もうあの駅には行かないから。鞄も買ったし、本当に行く必要がなくなったから。
 翌朝史浩は俺にそう言った。
 まるで俺が史浩を待っている黒ずくめを目撃したのを、知っているみたいな言い方だった。
 自分から抱かれたいと史浩を誘ったことがそんなに珍しかったのか。違和感を与えてしまったらしい。
 失敗した、と判断するべきかも知れない。
 しかし史浩は一言告げた後はもうそれ以上男について話す事はなく、土曜日も日曜日もだらだらと過ぎていった。
 他に誰も入ることは出来ない。他に求める先もない。
 そんな、いつもより甘ったるい時間だった気がする。
 その間に俺が今も立ち尽くしているかも知れない男を脳裏の隅に過ぎらせていたとしても、意味のないことだ。
 あの男がここに来ることはない。放置していても何ら問題はない。
 だって史浩は自分のものであり、史浩もそれを望んでいる。今のところ不満もなく、意外なほどに上手くいっている。
 しかし一人きり立ち尽くしているあの男の姿は、俺の胸の端っこに引っかかり続けた。



 二週間が経過していた。
 史浩があの男にナンパされて、あの男が史浩を待ち始めてから十四日間。
 それが長いか短いか。人を思う時間に換算した際にどちらに傾くのかは分からない。けれど俺の感覚としては長いと感じた。
 欠片も報われない思いを持って、誰かを待つには長いだろう。
 会社から出ると、どんよりとした雲から雨がぱらぱらと落ちていた。今朝は降っていなかったのだが、昼過ぎから天気が崩れ始めたらしい。
 窓の外から見ている時よりも、多少はましであるようだが。夕暮れ時を過ぎた時刻に雨というのはかなり世界が暗い。
 重苦しいとすら言えるだろう。
 まして真冬であるならば、寒さも加わって気分まで憂鬱にさせられる。
(……少し早く帰れるんだが)
 会社から出た場合、俺が行く先はスーパーかコンビニ。そして自宅の三つに限定される。しかしこの時ふと、傘を差しながら男のことを思い出した。
 みぞれになりそうなほど冷たく、重いこの雨の中。あの男はまだ立っているのだろうか。
 待っているだろうか。
 健気とすら言えるかも知れない一途さでまだあそこに居るのだろうか。
(……別にどうだっていいことだ)
 忘れてしまえばいいことだ。けれどいつまでもひっかかる。
 たまに飲むカプセルタイプのビタミン剤が喉で詰まった時のように、気持ちが悪くてすっきりしない。
 胸が詰まる思いすらあった。
(いなくなっていればいい……)
 こんな雨の中だ。立っているだけで濡れて、凍えるだろう。何の得にもならないことを未だに続けているとも思えない。
 だから見るだけ。もしいなくなっていたのならば、ようやく止めたのかと納得も出来るだろう。そうすれば二度と男のことなど思い出さない。
(だが待っていたら?)
 その時はどうするだろう。
 放置するに決まっている。男に声をかけて言ってやれることなどないのだ。
 しかしいつも乗っている電車とは正反対の方向に乗り込み、あの駅を出ると唇を噛む羽目になった。
「いるのか……」
 黒い傘を差して、駅から出てくる人を見ている。
 男は初めから視界に入らないのだろう。俺のことは見もしない。
 けれど横を過ぎていった派手な赤いコートの女の人は目で追っているようだった。みんな傘を差しているので顔が見づらいのだ。
 もしかして、という希望がまだあるのか、窺うようにじっと人の顔を確かめている。
 なんて無駄な作業。そしてなんて無駄な情熱。
 その労力と時間があればもっと他のことが出来るだろう。少なくとも俺なら飯を食って映画を見る、本を読む、もしくは仮眠を取るくらいのことはしそうだ。
 その方がずっと有益だ。
 けれど男は自分が出来るだろうどんなことより、名前も知らない女を待つことを選ぶのだ。
「馬鹿だ。有り得ないほどの馬鹿だ」
 そう呟きながらも、胸の奥から沸いてくるのは同情でも哀れみでもなかった。
 胸くそが悪い。
 はっきり言ってしまえばはそんな表現になる。
 気に入らないのだ。ここに、未だに、自分のものを欲しいとこんな風に意志表示をしている人間がいることが。まして男が史浩を欲しいと言うなんて。
 無謀であり、無駄であり。
 腹立たしいとすら思う。
「アンタ、いつまで待ってんだ」
 勢いだった。
 知らない男、まして放っておいてもどうせ自分に害にはならないだろう相手に声をかけるなんて正気の沙汰ではない。自分らしくないことだ。
 けれど動いてしまった。
 きっと史浩に会うまでならば、どんなことがあっても無視していた。けれどあの男の腕の中で何度も寝起きをして、それが自分のものだと実感して。
 占有権を自覚した今は、平常心がぐらついた。
「え?」
 突然声をかけられた男は驚いたようだった。見ると思っていたより幼いようだ。
 もしかすると年下かも知れない。
 顔色はあまり良くなく、目の下に隈があった。恋煩いで眠れないのだろうかと思い、あまりにもクソ甘ったるい発想に自己嫌悪になりそうだった。
「二週前ここでナンパした女を待ってるのか?」
 男は瞠目しては唇だけで「なんで」と言ったようだった。図星であることは訊くまでもなかった。
 そして分かりきっていたはずなのに、肯定を見せられると苛立ちが募る。
 はつはつと傘に雨が当たる音すら鬱陶しい雑音に感じられたほどだ。きっと今は何もかもが自分の邪魔をする錯覚を抱くだろう。
「本人から聞いた。変な男が次に行った時も自分に声をかけてきた。待っているみたいで気味が悪いと」
 気味が悪いと言われると、男の顔が盛大に歪んだ。そんな反応に呆れてしまう。
 知らない男が自分のことを駅で待ち伏せしているなんて、本物の女性ならば危機感を覚えて駅を変えるに決まっている。
 そんなことも想像出来ないのだろうか。
 恋愛経験が無いのか、と自分もろくに無いくせに勝手に思う。
「おまえ、彼女の何なんだよ。なんでそんなこと」
 もう薄々勘付いているだろうに。彼女のことをいちいちこの男に警告する相手が、一体どんな関係であるのか。分かっているからこそ、そんな敵意丸出しの目で睨み付けてくるのだろう。
 それでも確認せずにいられないのか。
「恋人」
 彼氏と言っても良かったのだが、立場的には彼氏なのかどうなのか微妙だととっさに思ってしまった。同性同士の場合、相手を彼氏と言ってもいいのか。抱かれている側の人間としてはどう表現するべきなのか一瞬躊躇う。
(こんなこと人に話したこともなかったからな……)
 会社では恋人がいるらしいとは薄々気付かれているようだが、あくまでも史浩のことを従兄弟と表現している。なので誰かに史浩のことを恋人だと告げたのはたぶんこれが初めてだ。
「おまえみたいなのが!?あの人と!?全然似合わないじゃないか!」
 馬鹿にしたように大声で言われるのだが、それに対しては腹も立たないし傷も付かなかった。
 似合っていると思ったことは一度だってないからだ。
(そんなの俺が一番思ってんだよ)
 史浩と付き合い始めてから飽きるほど思ったのだが、史浩が俺でいいというのだから仕方がないだろう。
「だからっておまえと付き合うわけじゃないだろ」
 俺が史浩と釣り合っていなかったとしても、この男と史浩が付き合うことはない。それ以前に性別を誤解したままなのだから、こいつが思っている相手とは永遠に結ばれることはないだろう。
「……別に、そんなつもりじゃ。ただ少し」
 正論を吐かれて少しばかり冷静になったのか、気まずそうに俯いてはもごもご呟いている。後ろ向きな姿勢に、少しなんだというのだろうかと思う。
 付き合うつもりがないのにずっとここで待つのだろうか。近づければ良いと言うのかも知れないが、その先にある感情は独占欲ではないのか。
(今はまだ小さくて自制が効いたとしても、いずれ自分のものだって言いたくなるんだろう)
「大体、なんだよおまえ。待つくらい、いいだろ……」
「いや、良くないから。気持ちが悪いって不安になってるし」
「会いたいだけなんだよ!見たいだけなのに何が!」
「声かけてきたくせによく言うよ」
   相手が声を荒げるほどに、感情剥き出しで動揺を見せる度に、自分が冷えていくのが分かった。自分より混乱している者を見ると返って冷静になるのだということが実感出来る。
「なんでおまえが言うんだよ!!」
「だって本人は会いたがらないから」
 あまり刺激するのは良くない。もしかすると攻撃的になって、鞄の中に刃物でも入っていれば刺される。そんな危険性を考えていなかったわけではない。
 けれど顔を真っ赤にしてはぎりぎりの緊張感を持って叫んでいる人を見ると、危うさよりも滑稽さや脱力感が込み上げてくるのだ。
 こんなに必死になって、命がけみたいな姿勢で恋をしなくてもいいだろうに。不器用で、待っていることしか出来ないような恋なんて、捨ててしまえばいいのに。
「何日も待ってるけど。もう止めろよ。それだけの時間があったらもっと他に出来ることがあるし。他にもいっぱい女はいるだろ」
 そもそもあれは女じゃないんだぞ、と言いたくなって更に力が抜ける。
 なんだろう。可哀想だとここにきて初めて思った。
「だって、一目惚れだったんだ!俺だって彼女を幸せにしたい!おまえよりずっとそう思ってる!」
 ああうん、そうかも知れない。あいつを幸せにしたいなんて、心の底から願ったことはあんまりない。
(だって俺たちの気持ちって、あんまり平等じゃない)
 あいつの方がきっと重い。最初からずっとそうだった。
 好きだということも、大事にする比率も、きっと史浩の方が重いのだ。
「でも、あいつは俺を幸せにしたいらしいから」
 こんなに不公平でも、俺からしてみれば理不尽だらけの現状でも。史浩は笑って側にいる。
 俺の姿が近くにあることに満足そうにしている。
 それが答えでいいと思っている。他の誰が何を言っていても、この男が史浩のことをどれほど思っていたとしても。
 きっと史浩にとっては俺の隣にいることが何より掴み取りたい明日なのだろう。
(うぬぼれているみたいだ)
 自分で言ったくせに、よくこんなことを口に出せるものだなと呆れてしまう。完全に惚気であるが、乏しい表情と淡々とした声で告げては惚気らしくも聞こえてないだろう。
「あいつは俺のだよ」
 その事実を突き付ける。
 反発するだろうかと思ったけれど、特別勝ち誇ることもなく純粋にただ口にしただけの俺の態度に、より現実味を感じたのだろうか。男は唖然としたような顔をしては、肩を落とした。
 黙り込んだその姿に、絶望のようなものが見えたけれど。単純にそれは失恋に置き換えられる類だろうと思う。自分はしたことがないので何とも言えないけれど。恋破れた人はそんな風に項垂れるのではないだろうか。
(これで終わるといいんだが)
 まだここで待つだろうか。それともちゃんと吹っ切れるだろうか。
 そこのところは分からないけれど、占有権の主張はした。自分でもなんとなくすっきりしたような気がする。
 もういいかと、男に背を向けると突然「ちくしょう!」という怒声を聞いた。
 振り返ると男は地面に傘を叩き付けては、それを思いっきり踏んでいる。何度も何度も、傘が変形して骨が奇妙な形に飛び出していてもお構いなしだ。
 八つ当たりなのだろう。
 それを俺に向けてこないだけ理性的である。
 というかこの男の存在を見逃すことが出来ず、ここまで来てわざわざ喧嘩をふっかけた。俺の方が大人げなくて八つ当たりに等しいのかも知れない。
 小さな後ろめたさを抱きながらそそくさとその場を後にしようとした。男が怒鳴ったせいで注目が集まってくるのを避けたというのもある。
 無関係な人間を装うとしていたのだが、それを止める声があった。
「いやあ、いい宣言だったね」
 微笑ましいというような声でそう言った人は、穏和そうな顔で俺を見ていた。黒のロングコートは長身によく似合い、優しそうな顔立ちは人の警戒を解くのに効果的だろう。
 けれどそれが誰か知っている俺の脳内では、警告音が鳴り響いていた。
「お……」
 その続きをどうするべきか一瞬迷った。だがそこから自分が口に出せる呼称など一つしかないのだと知る。
「オーナー……」
 史浩のバイト先のオーナーにして、史浩の父親がそこにいた。


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