どうして史浩に対しては自分が思っていることを素直に言えるのだろうか。
 素朴な疑問にぶつかり、仕事の帰り道にぼんやりと史浩とのことを思い出した。
(そうだ。最初からだった)
 松原さんの言う通り、人と衝突するのが面倒で黙っていた方がまだ楽だと思っている俺が。他人と距離を置くことを選びがちの俺がどうして史浩を近くに置いているかと言えば、あれが突進してきたからだ。
 オカマの姿で出会い、何故か懐かれ、そして告白をされ、押し流され、家に押しかけてきた。無茶苦茶だった。
 それまで俺の近くにはそんな無茶苦茶で、突き放しても突き放しても喰らい付いてくるような人はいなかった。当然だろう、そんな人間とはお近づきにならないように気を付けていたのだから。
 けれど史浩のことは振り切れず、強引に同居に持ち込まれた時は不満がいっぱいあった。
(マイナス値からの始まりだった)
 出て行けと毎日のように言っていた。少しでも不満があればすぐに口に出して、どうにかこの同居を止める方向に持って行こうとしていた。
 だから他の人には到底言わないような冷たいことだって言った。どんだけ我が儘なんだ自分、と思うようなことも投げつけた。
 罵詈雑言と思えるようなことも言っただろう。
 だが史浩は出ていなかった。
 そして黙ってもいなかった。
 ここで黙って耐えているような相手だったのならば俺の罪悪感が悲鳴を上げて、俺の方が家を出て行ったかも知れない。けれど史浩は俺に言われて腹が立ったことはちゃんと言い返した。自分の考えを俺に突き付けてきた。
 そこに正しさがある場合はなかなか無下にも出来ず、苦しいやりとりをしたものだ。
 そして俺の方がいつしか根負けしていた。
 史浩の方はしてやったりと思ったことだろう。それがいつの時期であったかは分からない。だが俺は出て行けと言う代わりに、食事のことだの、日用品のことだのを話し始めていた。
 そして仕事から帰ると史浩が出迎えてくれることを、日常として受け入れたのだ。
(だがどうしてあいつは、俺の罵りに耐えたんだ)
 俺のことが好きだなんて言うけれど、あんな酷いことばかり言われていれば恋だって冷めるものじゃないのか。
 その証拠として、当時の俺は帰宅すれば静まり返った部屋が出迎えてくれるだろうと思っていた。
 けれど、今日も今日で玄関の鍵を開ければ人の足音が聞こえた。
「おかえり〜」
 ラフな格好をした史浩が俺の帰宅に笑顔を見せた。煮物の匂いがして、晩飯の仕度が終わっていることも分かる。
 出来た同居人だ。家事も一通りやってくれる。優しさもまめさもある。
 なのにどうして、あの時の俺と一緒にいてくれたのだろう。
 もし俺が史浩の立場なら、間違いなくとっとと出て行った。
「なんでおまえはまだうちにいるんだ?」
 笑顔の史浩に、つい思っていたことをそのまま言ってしまった。
 ただいまという挨拶よりも先に出てきたそれに史浩が凍り付いた。
 同居したばかりの頃はよく言っていたが、それからどれだけの時間が過ぎていったことか。まして喧嘩をした翌日でもない。むしろその逆と言えたであろう朝を迎えたくせに、仕事から帰って来たら開口一番これだ。
 誰だって唖然とするだろう。
 しかし史浩は驚いただけではなかったらしい。
 さぁと表情が消えていき、目が座った。
(あ、まずい)
 自分の失敗を目の前にして、俺は数秒遅れて焦った。
「いや、おまえに出て行って欲しいわけじゃないんだ。むしろ出て行かれると困る、その物理的な意味だけじゃなくてな」
 玄関を閉めるのも忘れて、俺は矢継ぎ早にそう喋った。さっさと自分の気持ちを伝えておかなければ、史浩が先走ってぶちキレかねない。
 俺の台詞はあまりにも理不尽である、それは自覚出来ていたし、申し訳なさもあった。だから黙り込んで俺を睨み付ける史浩に、次第に血の気が引いていった。
「ただおまえが今も出迎えてくれるのが当然みたいになっているが、昔を考えて見ると、な……その」
 どこから始めれば良いのだろうと迷っていると、どうやら史浩は俺が嫌味を言ったわけでも、史浩を追い出そうとしているわけでもないと理解したらしい。
 首を傾げては苦笑した。
「いきなりどーしたの?」
 出来の悪い子どもを見ている親のような視線に晒され、俺は深く息を吐いた。
「…ちょっと長い話になりそうだから。着替えてくる」
 一端落ち着こうと思い玄関を閉めて俺はネクタイを緩めた。リズムが崩れると立て直す時間が必要だ。
「その話って、飯食いながら出来る?」
 先ほど俺が言った衝撃的な一言に危機感を覚えるらしく、史浩は警戒しているみたいだった。
「大丈夫だろ。基本的には他人事だ」
「なら御飯の仕度しよーっと」
 そう、所詮は他人事だ。自分を振り返ってはみたものの、俺たちの何が変わるわけでもなく変えるつもりもなかった。
 コートとスーツの上着を脱いでネクタイを外す、鞄を置いてリビングに戻るとテーブルの上には筑前煮があった。
 史浩のチャラい見た目からこの料理が出てきた最初の時、俺はとてもびっくりした。しかも美味いのだ。どうやら史浩の母親の得意料理らしい。
 手洗いうがいを済まして食事に取りかかり、食べている間に俺は松原さんのことを一通り話した。
「おまえがここに来たばかりの頃、俺はおまえに結構酷いこと言ってただろ。絶対傷付いたくせに、よくここに残ったなと思ってな。俺ならとっくに同居解消してる」
「だってようちゃんと一緒にいたかったんだもん」
 史浩はオカマ声でしなを作り、そんなことを言った。俺は食後のコーヒーがたっぷり入ったマグカップを片手に「オカマは止めろ」とお決まりの注意をする。
「それにようちゃんって一人でなんでも抱え込みそうなタイプに見えたから。こうしてぽんぽん言ってくれるのは、見方を変えれば良いことなんじゃないかって思って。付け入る隙がある証拠かなって思ってた」
「付け入る隙……」
 肉食の考え方だ。いや、こいつは間違いなく肉食に分類される生き物なのだが、それにしても殺伐としているとも言えたあの期間に、そんなことを思っていたなんて想像もしてなかった。
「それと初めの頃にお互いの嫌な部分とか見ておいた方が、後々知るよりダメージ少ないかなと思って」
 猫をかぶる気など更々無かったので、当時の俺はまさに素だった。ある意味今の方が優しいだろう。それを思うと史浩のやり方はアリなのかも知れない。
「遠慮無くがんがん言ってたからな」
「そうそう。だから初めの方にがっつり掴んで置こうと思った。嫌な部分だってちゃんと受け入れられるぞって分かって欲しかったし。逃げられないようにしたくてね」
 史浩は微笑んでいるのだが。その計画は現状が比較的穏やかに纏まっているから笑い話であって、その時は腹黒さ満点だっただろう。
「それは成功したのか?」
「大成功じゃない」
 自慢げに言われ、俺は苦笑した。だが同居を認めたどころか、先ほど史浩がいなくなったら困るというようなことを口走ったのだ。もう成功以外の文字はないだろう。
「……男と付き合っているってことは、俺はゲイなのか?」
 史浩と身体の関係を持ってから、嫌悪感のない自分に対してずっと抱き続けていた疑問だった。
 別に結論が欲しいことでも、またゲイでもノーマルでも俺が変わるわけではないので気にしないようにしていた。
 しかし松原さんの話に女の人はこんなにも乙女になるものなのかと思い、そういうものを持っていない自分たちを振り返ったのだ。
 男同士であることを隠してはいる。だが、俺としては気持ちが悪いものだと判断したことはなかった。
「んー?どうだろ。ようちゃんは今まで男も女も好きになったことないんだよね」
「だがおまえ男だろ。それに女は苦手だし」
 それを人はゲイと言うのではないだろうか。
 事実だけを述べて、辿り着いた先だ。だがそれは俺にとってしっくりくるものではなかった。
 それに史浩は女と付き合ったこともあるらしい。きっと世間ではバイと扱われることだろう。だがそれも、どうも馴染まなかった。
 二人して顔を見合わせる。
「ようちゃんはさ、女が苦手だって言うけど。それなら人間全般ちょっと苦手じゃない。好きなのは俺くらいでしょ」
「言い過ぎだろ」
 どんだけ好かれている自信があるんだおまえ、と突っ込むと史浩は照れた。褒めていないのだが都合の良い思考回路だ。
「俺が初恋で、最後だから。ノーマルでもゲイでもないよ。俺オンリー」
「………言ってて恥ずかしくないか?」
 自分が相手に対して、貴方だけというのならばともかく。その逆というのはどうなのだろうか。そんなに俺がおまえのことを好きだという確信があるのか。
「ちょっとね」
「だろうな」
「恥ずかしいついでに一緒にお風呂入ろうか」
 よくそんなことを言えるものだと、俺はまだ残っているコーヒーを飲みながら思った。
 付き合い始めたばかりの恋人たちのようだ。
 初々しさはどこかに行ってしまった、というより初めからなかったとも言えるけれど、俺にとっては耳が痒い。
「疲れるから嫌だ」
「疲れるの?」
 風呂に入るだけで疲れるはずがない。それを分かった上で、にやにやとした笑いを見せられる。
(おまえだってそのつもりのくせに)
 平穏に風呂に入るつもりなんて毛頭無いのだと、その顔が言っているではないか。
「疲れるんだよ。だからせめて風呂くらいはゆっくり入らせろ。どうせ風呂から出たら疲れる羽目になるんだ」
 それは主に日曜日に告げられることだった。
 だが今日はそういう気分だったのだ。松原さんの話に刺激されたのか。出迎えてくれた史浩に少しばかり心動かされたせいか。
 真面目に自分たちの話もしたところだ。身体で確かめることも悪くないだろう。
「それは、期待に応えないとね」
 疲れる羽目、というのを是非とも実戦したいのだろう。
 舌なめずりでもしそうな目をしている史浩に、早まったかも知れないと僅かな後悔が過ぎった。


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