滅多に行かないその駅に再び降り立ったのは、鞄が欲しくなったからだ。
 バイト先の先輩の家に行く途中に見た店に、通学に丁度良い鞄が見えた。
 ちょっと高いな〜どうしようかなと思っていたんだが、先日鞄の中で盛大に苺牛乳を零したので、新調することが決定したのだ。
(お茶とかならともかく、牛乳は無理だよな)
 拭いても拭いても牛乳が残っていそうで、正直棄てる以外の選択肢がなかった。
 なのでわざわざここに降り立ったのだが。
「あの……もしかしてこの前会いませんでした?」
 駅に降り立って、さて鞄屋に行きますかと思っていると突然声をかけられた。
 黒ばっかりの服を着ている、俺より少しばかり背の低い男。
 下から見上げてくるその目には媚びるような色があって、正直不快感が先に立った。
 なんで男に声をかけられたのか、とっさには分からず思わず「アンタ誰」と言いかけて、記憶の端からひっかかるものが出てきた。
(……ナンパ男!?)
 唖然とした。
 何故なら今日の俺の恰好は女装じゃないからだ。大学の帰りなので私服である。
 デニムにダッフルコート。足下は大人しい印象のショートブーツ。確かにこんな恰好をした女の子はいっぱいいる。まして髪の毛は伸ばしているので、後ろに一つにくくっている。
 服装と特徴だけ述べれば女だと言われても仕方がないかも知れない。
 けれど身長は男より高いし、化粧もしていない。そもそも雰囲気からして男だろう。
 女装してないのに女に間違えられたことなんて、今まで一度だって無かった。
 なのにどうしてこの男は俺が、この前の女だと気が付いたのか。
(すっげぇ見てたってこと!?服装変わって化粧してなくても分かるくらいに記憶したってことか!?)
 ぞっとした。
 女装している時の自分と、していない時の自分はかなりの差があるからだ。それを同一だと見抜ける観察眼は気持ちが良いものではない。
 硬直していると、男は正解だと確信したらしい。非常に嬉しそうな顔で「また会えましたね」と口にしている。
「いや……」
「この前と全然違う感じだから戸惑ったんですけど、やっぱり同じ人ですね。ボーイッシュなのも似合います。貴方に会いたくて、最近ここでよく待ってるんです」
 来るかどうかも分からない相手をずっとここで、流れる人波の中を注意深く見ているというのか。
 なんという執念。
 俺には分からないものだ。
(じっとしてるくらいなら、俺は相手の後ろを付いて回って自宅を突き止める)
 しかしこの男にそんなことをされたならば、非常に迷惑である。ならばここでじっとして貰える方が有り難いのだが、そっちの方が執念深そうで恐ろしい。
「この後お時間ありますか?」
「ありません」
 あるわけがない。この男のために裂く時間がどこにあるというのか。むしろ永遠にない。
 好みでない、まして男に何かしてやる義理はないのだ。
 きびすを返して、来た道を戻る。
「あの、迷惑なんで」
 出来るだけ高い声で返事をした。男はバレるのと厄介なことになりそうだと思ったからだ。けれど服装が服装なので気持ちが入らず、我ながら下手なオカマ声になってしまってうんざりする。
 それでも男は俺のことを男だとは思わないらしい。
「いつなら、お時間ありますか?少し、少しでいいんです!貴方のことが知りたいだけなんです!」
 知ってどうする!知るだけで満足するのか!
 人を好きになったら相手のことが知りたくなる、そして触れたくなる、欲しくなるだろう。そこまで進まれるわけにはいかないのだ。
 人間はどこまでも貪欲になる。ならば初めの第一歩で叩きのめしておくほうが安全だ。
 完全に無視して駅に戻る。男は改札までは付いてきたけれど、そこで立ち止まった。
 電車まで着いてこられたらどうしようかと思ったのだが、その心配はないらしい。
 けれど背後から突き刺さるような視線を感じては、寒気がした。
 真冬の寒さのせいなどではない。背筋は微かに汗ばんでいるくらいだ。
(やっべえ。もう行かない。無理無理!)
 どうかストーカーにだけはなりませんように、と心の中で必死に祈る。
 今まで体験してきたナンパの中で最もインパクトがあった。
 世の中の美人はあの手の輩に絡まれているのだろうか。非常に気の毒なことだ。
(美人は得だって言うけど、苦労もあるんだな)
 そして俺は美人ではないはずなのだが、どうしてこんな思いをしなければいけないのか。
 速やかに帰りの電車に乗り込みながら、深く息を吐いた。
(……ようちゃんはこんな思いはしてなかった、と思いたいな)
 付き合って貰うまではかなり強引な手を使って、仕事帰りに待ち伏せしたこともあったけれど。こんな心境ではなかったことを祈るばかりだ。



「ただいま」
「おかえり〜」
 平日に仕事から帰って来た場合、大抵史浩が出迎えてくれる。黒いエプロンを纏っており、どうやら料理をしている途中であったらしい。
 煮物かと思われる匂いが漂っている。空腹には染み渡るその香りに俺の心が癒される。
 やはり人間は美味い物を食って、疲れを癒すべきだろう。
 寒空で凍えていた身体は、暖房の風に迎えられてほっと息を吐いているようだ。鞄を置いてコートを脱いでいると何故か史浩までエプロンを脱いだ。
「この服ってさ、女っぽい?」
 両手を広げて服を強調される。
 グレーのVネックセーターとジーパン。茶色の髪の毛はいつも通り一つにくくられている。化粧もしていないし、どこからどう見ても普通の史浩だった。
「いや、普通」
「だよな。俺もそう思う」
 何の感想を求められているのかと思ったのだが、俺の答えで満足したらしい。けれどそれにしては表情が晴れない。
「どうした」
「いや、前に男にナンパされたって言ったじゃん。今日その駅に行ったんだよ」
「なんで行くんだよ。行くことないって言ってただろ」
 もう二度と行かないレベルの駅だと思っていたので、あのナンパはもう終わったことだと俺は思っていた。二度と会わなければどんな被害も受けないだろう。
 なのに自ら足を運ぶなんてどうかしている。
「鞄が欲しかったんだよ。ほら、苺牛乳零したって言っただろ?」
「だから苺牛乳なんて鞄に入れるなよ……」
 パックの苺牛乳を鞄の中に入れた、と言われた時点でこいつのことはアホだと思ったものだが。盛大に零したのだと落ち込む様を見て更に呆れた。
 火を見るより明らかな結果だろう。
 初めて聞いた時と同じことをつい言ってしまう。
「もう後の祭りだよ!だからその鞄の代わりを探しに行ったんだよ。前に見ていいなって鞄があそこにあったから」
「それで、また会ったのか」
 否定を期待したのだが、返されたのは頷きである。
 しかも暗いその顔を見れば、最悪の状況になったのは察せられる。
「この恰好してるのに、前にあった人ですよねって言われて。ボーイッシュなのも似合う、だって」
「ボーイッシュではなくただのボーイだって言ってやれよ」
「逆上されたら怖いじゃん」
「まあ……な」
 一目惚れした相手が女ではなく男だったと知って、落胆して諦めてくれるならば良いのだが。逆上する輩もいるだろう。その手の相手だった場合は厄介だから、触らずに逃げようと二人の意見は一致したのだが。
 二度目のナンパとなると、どうしても根本から断ち切ってやりたくなる。
「俺、普段は自分のこと女っぽいって思ったことないんだけど」
「その認識は間違ってない」
 今の史浩を見て格好いいと言う人はいても、美人だと表現する者はたぶんいない。いたとしても男だと分かった上での発言だろう。
「この恰好でも前に会った女だと分かるって、相当じゃね?」
 かなり、思い詰めているのではないのか。
 脳内で様々な服装をした史浩を想像していたのだろう。でなければ対応出来るわけがない。
 女性は化粧で大きく印象が変わる、というところまで織り込み済みである。玄人か。
(執着心の激しさを感じさせるぞ)
 ストーカーになりそうなタイプの男なのではないだろうか。
「おまえ、もう二度とその駅に行くな」
 君子危うきに近寄らず。危険だと分かっているのならば回避するべきだ。
 いつどこから来るか分からない相手をずっと待っているわけがない。ましてふらりと立ち寄った際に出会えるわけがない。史浩がそんな風に考えたことはよく分かるけれど、それでも会ってしまったのだ。
 近寄らない、という絶対的な回避が必要になるだろう。
「俺もそうしたいんだけど、鞄がさ」
「他のにしろ。何なら俺が金出して買ってやってもいい」
「マジで!?ようちゃんが選んでくれるの!?」
 史浩の服装や持ち物に口出ししない俺がそう言ったことに、かなりテンションが上がったらしい。大体こいつの方がセンスあるのだから、俺のように見た目に関心がない奴の意見なんて無駄だろうに。
 一緒に買い物が出来る、という時点で楽しいのだろうか。
「やったー!ついでに服も買いに行こうよ!」
「一日がかりの仕事になりそうだな」
 鞄だけでなく服も見る、と言い出したら買い物だけで一日かかるような気がする。ついでにこの男はオカマの時の服装まで考え始めるはずなのだ。
 女性陣の買い物に対する情熱が凄まじいように、史浩もなかなかのこだわりを見せる。正直俺にはよく分からない。
 しかし言い出してしまったのだから、付き合わなければいけないのだろう。
「とにかくもう二度とその駅には行くな。ストーカーにでもなられたらめんどくさい」
 女じゃなかった、でも彼氏がいた、なんて突き止められて暴れられたらたまったものではないか。
 元々世間に対して若干後ろめたい関係なのだ。ひっそりと何の揉め事もなく、まして事件になりそうなことは一切無く平和に暮らしていきたいのだ。
 平々凡々に生きたい。
「ストーカーとかさ、やっぱり怖いよね」
「そりゃそうだろ。自分の生活圏に容赦無く土足で入り込んで来るんだぞ。気味悪い」
 そう吐き捨てると何故か史浩が大人しくなる。そしてこちらを窺ってくるような眼差しを向けてきた。
「俺の時もさ、やっぱり嫌だった?仕事の帰り道とか押しかけたし」
 そういえばこの男は俺と付き合う前に、待ち伏せだの部屋に押しかけるだのという暴挙に出ていた。
 俺なんて女装もしていない、代わり映えのしないスーツだから見付けるのは簡単だっただろう。私生活のあちこちに出てきては交際を迫ってきて、かなり俺の精神を圧迫してくれたものだ。
「……優秀な顔面に生んでくれたご両親に感謝しろよ」
 顔が良くなかったらとっくに警察のお世話になっていた、もしくは暴力沙汰になっていたことだろう。だが俺は結局この男の顔と勢いに流されたのだ。
(結論からすると、俺も結構酷いな)
 こいつのやったことも割と酷いが、それに流された自分もなかなかに酷いのではないだろうか。だが同等レベルの人間がくっついたのだから、これはこれで丸く収まっているのではないだろうか。
 そして史浩は「顔かよ!」と文句を言いながらもまんざらではないようだった。


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