タクシーで帰ろう。電車で帰ったら後を付けられるかも知れない。
 オーナーはそう言うと駅前のロータリーで数台止まっていたタクシーの一つに、俺を押し込めた。当然のように隣に乗っては、当たり障りのない日常会話を交わす。
 天気が悪い。最近調子はどうか。そういえば今日ニュースで言っていたんだけど。
 そんな誰とでも出来るような、実に中身のない有り触れたその会話に。俺は真綿で首を絞められているようだった。
 この世で最も会いたくない人間、トップテンに確実に入るだろう相手なのだ。この史浩の父親という人は。
(……同居する時も反対されたからな)
 今はオカマバーのオーナーという突飛な職業なのだが、その前はかなりやり手の大手企業にお勤めのサラリーマンだったらしい。当然それなりの経歴があり、中小企業に勤めているあまりやる気があるとも言えない弱小会社員など、歯牙にもかけたくない相手であろう。
 実際それに似たようなことを史浩と同居する前に言われている。
 大学生をたらし込むような真似をするなんて、人として恥ずかしくないのか。大人しての良識を疑う。
 というところから始まって散々きついことを言われた。その過去があるせいで、同居を認めて貰った後も出来るだけ接触したくない相手だったのだ。
 また何を言われるのか分かったものではない。
(早く家に帰りたい……)
 タクシーが止まる時を今か今かと待ち望んだのだが。目的地に着きました、とタクシーが綺麗に停車した場所は史浩のバイト先に近くだった。
「少し、付き合ってくれるかな?」
「え……」
 降りたくない。このままタクシーに乗ったまま、自宅に帰りたい。
 泣きたい気持ちで固まっていると、オーナーは「ほら」とあくまでも優しい声音で下車を促してくる。
 嫌だと言うわけがないだろう。そんなことが言えると思っているのか?
 そんな無言の圧力と共に気を失いたくなった。



「あの子を待っている男がいると聞いてね。まだいるだろうかと見に行ったんだよ」
 オーナーは店の仕度を店長に任せ、何故か店の奥、VIP席ではないだろうかと思うような小さな個室に俺を入れた。そして自らはきちんと女装をし、オカマになった上で俺の横に座った。
 史浩の女装は何度か見ているのだが、やはり親子なだけあって似ている。男前は女装をすると美人になるのだと再確認させられる。
 まだ二十歳そこそこの史浩と違い、とうに四十を超えているだろうオーナーはそれでも年上の色気があった。落ち着いた物腰にどことなく憂いを漂わせている目元。皺があるというのにそれすら魅力に変えるのだから、元の顔立ちも良いのだろうが、何より見せ方を知っているのだなと思う。
 そのやり方を本にでもして女性向けに発行すれば、かなり良い売り上げになるのではないだろうか。
 そんなことを考えながら、俺は溜息を飲み込んだ。
 何故恋人の父親の隣で、飲めない酒を呑まなければいけないのか。水商売の場合、接客する側は客の隣に座るのがお決まりなのかも知れないが俺は客ではないのだから向かいでも良いだろうに。
 金は払えないから勘弁して下さい。そう言ったのだが駄目だった。どんな理由があろうがここに入れて話をするつもりだったのだろう。
 財布の中身の金額では、オカマバー、しかもVIP席の金など払えない。そう主張すると金など払わせるわけがないというような顔でいらないと言われたのだ。
 それより逃がすものかという意志がそこにあった。
「あの子は昔からモテていたから、ナンパされることも告白されることも珍しくないが。女と間違われて、男に執着されるというのは珍しくてね。しかも行けば駅で待っているなんて、少し気になるだろう」
「そう、ですね……」
 酒は強くないのでと言って、ウイスキーは避けて貰った。大体一発目からウイスキーを入れようとすること自体どうなんだと思ったけれど、こういう店では珍しくないのだろうか。
「二週間経ってもまだいるのかと、驚いているところに君が来た」
「そこから見てたんですか……」
 てっきり後から来て、俺とあの男が話しているのを発見したのだろうと思っていた。
 最初から見ていたのならば割り込んでくれるなり何なりしてくれれば良かっただろうに。それならばもっと穏便に、惚気まがいの台詞を吐いて自己嫌悪になることもなかったはずだ。
「わざわざ君が出てくるとは思っていなかったからね。何を言うつもりかと思った」
 行動力は低く、能動的とは決して言われないだろう。そんな俺をこの人はすでに見透かしているのだ。
 史浩からも生活態度は軽く聞いていることだろうし、当然の判断だろう。
 だからこそ、見物と決め込んだのだ。
「自分でも馬鹿なことをしたと思っています」
 浅はかだったと言うに相応しい行動だった。だがさして後悔はしていない。
 この人に会う羽目になった、という点を除いてだが。
「私は面白いことが聞けて良かったけどな」
 オカマの姿ではあるのだが俺と話しているせいで父親という意識がどこかにあるのか、口調は男のものに近い。しかし自力でウイスキーを作って氷をからんと回した姿は妖艶だ。
 きっとそこいらの男ならばこの仕草にくらりと来るのだろう。
 一体こんな雰囲気造りと仕草をどこで手に入れてきたのか。
「俺のもの、か」
「止めて下さい…!」
 そんな恥ずかしい台詞を人の口から聞きたくなんて無い。自分でもよくほざいたものだと頭を抱えてどこかに埋まりたいくらいなのだ。
 しかもその時は本気で、平然と告げたのだ。どんな精神状態だったのか。
「いや、私は喜んでいるんだよ。君がそう言ってくれたことに」
 史浩をまるで自分の所有物のように言われて、この人は嫌ではないのだろうかと少し驚いた。息子のことを大事に思っていることはよく知っているのだ。
 しかし横顔は穏やかそうで、以前見た時よりずっと態度が柔和になっている。
「君たちを見ていると、史浩ばかりが君のことを好きで。君はそうでもないように見えた。史浩から積極的に迫られて、仕方なく流されてやったみたいな様子でしかなかった」
 それは事実です。
 史浩に押し流されて、丸め込まれて、いつの間にかなあなあでこんな関係になって。気が付いたら深みにはまって出られなくなっていただけです。
(しかしそんなことは言えない)
 この至近距離でこの人を怒らせて得することなど何一つないのだ。
「史浩はそれで良いようだったが、そんなものはいつか尽きる。片方だけが愛情を注ぎ続け、返されるものもなくいつまでいられるか」
 そうだ。俺だってそう思った。
 好きだと言ってくる史浩に、応えもないのにいつまでそんなことを言えるだろうかと思っていた。見返りがないのに、どこまで努力出来るのだろうかと。
 なのに、いつから俺はそれを返していたのだろうか。
「所詮人は即物的で貪欲な生き物だ。得られないのに与え続けるなんていつか苦痛になる。空しさを覚えて悔やむ。そう思っていた。だから君には歯がゆさを覚えていたよ」
 息子がこんなにも思っているのに、という目で見ていたのだろう。棘のついた視線を向けられた理由はそれだ。
 分かっていたので甘んじていた。親として当然の感情だと理解もしていた。
 同時に親というものはここまで子どもに対して心を砕き、相手を憎めるのだとも学んだものだ。
「けれどそうではなかった。なくなったというべきか」
 いつから、どうして?
 そんな無粋なことをオーナーは聞かなかった。ただ分かったからもういいのだと言わんばかりに満足そうだった。
 けれど俺はその顔に、納得していいのだろうかと思う。
 だって俺たちは、俺達の気持ちは、全然同じ形でも重さでもない。
「でも俺は、あいつが俺を思ってくれているほど。あいつのことを好きかどうかは分かりません。大事に出来てるか、どうかだって」
 分からないのだ。
 オーナーを安心させるだけのものなんて俺は持っていない。あるのはいつだって、いいのだろうかという曖昧な疑問ばかりだ。
 呑めもしないカクテルをあおって、喉が焼けるような感覚に苛まれる。
 アルコールというのは苦い。その苦さが今日はより酷いような気がした。
 恋人の親にこんなことを吐露しなけばいけない情けなさに、吐き気がする。
「いいよ」
「……いいん、ですか?」
 オーナーはあっさりと認めてくれる。
 駄目だと、話にならないと蔑まれる覚悟もあったのだが。それを上回るほどの呆気なさに耳を疑ってしまう。
 しかし俺が聞き返しても、オーナーは「構わないよ」と肯定を重ねただけだった。
「あの子が君に向ける感情と、君が向ける感情が釣り合っていないということは分かる。だがそれはもう仕方がないことだ」
「仕方なくないと」
 釣り合わない、片方だけが特をしてるような状態を認めるのは良いことなのか。
 バランスを取るべきではないのだろうか。第一オーナー自身が先ほどそれが不満であったというようなこと言ったばかりのはずだ。
「人には、差し出せる愛情に違いがあると思うよ。元々自分がどれだけの愛情を持っていたか、持てる器があるか、という部分に関して個人差がある」
   ああ……と俺の口から無意識の内に納得の声が零れていた。
「君はたぶん、その器が大きくない」
 その指摘を否定することは出来なかった。自覚が、あったのだ。
 俺は愛情なんてものには鈍感で、自分にそんなものがあるなんて史浩と分かり合うまで思えなかったし。そんなものは持たない方が楽に生きていけると思っていた。
 愛情なんて執着であり、争いの元になる。縛られれば身動きが取れなくなって息苦しくなる。そんなイメージばかり持っていた。
 そんな人間が抱えられる愛情の器が、大きいわけがない。
「だからあの子と君とでは差がある。けれどあの子はそこもちゃんと分かっているよ」
「でも」
「大丈夫。君が持てない分はあの子が持つだろう」
 子どもの頃から、溢れるほど愛情を注いで育てたのだろう。父親はとても自慢げにそう言った。
 自分の子どもを信じている。
 その姿は輝かしくも、羨ましくもある。自分には到底辿り着けないものだ。
「それでいいんですか…?」
 そんな状態で父親は納得するのか。不快だとは感じないのか。
 窺うようにオーナーを見ると口元にあった笑みが深くなった。
 良いとも、悪いとも言わなかった。ただ微笑んだ後に「君お酒弱いのがなぁ〜」と旧知の仲であったかのように話しかけてくる。
 俺にはそれが、許しのように見えた。



「なんでようちゃんが店にいんだよ!しかも真っ赤じゃん!」
 父親であり、バイト先のオーナーでもある人からメールでようちゃんがここにいることを知らされ、慌てて走ってきた。本来ならば金曜日と土曜日の夜にしか来ないようなところだが、ようちゃんがいるならばどこにだって駆けつける。
 バイト仲間にはVIP席にいると教えられ、入ってみると顔を真っ赤にしたようちゃんが「遅い」とぼやく。眼鏡の奥では瞳がとろんと溶けており、完全に出来上がっているのが分かった。
「酒に弱いんだから呑ませるなよ!知ってんだろ!」
 俺がようちゃんの話をした際に、何度かアルコールに弱い話はしている。記憶力の良い父がそれを忘れているはずがない。
 忘れていたとしても、顔が赤くなった頃で止めてくれればいいのに。きっとその後も勧めたのだろう。たちの悪いことだ。
「自分で呑んだんだよ。何、一杯だけだから大丈夫だろ」
 その大丈夫は吐かないレベルだろう、という雑な解釈だ。思考力はもう限りなくゼロに近いに違いない。
「もう!ようちゃんもなんでオーナーと一緒なんだよ!どこで誘拐されたんだ!」
「失礼な」
「だってようちゃんが自分から付いてくわけないだろ!」
 かなり衝突した経験があり、精神的にきついことをぶつけられて苦手意識が根付いているはずだ。それに俺の父親ということで必要のない後ろめたさみたいなのもあるようだ。
 俺は好きで親と衝突してようちゃんと一緒にいる。ようちゃんはむしろ巻き込まれた被害者みたいなものなのに、律儀に申し訳なさみたいなのを持ってしまっている。
 だから父親とは顔を合わせたくもないはずなのに、こんな目に遭ってしまって可哀想だ。
「駅でたまたま拾ったんだよ」
 その駅がどこなのか、俺は言われずとも察しが付いた。先週土曜日の夜。きっとようちゃんはあの男に会った。そこで何か思ったみたいだった。
 けれど自分から会いに行くなんて予想外だ。そんな相手を見たいとも思わず無視して忘れてしまうのだろうとばかり思っていたのだが。
(この人も変わってきたってことかな)
 それがどんな方向なのかはまだ分からない。出来るならば良い方向、安全な方向に行って欲しいけれど。今回の件を振り返るに、危険な場所に自ら足を向ける傾向がある。
 それは直して貰いたいところだ。
 しかしそんなことを説教しようしても、ようちゃんはテーブルに突っ伏してしまう。きっと眠ってしまう直前だろう。
「もー、こんなところで寝るなよ」
 自宅まで連れて帰るのが大変ではないか。ようちゃんは俺より小柄で体重も軽いけれど、それでも成人男子だ。肩に担いで移動するのは困難である。
 だからといってここで一晩泊まらせるつもりはない。同僚に何を言われ、どんなちょっかいを出されることか。
「史浩。愛することは楽しいか?」
 ようちゃんの頭を撫でて、どうやって宥めて帰ろうかと思っていると父親は突然そんなことを訊いて来た。
 笑ったその顔はすでに嬉しそうだ。
 どうやら今回ようちゃんと何かしらの話をして、この父はようちゃんに対しての印象を良くしたのだろう。
「ハマったら止められないよな」
 愛することが楽しいかどうかなんて愚問ではないか。
 楽しくなければ、幸せでなければとっくに飽きて止めている。
 そんな気分には到底なれず、今だって眼鏡ごと俯せになっているから鼻の根本が痛いはずの人を抱き締めたくなるのだ。
 どこから溢れてくるのか分からないほどの愛情が、この瞬間だって生まれてくる。
 胸を張るようにそう言うと、父は喉を鳴らしては「そりゃ良かった」と低い声で歌うように口にした。




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