では止めて欲しい…)
「おまえが言いたいことはわかった。そうだな、西岡にしとく。んな顔外でされたら俺が嫌だ」
「そんな顔?」
 赤くなっているらしい顔を、手の甲で触れてみる。
 ほんのり熱い。
「今まで一度も男子校に進まなくて良かったな」
 トースターの軽い音がまた聞こえて、きつね色というより茶色に近いトーストが数寄屋の手によって取り出された。
「男子校?」
「この辺りにはなかったからな」
「あ、うん…。ないね」
 どうして突然男子校の話になるのか、さっぱりだった。
「あったら食われてるな」
「食われ?」
 数寄屋の手にあるトーストのように?と僕は首を傾げた。
「おまえ、おもしろい」
 朝なのに珍しく数寄屋は機嫌良さそうに、小さく笑った。


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