ベッドサイドにある淡いライトに照らされて浅い息を吐いた。
 眼鏡を外しているせいで俺の視界はぼやけている。
 だが間近にある史浩の顔が、とても満足そうなことくらいは見えた。
 潤んでいる瞳は欲情しているからだ。きっと俺だって大差ない。
 いや、もっと浅ましい顔をしているかも知れない。
 なんせ史浩の上に乗って、後ろに男くわえ込んでいる状態なのだ。
 猛ったそれがどくどくと脈打っているのが、まるで自分の内蔵の一部であるかのように感じる。
 他人が中にいる感覚は何度繰り返しても新鮮であり、陶酔しそうなほど特別な気持ちになれる。それがきっと、心身共に気持ちが悦いということなのだろう。
 最初は痛みが勝っていたのに、人間の身体はよく出来ている。ちゃんと快楽だけを追いかけることを覚えた。
 腰を揺らすとくわえ込んだところからずくりと、溶けてしまいそうな快楽が広がっていく。脳味噌を馬鹿にするそれは麻薬のようで、あれほど怖いと思っていた行為も今では嫌がりもしなくなってしまった。
 その変化は史浩にも分かるのだろう。
 俺の腰を支えながらも、楽しそうに俺を眺めている。
 見られていると羞恥を覚えてしまうので遠慮しろといつも言うのだが。きいてくれたことがない。
 今日も目を塞いでしまおうかと思って手を動かす。
 だが目を塞ぐという行為に、俺はふと思い出すことがあった。
 そして史浩を見下ろしている自分に、口角が上がった。
「どーしたの?」
 不意に笑った俺に、史浩は怪訝そうな声を上げた。
 だが俺は首を振る。
「いや、大したことない」
「何よ、気になるじゃん」
 ねぇと、言いながら史浩は俺の背中を撫で上げる。優しい手つきだが肌が粟立つ。
 しかし丁寧な促しにも俺の口は重かった。
 せっかく甘ったるい雰囲気なのだ。蘇ってきたろくでもない記憶など言ってしまえば、きっとこの空気は破壊されることだろう。
 しかし史浩は促すことを止めない。むしろ黙っていれば何かやましいことでもあるのかと勘ぐられそうだった。
「どん引きだぞ?」
「萎える?」
「かもな」
 史浩がそれに対してどんな判断を下すかは不透明だ。もしかするとうわぁ…と一言零して静まるかも知れない。
 もしそうなれば空気が白けるので俺は躊躇ったのだが。
「でもようちゃん喘がせたらすぐ復活するからいいよ」
「俺が喘ぐこと前提か」
 たとえ史浩が萎えたとしても俺は別に萎えないので、そりゃ触られれば喘ぎもするだろう。腰を突き上げられれば呆気ないだろうし、そうでなくとも俺のものは上を向いたままだ。扱かれれば耐えられないだろう。
 しかし俺が喘げば簡単に盛るというのも、喜ばしいような嘆かわしいような。
「昔俺を生んだ母親が、自宅に男引っ張り込んだって言っただろ。そん時にヤっている最中も見たことあったんだが、丁度この体勢だったなと思って」
 知らない男の上に乗って腰を振っていた母親の姿は、哀しいことにまだ覚えている。
 それだけ幼心に突き刺さった光景なのだろう。
 当時は何がなんだか分からなかった。ただそれは見てはいけない、秘められるべきものであるという印象だけ強く感じていた。
 そしてどこか気味悪かった。
 あの光景の意味が分かった時に、酷く嫌悪感を持ったものだ。女が汚れた物に見えて仕方がなかった。
 けれどそれから数年経った俺は、あの母親と同じ体勢で同じように男をくわえこんでいる。自分が男、同性であるにも関わらずに、だ。
(でも俺に子どもはいないし、既婚者でもないからな。不貞には当たらない)
 それに俺はこんな光景を誰にも見せるつもりはない。
 たとえこれを見て傷付くような人間がいたとしても、俺はこの男と真っ当に付き合っていると言うし、恥ずかしいとは思わない。
 好きだと思ったから自ら望んで上に乗っている。他に心奪われた相手などおらず、この男もそれを願ってくれている。
 みっともなくとも、浅ましくとも、俺はあの時の母親と自分は違う生き物だと思った。
 だがこんな時に過去のトラウマとも言えるようなことを言い出した俺に、史浩はどう思うだろうかとじっと表情を見た。
 眼鏡がなくとも、うっすらと汗ばんだ肌が分かり、そしてたまに見惚れるほど格好いい顔の男はくいっと口角を上げた。
 愉快そうなその笑みは、意外なものだった。
「騎乗位が得意な血筋なんじゃない?」
 唖然とした。
 なんて馬鹿馬鹿しいシモネタなのか。
 人の、ある意味深刻な記憶の話をしたというのに、返って来た言葉がこれだ。
(そもそも俺は騎乗位なんて得意じゃないだろ。おまえはたまに乗せたがるけど、俺が途中でへばって結局おまえが動いてるじゃねぇか)
 自分の上で喘いでるの眺めるのが好きだと言って、この体勢は取るけれど。最後は若さに任せて下から突くくせに。何が得意なものか。
 だがそんなあほとしか言いようのない台詞に、俺はたまらずに笑い出してしまった。
 そして腹の奥から湧き出てくる愛おしさに、史浩の頭を掻き抱いた。
(これでいい。こういう奴だからこそ、俺は一緒にいられるんだ)
 重苦しく取られたら、きっと俺はやっぱり自分のこの記憶は苦しいものなのだ、悲惨なんだと思っただろう。そしてもう二度と口に出さなかった。
 けれど馬鹿みたいな感想を述べて、史浩は俺の記憶を軽くしてくれる。
 本当はそうして笑えるものじゃないと分かってる。苦く醜いものだ。けれど本当の気持ちを察した上で、あえて茶化したのだろう。
 だって俺はそうして欲しかったから。
(おまえの一番すごいところは。俺の気持ちの重みをちゃんと考えて感じてくれるところだよ)
 俺の気持ちをちゃんと思ってくれるところだ。
 口に出して褒めたことはないけれど、照れくさくてそこまでは言えないけれど。
 そういうところが好きだと思う。
「俺は、男の趣味は間違ってないな」
 掴んだ男はこんなにも優れている。こんなにも自分と相性が良い。
 きっとそこいらの女たちよりずっと、男を見る目があるはずだ。
 選ばれた男は俺の胸に顔を押しつけて笑ったようだった。
「当然じゃない?」
 挑発的ですらある声に、俺は快楽に近い歓喜を覚えた。
 


「月曜日でもないのに怠そうね」
 出勤時、駅から会社まで歩いていると松原さんとばったり出会った。
 遅刻しなくて良かった、と安堵している最中だった。
(ヤり過ぎましたなんて、言えん……)
 この感じは昨日もあったんじゃないか、と自分に言いたくなるけれど連日だという事実を認めたくなくて思考を止めた。
「喧嘩でもした?」
 心配そうな松原さんには悪いが、俺たちの仲は悪くない。むしろ仲良すぎたくらいなので、いやもう考えてはいけない。
 ヤりまくりで腰が痛いです、結局昨日は下に押し倒されて散々啼きましたなんて。思い出しても無意味だ。
 溜息を押し殺して松原さんを見ると、俺より酷い顔をしていた。
 目が腫れている。明らかに昨日泣きましたという様子だ。そんな様を見たことがなくてぎょっとした。
「どうしたんですか…?」
 昨日彼氏のことで相談されていただけに、何か深刻な状況になったのではないかと疑ってしまう。まさか暴力沙汰になったとか、そういうことではないだろうか。見たところ外傷はないようだが。
「喧嘩したの。もう限界だったみたい」
 予想通りの台詞だが、それにしては暗いところが窺えない。無理をして隠しているのかも知れないが。どこか晴れやかさもある。
 だからこそ一層謎だった。
「泣きながら彼氏に自分の気持ちを訴えて、そしたら彼氏も泣きながら自分の言いたいこと言ってくれて。二人して抱えてたこと全部ぶちまけてきた」
 もしそのきっかけが昨日の昼飯だったとすれば、松原さんは相当溜め込んでいたことだろう。たったあれだけで刺激を受けるなんて、限界なんてとうに超えていたのだ。
「仲直りしましたか?」
「したよ。思ってたより、ずっと簡単だった」
 嬉しそうに微笑む松原さんは、疲れが見えるし顔色も良くない。だがとても幸せそうに見えた。
 きっと昨日の喧嘩は特別なものになったことだろう。
「言って良かった。彼氏も同じ気持ちだったみたい。だからこれからは言いたいことがあったらちゃんと言うようにする」
 吹っ切れたらしい松原さんはぐっと拳を握る。新しい気合いが滲み出てきている。
「あんたくらいなら私が受け止めてやる!って宣言してやったわ!」
「松原さん男前」
 それは男側が相手をときめかすために言うべき台詞ではないかと思うけれど、松原さんが言うと妙にしっくりくる。
 大体焦げ茶色の緩く波打っている長い髪やら、優しい色合いのワンピースだのを着ているのに言動がざっくりしていて言動が豪快なのだ。
 彼氏に対しては乙女かも知れないが、仕事ぶりの剛胆は男に負けていない。少なくとも俺より強いのだから、その決意も堂々としたものだ。
「当たり前よ!やっぱり私はこうじゃないと!」
「そうですね」
「やっぱりね、無理してたんだと思う。彼氏の前では可愛くありたかったけど、言いたいことも言えないんじゃ寂しいよね。自然のままがいいんじゃないかな」
 言いたいことを言わないってことは、自分のこと知って貰う機会を一つ失ってるってことだよ。ようちゃんの気持ちを俺から隠すの。
 いつか史浩にそんなことを言われたことがある。
 そう言われると、史浩にとって嫌なことかも知れないと遠慮していた事も少しずつ口にするようになった。
 松原さんたちも、そんな風に繋がっていくのだろうか。
「彼もそれがいいって、言ってくれたから」
 そう言って笑う人の、堂々とした自信を作ってくれたのは彼氏なのだ。
 好きな人の影響力というのは、その人を変えてしまう。
 そういうものだと情報として持っていたけれど、目の前にすると眩しい。そして少しばかり羨ましかった。
(喧嘩じゃなくてもこれだけ泣くくらい言い合ったら、仲直りした後は絶対ヤり過ぎて身体ぼろぼろの疲れ果てた朝を迎えるもんな……)
 喧嘩も言い合いもしていないのに疲労を背負った朝を本日迎えているのだ。元気良く喋り、隣でしっかりとした足取りで歩いている松原さんが羨ましい。
 仲が良いのはきっと喜ぶべきことなのだろうが、もう少し、かなり、史浩には節度というものを持って欲しかった。
「今日もばりばり仕事するわよ!」
 輝かしい人はそう声を上げる。目も眩むような雲一つ無い空に相応しい決意だ。素晴らしい、社会人、会社勤めとして誇りに思うような姿だ。
 そして我が身の重さと、その原因を思い出しては溜息をついた。




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