温度ある心 4


 がしゃん。
(割れた…)
 皿が堅い物にぶつかる音に目を覚ました。あの音はきっと割れただろう。
 身体は怠くて、起きあがる気にならない。
 ぼんやりとしていると、また大きな音が聞こえてきた。
 がちっ。
(荒いなぁ…)
 投げ置いているみたいな荒っぽい物音だ。誰がそんなことをしているんだろう。父さんが帰って来たのかな。
 でも父さんはあんな扱い方をしない。
 陶器同士のぶつかったかと思うと水が流れる音が聞こえてくる。
(洗い物してるんだ…)
 ゆっくりと重いまぶたを開けてみる。カーテンはしっかりと締められ、部屋の中は電気がついていた。きっと外は夜が深まっているんだろう。
「ちっ…」と舌打ちが聞こえて、またがしゃんと乱暴な音がした。
 苛立っているような舌打ちに起きあがって台所を見る。
 するとそこには見慣れない人がいた。
 数寄屋がこちらに背中を向けて、洗い場に立っている。
 そうだ、数寄屋が家に来ていた。
「…何やってるの?」
「洗い物」
「そんなことしなくてもいいのに…」
 代わろうと思ったが全裸なのに気が付いて服を探す。
(どうりで変な感じだと思った…)
 肌寒いような心許なさに、散らかっていた服を手に取る。
 これを脱がされた時の記憶は、あんまり鮮明じゃない。
 気が付いたにあっという間に剥がれていたから。
 身体を見ると所々に赤い痕がある。
 唇を寄せられた所だとすぐに気が付いて、身体の熱が上がる。
 これは、もしすかるとキスマークというものなんだろうか。そんなのが自分の身体にあるなんて。
(やだなぁ…)
 きっとこれを見るたびいたたまれなくなる自分が想像出来た。
 あんなことをするなんて。それであんな声を上げるなんて。
「代わるよ」
 服を着込んで数寄屋の隣に立つ。
 これ以上一人でぼうっとしていても、いらないことばっかり思い出して困るだけだ。
 それなら食器が割れる前に、数寄屋と洗い物を交代したほうがいい。
「いい」
 数寄屋は断ったが、その手つきを見ていると危なっかしくて、皿をすぐに落としそうだった。
「…やっぱり代わるよ、数寄屋君ってこーゆーの向いてないみたいだし」
 がしゃんと皿を一枚割ったところで数寄屋を止めた。
 普段は何でもそつなくこなしているように見えたのに、洗い物が出来ないなんて意外だ。
 誰にでも苦手ってあるみたいだ。
「…悪い」
「いいよ、僕こーゆーのは得意だし」
 数寄屋の手つきをはらはらしながら見るより自分でやったほうが安心できる。
(なんか身体が痛いけどしかたない…)
 心の中で少しだけ溜息をついた。
 どこが痛いなんて意識したくない。
「…器用だな。学校ではとろいだけの奴に見えてたが」
 事実をさされて、乾いた笑いが込み上げてきた。
 本当にとろいから、そう思われても当然だ。
「あはは…。これくらいしか出来ることなくて…」
 勉強も運動も出来ない。出来ることは本当にこれくらいしかなくて、情けないなぁとよく思っている。
「家庭科の実習ではお前と一緒の班になると得なんだな」
「数寄屋君と一緒になるかなぁ〜、どうだろ」
 調理実習は出席番号で班組をされる。数寄屋と同じ班にはたぶんなれないと思う。  でもそうなったら楽しいかも知れない。
 きっと実習でも数寄屋はぱくぱく食べるだろうから。
「数寄屋」
「え?」
 突然自分の名前を言った数寄屋に、僕は驚いて顔を見上げた。
「君はいらない。数寄屋でいい」
「え…でも…」
「君付けなんて聞き慣れない名前で呼ぶな」
 数寄屋の言い方は少しきつく聞こえて思わず頷いた。
(…君付けしない人なんか滅多にいないのに…しかも数寄屋君に君を付けないなんて…)
 威圧感のある人だけに気を使っているのに。
 呼び捨てにするほうがずっと緊張するような気がした。
「す、数寄屋?」
「あん?」
 試しに呼ぶと少しだるそうな声が返ってくる。
「要」
 声と共に後ろから腰に腕を回される。
 抱き締められたことにも驚いたが、聞こえてきた名前にも驚いた。
「…え?え?」
(下の名前じゃなかったっけ?)
 驚いてうわずった声を上げると後ろでくつくつと笑う声がした。
 楽しそうだ。
「からかってる?」
 遊ばれているんだろう。少し恨めしくなる。
 僕をからかっても楽しいことなんてないはずなのに。
「さぁな」
 そう言った声が笑っている。
「ひどい…」
 数寄屋の顔が肩口に寄せられ、唇が首の付け根に当たって妙な感覚だった。
 さっきも、それに似たことをされた気がする。
 あの時はもっと別のところが気になって仕方なかったから、あんまり何とも思わなかったけど。
 今は心臓が跳ねるくらい、意識してしまう。
「…なんで…あんなことしたの…?」
「あ?」
「だって…やっぱり僕は男だよ?」
 もし女の子だったら、少しは分かったかも知れない。
 それでもなんで僕なんて、って疑問は消えなかっただろうけど。
 男の僕よりかはまだましだった。
「…お前、まだ分かってねえのかよ」
「だって、考える間なんてなかった…」
 どうしてこんなことしているのか、なんて考える余裕は全然なかった。
 嵐の中に放り込まれて、何も考えられなかった。
「お前、馬鹿だな」
 数寄屋の言葉がぐさっと刺さった。
 事実だけど、自覚してるけど、そんなにあっさり言うことないと思う。
「だって…」
 そんないきなり言われても、すぐになんて分からないよ。そう涙ぐみかけたとき、数寄屋は溜息をついたようだった。
「特別だからだろう。やりたいだけなら女とやる。その方が手間もかからない」
「…特別?」
「お前が特別だから。だからやった」
 じわりと何かがこみ上げてくるようだった。それが何かは分からない。ただ、少し熱を帯びた感情のように思えた。
 特別。
 それは嫌な風には聞こえなかった。むしろ、喜んでいいようなものに感じられる。
「それは…いいこと?」
「さぁな」
「悪いこと?」
「んなこと分かるかよ」
 数寄屋の身体さらにが寄せられたのが分かった。
 背中に、体温を感じる。
 ちょっと前みたいな熱さじゃなくて、あったかいぬくもり。
 ただ抱き締められているっていうより、もっと深くて意味があるようなものに思えて顔が熱くなる。
「…ごめん」
「何が」
「なんか恥ずかしい…」
 背中に感じる体温も、それを嫌がらない自分も。緩んでいるだろう顔も。熱を上げる感情も。
 なんだか恥ずかしくてしゃがみこみそうになるのに、数寄屋の腕がそれを許さない。
「恥ずかしいのはお前だけじゃない」
 ぶっきらぼうに聞こえる数寄屋の声は、照れているからかもしれない。
 そう思うとなんだかおもしろかった。


「数寄屋と仲いいんだ」
「え!?なんで!?」
 移動教室に行く途中、深川が何気なく言い出した。
(学校では言葉なんてほとんど交わしてないのに)
「なんとなく。時々目が合ってるみたいだし」
「偶然だよ」
(たぶん…。一日に一回目が合うかどうかぐらいだし)
 でもあんなことになる前は、一度だって目が合わなかった。
 それを思うと、少し距離が近寄ったっていうのは本当かも知れない。
「数寄屋は要のこと見てるみたいだし」
「え!?」
「分かってなかった?割と前から、そうだったのに?」
「い、いつから?」
 そんなこと知らなかった。
 見られてるなんて思ったこともなかったのに。どうして深川は分かったんだろう。
「そうだね…一ヶ月前くらいかな」
(怪我したすぐ後くらいだ…)
 全く気が付いていなかった。
(深川は鋭いからなぁ…)
 鈍い僕とは比べ物にならないくらい、周囲がよく見えるんだろう。
「何かあった?」
「え、あるわけないよ!」
「あったんだね」
 きっぱり無いと言い切ったのに、どうしてこんなに深川には筒抜けなんだろう…。
「無いってば…」
 力無く言い続けると深川は「へー」と笑いの混ざった声で言った。
 にやにや笑いが深川の顔に張り付いている。
「まぁ、楽しませていただきます」
「深川っ!」
 からかわれ、大声を出すと後ろからぽかんと大きな物を当てられた。
「え…?」
 すぐ横を後ろから来た数寄屋がさっさと歩いて行ってしまう。
 その手にはノート一冊だけ。きっとあれで軽く叩かれたのだろう。
「珍しく要が大声出すから、気になったんだろー?」
「…どーゆーこと?」
 どうして大きな声を出しただけで、軽く頭を叩かれるんだろう。
 しかも全然痛くない。
 まるで声をかけるみたいな感じだった。
「さぁね」
 叩かれた意味が分からず首を傾げると深川は益々笑みを深くした。



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