金曜日の仕事帰りに史浩が欲しいと言っていた鞄を、俺が直接店に赴いて購入することになった。
 あれから鞄を探して二人でうろうろ店を回ったのだが、どうも史浩はしっくり来ないようだったのだ。妥協しなきゃかな、と零していたので。そんなに気に入った鞄ならば買いに行ってやろうとも思った。
 もっと言うならば鞄を探し求めて何時間もふらつくのに飽きたのだ。
 結果が見えてこない行動というのは、どうも気が滅入る。
 なので俺が一人で鞄屋に来ては、史浩から教えられていた鞄を探して購入した。
 すでに別の誰かが買っていて、在庫が無くなっていた時は諦めろと言っていたのだが。幸いにも落胆せずに済んだ。
(これで大人しくなるだろう)
 使いづらい鞄なんだよなぁ〜、つか大学に持って行くには小さいし。と愚痴る声もこれで止まるだろう。
 それに史浩が言っていた、駅前でナンパしてきた男の姿もなくなっていた。
 時刻は史浩がナンパされた頃と同じ時刻であり。今日は珍しく早めに帰ることが出来たので、夕暮れもまだ残っている。茜色に染まった空の下で、大きなビニール袋を片手に今日の晩飯はどうしようかと思っていた。
(史浩がいないからな。買って帰ってもいいが)
 金曜日の夜はバイトで深夜まで帰って来ない。晩飯は一人で食うことになるので、金曜日の夜はいい加減な食事になりがちだった。
 荷物が大きいのでスーパーに入るのも面倒。家にあるカップラーメンでもいいかと思いながら駅に向かって歩いていた。
 すると電車から降りて来たと思われる人たちが向こう側から歩いてくる。
 会社帰りのサラリーマンや制服を着ている学生。まだまだ寒さの厳しい冬なので大抵の人間がコートを着ている。
 特に男の場合は暗い色のコートが目立つのだが。その中でも、ひときは違和感のある男がいた。
 真っ黒だ。
 ダウンコートも黒。ズボンも黒。肩から掛けている鞄も黒。スニーカーも黒である。
 他の色など一切許さないと言わんばかりの服装だ。
 当然髪の毛など染めているわけがない。
(……まさか)
 史浩をナンパしてきたのは黒ずくめの恰好をした男だと言っていた。背丈は史浩より少し低いくらい、ということは俺と大差ない身長だろう。
 年頃もそう離れていないと聞いており、特徴は合致している。
 けれど史浩と最後に会ってから一週間が過ぎているのだ。それでもまだ史浩をここで待っているなんて執着があるだろうか。
(……偶然だろ)
 他の色ならばともかく、黒なんて男ではよく着ている服の色だ。それ一色というのはどうかと思うけれど、有り得ない現象ではないだろう。
(これが赤とか黄色だけっていうならともかく)
 黒だしな、と思いながらも歩調を緩めてその男が近付いて来るのを待った。決して自分から接触することはない。けれど何かしらの動きがあるのではないかと、予感したのだ。
 何事もなく通り過ぎ、すれ違っただけならば「やっぱりあの男は諦めたんだ」と史浩にも報告出来るだろう。
 ナンパしてきた男がいつまでも自分を待っているなんて、気味が悪い。
 いなくなっていた、と知らされればこの駅にも来ることが出来るし。何より気が楽になるはずだ。
 だがそう思っていた俺の視界の中で、男は立ち止まった。
 そしてくるりと周りを見渡した後に後ろを振り返ったのだ。
 駅から出てくる人全体を見渡すように、広場のようになっているスペースの中心に立っている。
 ぞっとした。
 この男だ。間違いないと直感してしまった。
(……待ってるのか)
 いつ来るかも分からない史浩を、この時間になったらここで待つことにしているのか。
(毎日?ここで?仕事帰りか?いや、もしかすると学生かも知れないが。それにしても)
 他にやるべきことはないのか。
 こんなところで、何の繋がりもない、名前も住所も職業だって知らない相手を待ち続けている。
 それほど会いたいのか。好きなのか。
 執着してしまうほどの魅力をどこに感じたというのだ。
(史浩は女でもなければ、おまえが想像しているだろう人間とは大きく懸け離れているぞ)
 女装している時に出会っているのならば間違いなく女だと思い込んでいるはずだ。そこから妄想出来る領域に、現実の史浩は一切含まれていないだろう。
 幻を追いかけている。
(悲惨だ……)
 妄想しかない相手を何日も待ち続けている。そしてその相手がここに絶対来ないことを俺は知っていた。
 寒空の中を立ち尽くし、来ない相手を待ち続ける。今日はこの冬一番の冷え込みになると天気予報は言っていた。
(……恐ろしいな)
 自分ならば決してやることはないだろう行動を見ながら、男の横を擦り抜けた。
 焦がれる人の恋人は俺であり、あいつは今夜も俺の部屋に帰ってくる。
 バイトで疲れているはずなので、俺の名前を呼びながら懐いてくることだろう。
 男の顔などもう忘れてしまっているかも知れない。
 残酷な現実を噛み締めながら、史浩の新しい鞄を持って俺は駅に入った。



 バタンと部屋のドアが開かれる音で目が覚めた。
 枕元にある目覚まし時計を見ると丑三つ時を示していた。
 薄暗い部屋の中で、史浩が動く音に耳を澄ませる。部屋に入って、そこに無造作に置かれているビニール袋を開けて、中身を確かめる。鞄を手にとって状態を確認し、きっと笑っていることだろう。
 けれどその嬉しさを抱えたままここに来ることはない。
 女装を解き、化粧も店で落としてきているはずだが。風呂に入らずにベッドで寝るなと言い聞かせているので、大人しく風呂場に行ったようだった。
 がたがたと風呂場から音が聞こえてきたかと思うと、水音が始まる。
 だが相当焦れったかったようだ。いつもより随分早い時間で風呂から上がり、そのまま俺の部屋のドアを開けた。
 眠っていると思っていたのだろう。そっと音を立てないように慎重にドアは動かされ、軋み一つもあげられない。足音もかなり密かなものだった。
 史浩が近寄って来た物音で目を明けると、驚くほど近くに顔があった。
 どうやらキスしようとしていたらしい。
「あ、起こしちゃった?」
「ああ……」
「ごめんね」
 弓なりに細められた双眸のまま、キスが一つ落とされた。柔らかな感触と共に風呂上がりのぬくもりが感じられる。
 髪の毛を乾かすことすら惜しんだようで、肩まで伸びているそれがするりと頬に落ちてきた。
 唇と違い冷たい髪に眉を寄せると、史浩が鬱陶しそうに掻き上げる。そんな仕草がこの上もなく様になるのだから、この男は本当に顔面に恵まれている。
「鞄ありがと〜。やっぱり一目惚れしただけあって、俺の好みどストライクだ」
「そりゃ良かった」
 わざわざ仕事帰りに遠回りして買いに行ったのだ。やっぱり気に入らないと言われたら殴ってやるところだった。
 中途半端に覚醒した頭であくびをすると、史浩がベッドの中に潜り込んでくる。
「髪、乾かせよ」
「えーもう怠いしいいよ」
「寝癖つくぞ」
 バイトがあった日はよくこうして髪も乾かさずにベッドに入ってくる。枕にはあらかじめ厚めのタオルを敷いているので、問題ないと言えばそうなのだが。寝たまま自然乾燥をさせると史浩の髪は翌朝奇妙な寝癖が付いていることがあるのだ。
 元々少し癖のある髪をしているらしい。
 目覚めて鏡の前でうんざりしているのを何度も見ているのだが、今日も懲りずにこのままにするらしい。
「仕事行く時コテで巻くし。なんなら髪の毛結べばいいし」
 オカマの時は髪をセットするので寝癖も何も関係無い。それまでは結べば良い。という乱暴な考え方をするらしい。
 仕事で疲れ果てると風呂入るだけで精一杯になる気持ちはよく分かるので、俺もそれ以上は続けなかった。
 ただ顔を寄せて来ては俺の頬に口付けてくる、上機嫌な男を見ていると込み上げてくるものがあった。
(……これは、俺のものなんだな)
 あの男がどれだけ欲しがっても、焦がれても。史浩はあの男の元には行かない。俺が良いと言って、こうして寄り添っては抱き付いてくる。
 どれだけ他に求めて来る人間がいたとしても。史浩が選ぶのはたぶん俺なのだ。
 その事実に、どうしてか身体が熱を帯びたようだった。
「仕事帰りに買ってきてくれたんだろ?ありがと」
「おまえの鞄を求める旅に同行することを思えば、楽なものだ」
「二人でふらふら買い物するの楽しかったじゃん。今度はさ、服見に行こうよ。ようちゃんの服買いたいな」
「おまえと行くと長いんだよ」
 ベッドの中。向かい合わせになって吐息が触れるような距離で喋る。くすぐり合っているような、甘くまろい空気に沈んでいくようだ。
 とても良い関係なのだろう。同性だけれど、こんなに心寄せられて、思われて、好きだと全身で示されている。
(そう、俺はこいつに大事にされてんだろうな)
 いつの間にかそれは当たり前のようになっていたけれど。見た目も中身も人を惹き付けるものが充分にあるこの男を独占出来るのだ。
 特別なこと、なのだろう。
「あ、ところでさ。あの駅に」
 きっと史浩はナンパしてきた男がまだ居たのかを訊きたかったはずだ。けれど俺はそんな問いかけは聞きたくなかったし、こいつに答えを言いたくなった。
 だから目の前で喋るその口の端に親指を引っかけた。
「ふごっ、う?」
 いきなり何すんの?という顔をした史浩が少し間抜けで、小さく笑ってしまう。
 指を離し、代わりに今度は口を開けて噛み付くようなキスをした。舌を差し出しては史浩の口内に差し入れる。ぬるりとした感触に、欲情が目を開くようだった。
 元々近かった距離を縮め、足を史浩に絡まらせる。下肢を寄せると史浩の手が腰に回ってきた。
「ようちゃんからこんなに積極的になってくれるなんて、珍しいね」
 キスを止めた途端に聞こえて来た声は明らかに飢えたそれで、史浩の手が服の中に入ってきては背中を撫で上げてくる。
 微かな刺激であるはずなのに、心臓は忙しなくなった。
「たまにはな」
 セックスは史浩から仕掛けられてばかりだ。俺が求めるなんて一ヶ月に一度もないだろう。
 だが今はそんな気分だったのだ。
 もしかすると誤魔化しだったのかも知れないけれど。史浩は喉を鳴らして、そんなことすら考えられなくなるほど、俺を乱してくれた。


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